名良橋 晃がワールドカップ初出場を振り返る「失敗を重ねて成功に繋がる」

名良橋晃が語る、1998年のワールドカップ

1998年、日本は悲願だったワールドカップ出場を果たし、ついに本大会のピッチの上に立った。初出場でどういう準備をすればいいかなど手探りだったが、それなのに世間の期待はどんどん膨らみ熱狂が渦巻いた。 そんな中、選手たちはどういう気持ちで臨んでいたのか。22年前のことなのに、まだ生々しい日本サッカーの歴史的瞬間を、3試合とも出場した名良橋晃氏に飄々とユーモアを交えつつ語ってもらった。

名良橋 晃が語る「1998年」

日本が初めてワールドカップに出場した1998年は、2月にオーストラリアのキャンプで始まりました。そこでオーストラリアとシドニー・ユナイテッドと試合をしてるんです。

僕は3-0で勝ったオーストラリア戦だけ出てました。シドニー・ユナイテッド戦は選手を24人使うテストマッチで、あまり記憶がないですね。

 

そして3月に日本でマールボロ・ダイナスティカップ(現・E-1選手権)がありました。初戦は韓国戦で、しかも横浜国際総合競技場(現・日産スタジアム)のこけら落としだったんですよ。ものすごく寒い日でしたね。

韓国戦は独特の雰囲気なんです。やっぱり他の試合とは違うんですよ。本当ならワールドカップの準備ってことになるんですけど、そういうんじゃなくて、ここだけには負けたくないというプライドがかかったゲームなんです。

 

僕自身としては1997年9月28日に国立競技場でやったワールドカップ予選で逆転負けしてたから、今回は借りを返さなきゃいけないという思いはより強かったですね。

あのころの日韓戦って今よりピリピリしてたんですよ。ヒリヒリしてるというか。韓国代表にもJリーグででプレーしてる人たちがいるんですけど、でもやっぱり両国のプライドというか、そういうのをバシバシ感じました。

 

2002年のワールドカップが日韓共催に決まって、だんだん日韓って友好関係も強くなってきた感じもあります。でもこのころまではガツガツ、局面での潰し合いが激しくて、プレーしててすごくやりがいがありました。僕は韓国戦って自分が成長できた要因の一つだと思いますね。

 

その韓国戦は18分にゴン(中山雅史)さんが魂のヘディングで先制したんですけど、21分にすぐ追いつかれて。それでも89分、城彰二のゴールで2-1と勝つことができました。

その次の香港選抜戦は5-1と大勝したんです。でも内容的には良くなかった記憶があって。点は取ったんですけど攻めあぐねたという印象がすごく強いゲームでしたね。

 

そして最後の中国戦は0-2と完敗でした。中国は両サイドに早くて大きな選手を置いてグイグイ押し込んできて、僕たちは何もできないまま終わりました。試合後にブーイングを浴びたのを覚えてます。

 

名良橋晃氏が1998年を振り返る

韓国とのワールドカップ共催記念試合

その次は4月1日にワールドカップ共催記念試合としてアウェイで韓国戦が開催されたんですよ。この試合、僕はずっと記憶に残ってます。イチ(市川大祐)の日本代表デビュー戦ですよね。僕が先発じゃなかったのは中国戦の影響もあったと思います。

 

しかもこの試合の直前のリーグ戦って僕が所属する鹿島アントラーズとイチのいる清水エスパルスだったんですよ。さらに本当だったら右のはずのイチがなぜか左に回って、僕の前にポジションを取っててマッチアップしたんです。

「なんだよ、これ。絶対マスコミが食いつくじゃん」って思いながらプレーして。その流れからこの試合なんですよ。

 

韓国戦のスタメンがイチっていうのは分かって、試合が夜だったんで、昼間に僕と同じくサブに回っていた小村徳男さんが誘ってくれて、悔しさを噛みしめながらランニングしてました。

僕は途中から出るチャンスがあるかと思ってたんですけど、小村さんは井原正巳さんが途中でケガしたので出場したのに、右サイドは結局イチがフル出場で。

 

僕はもう個人的には悔しさしかなかったですね。イチって高校生だったじゃないですか。Jリーグでのフル出場もないし。それだけオレはまだ、一人前じゃないですけど、そういう感じでは岡田武史監督には見られてるんだなって。

左は相馬直樹が安泰だったんです。右はまだまだ、自分にとっては向かい風というか、そういう中で戦うんだろうと分かりましたね。これがイチじゃなくて、僕が知ってるJリーグに出ている選手だったら、仕方ないと思ったか、そこまで危機感が高くなってなかったかもしれないですね。

 

リーグにはいろんないい選手がいたから「また競争の繰り返しだ」ってぐらいの感じだったんでしょうけど、それがイチという新しい選手が入ったことで、自分の中ではより危機感が募りました。しかもこの試合は韓国に負けましたからね。雨の中のどろんこサッカーで。

 

岡田監督とのエピソード

名良橋 晃が語る、岡田監督とのエピソード

岡田監督は僕に対して何にもフォローしないんですよ。少なくとも僕の中では岡田監督に何か言われた記憶はないです。でもそれで気持ちに火がついて、代表からクラブに戻ってすぐの試合だった4月4日の京都戦で点を入れたんです。イチの存在でさらにモチベーションが上がったというか。

 

その次は5月のキリンカップでした。5月17日に国立でパラグアイと戦うんですけど、このときはもう岡田監督がワールドカップ初戦のアルゼンチンを想定して、3バックというのを僕たちに明言してました。

当時って、4バックと3バックのどっちがいいかっていう議論が盛んで、いろんな話がありましたね。今の3バックのイメージとは違って、このころって3バックってすごくネガティブなイメージだったんですよ。5バック的な感じでもあったんで。

 

自分としては3バックになったらウイングバックが4バックのサイドバックよりもアップダウンを繰り返さなきゃいけないと思って、追い求めるプレースタイルがより高くなったというか。僕にとって3バックって、それだけだったんですけどね。

パラグアイ戦は序盤の7分にあっさり先制されて、86分にやっと追いついたんです。この試合でもやっぱり攻めあぐねて、思いどおりに3バックが機能しなかったという印象がすごくありました。

国内の送別試合

国内の送別試合になった5月24日に横浜国際総合競技場でやったチェコ戦は0-0で、井原さんと中西永輔さんと斉藤俊秀という、それまでとちょっと変えてきた組み合わせでディフェンスラインを組んでました。

でも守備よりも、この試合も無得点だったんで、ゴールというところのもどかしさもありましたし、両サイドがもっと前に出て行かないと攻撃に厚みが出ないと分かりましたね。

 

4バックだとサイドバックは中盤との絡みで崩せるんですけど、3バックのワイドだと、単体で、自分で仕掛けて突破してというのが必要で。そういう特長が求められる、より攻守で対人プレーに強くならなければいけないと、さらに思いました。

 

スイス最終合宿での勘違い

スイス最終合宿での勘違い

そこからスイスの最終合宿に行くんです。ケガ人が出ることを考えて選手を25人連れて行って、そこから22人を選ぶという最後の選考もあり、ワールドカップの準備もあったんです。

 

僕は、最後の選考って岡田監督が決めることなんで、自分は日々のトレーニングを一生懸命やるしかないと思ってました。そういう意識でトレーニングしてましたし、それよりもアルゼンチン、クロアチアという強豪がいるグループに入ってたので、どういう展開になるだろうかとか、そういうことへの意識が自分の中では高かったかなと思いますね。

 

岡田監督が「1勝1分1敗」という目論見を話してたらしいんですけど、そんな話題はチームの中でなかったですし、僕自身はそんな星勘定は気にしなかったですね。

それに鹿島で培ったジーコイズムというのが体に染みついていて、特にジーコの母国のブラジルとはライバル関係のアルゼンチンなので、「やるからにはやってやろうじゃないか」と。

「3試合やるんだったら3試合勝つ」「何が起きるか分からないし、やってやれないことはない」というポジティブな気持ちで臨もうと思ってました。

 

スイスに来たらイチの体が重そうだとは感じましたね。コンディションよくないのかなって。逆に自分は重くないというか、コンディションを維持出来てた感じでした。そして5月末に非公開でメキシコ戦があったんです。確か引き分けだったかな。そこで岡田さんはいろいろ決断したと思うんです。

 

ワールドカップ前の最後のトレーニングマッチが6月3日のユーゴスラビア戦でした。実はその日って、嫁さんの誕生日なんですよ。もし嫁さんの誕生日にいいプレーができなくてワールドカップのメンバーから落ちたら申し訳ないと思ってたんです。

 

そうしたら2日にみんなが集まって「あれ? 何があるんだろう?」と思ってたら「メンバー発表だよ」って。

もう時効なんで話しますけど、完全に勘違いしちゃってたんですよ。日本のサッカー関係者で忘れてたのは僕だけだったと思います。

 

自然体でプレーできたのが良かった

自然体でプレーできたのが良かった

僕はまだユーゴスラビア戦でもアピールできると思ってたから、メキシコ戦で緊張してなかったんですよ。完全に1人リラックスしてたんですよね。何も考えてなくてプレーしたのが良かったかもしれないです。

自然体でできたから。もしメンバー発表が3日だったらユーゴスラビア戦のほうが緊張してたかもしれないです。

 

イチはメンバーから漏れた後に体が軽くなったと言ってました。イチって、韓国戦にスタメンで出て、メディアから右サイド大抜擢かとか、そういう重圧が僕以上にいろいろあったと思うんですよ。それでストレスが強くなって思いどおりにスイスではプレーできなかったんでしょうね。

 

僕はメンバーに入って、ホッとしたまでではないんですけど、より開幕戦のアルゼンチンにどう立ち向かっていくかということに気持ちを切り替えました。

それでユーゴスラビア戦を迎えたんですけど、序盤で僕にチャンスがあってシュートしたんです。そうしたらボールがバーに当たったんですよ。それがその後の自分を予言してましたね 。

 

ユーゴスラビアには0-1で負けたけど、悲観するないようじゃなかったと思いますね。だからみんなワールドカップで行けるというか、いい流れでアルゼンチン戦に挑めるんじゃないかと考えてました。

日本が初めて経験したワールドカップ

今だったら大会が始まるまでにもっとヨーロッパや南米のチームと戦うような、別のアプローチをすると思うんです。

でも、そういう流れがまだ僕も代表にも日本サッカー協会にも分かってなくて。すべてがはじめてで、そのままの流れでトゥールーズのアルゼンチン戦を迎えたという感じでしたね。

 

試合当日は驚くことが起きたんですよ。ウォーミングアップのときに、安室奈美恵さんの「CAN YOU CELEBRATE?(キャン・ユー・セレブレイト?)」が流れてきたんです。

日本の試合ということでセレクトされていたんでしょうね。でも流れたときはビックリして「え? ここでこの歌?」って。鮮明に覚えてます。

 

実は1997年、それまでずっとプレーしていたベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)から鹿島に移籍したとき、この歌がよく流れてたんです。ちょうどフジテレビのドラマ「バージンロード」の主題歌にもなっていたんで。

当時は鹿島で実際にプレーできるのかなっていう不安もあったし、新天地への期待感もあったし。そのふたつの思いが一緒になってこの歌の記憶になったんです。だからウォーミングアップのときに流れて、何か通じるものがあるなって思って。

 

初戦のアルゼンチン戦

初戦のアルゼンチン戦

試合のことに戻ると、よくミーティングなんかでアルゼンチンの南米予選のゲームを見てたんです。予選のアルゼンチン、ものすごかったですよ。切り替えが早いし球際厳しいし。技術もあるし、戦うし。そんなゲームを結構見てたので、このアルゼンチンすごいってしか思ってなかったんです。本当に優勝候補のチームなんだなって。

 

でも実際に蓋を開けてみると、「こいつらペースを落としてるな」ってしか思えなかったですね。「割り切ってサッカーしてる」とまでは言わないですけど、エリアの外までは日本にも来させるけど、そこではね返すという省エネサッカーをやってたというか。

 

僕たちはアルゼンチン戦で100パーセントの力を出すように準備してるじゃないですか。でもアルゼンチンは100パーセントじゃないんです。優勝のためのコンディションを調整してるというか、楽して勝てればそれで越したことがないような、そういう展開でした。悔しかったですね。南米予選のチームと全然違って。

 

アルゼンチンは1点取って、さらにペースを落としてそのまま流して1点差で試合を終わらせました。相手にとって一番効率のいいスコアですよ。自分の中では悔しさしかなかったですね。

 

ただ、終わった後のみんなの雰囲気はそんなに悪くなかったと思うんです。アルゼンチンに対しても少なからずチャンスは作ったと思うし、ワールドカップの雰囲気というか、そういうこともある程度選手も理解したと思うので。岡田監督もそんなにネガティブな言い方はしてなかったですね。「まだ2試合あるから」って。

 

2試合目 クロアチア戦

次はナントでのクロアチア戦で。クロアチアも初出場だったんですけど、選手はWOWOWの海外サッカーで見るメンバーばっかりだったんで、そんなに簡単じゃないって思ってました。

1996年のEUROでも準々決勝まで行ってましたし、そこで敗れたのが優勝したドイツでしたし。厳しい試合になるとは覚悟してたんですけど、いい流れから試合に入れたんです。あの試合は暑かったんですよ。それが日本に有利に働いてたんで。

 

前半33分にヒデ(中田英寿)からゴンさんにパスが通って、ゴンさんがいいトラップで抜け出す決定機があったんです。ゴンさんに聞かなきゃ分かんないですけど、僕の見解としては、ゴンさんがゴンさんらしくなくスパッとコントロールしたことで運を使っちゃったのかなって。ゴンさん、運を使うのはそこじゃないよって思ってました(笑)。

 

僕は前半の途中ぐらいから右のかかとのテーピングが痛み出して、それが気になってましたね。でもテープをすべて取っ替えると時間がかかるじゃないですか。だから我慢しながら「神様いじめないで」と思いながらやってました。

 

やっとハーフタイムが来て一目散でロッカールームに戻ったんです。案の定、マメができててそれが痛くて、それをハーフタイムに修正して後半に出て行ったというのが裏話ですね。岡田監督は僕が監督より早く、真っ先にロッカールームに帰ったんで、「アイツはトイレか?」と考えてたそうです。

 

試合は結局また0-1という、相手にとって効率のいい展開で。それで連敗したことで、もうグループリーグ突破はなくなりました。だけど最後のジャマイカ戦で何としてでも勝たなきゃって。「日本の人たちに申し訳ない」しかなかったですね。

 

みんなが熱狂しているという情報は入ってましたからね。その中でアルゼンチン、クロアチアって強豪ではあるにせよ、勝てない。しかも無得点じゃないですか。それも申し訳ないと。何としてでも、形は何であれリヨンでのジャマイカ戦は絶対勝たなきゃいけないって。それはより思いました。

 

3試合目 ジャマイカ戦

プレッシャーというか、もう僕は開き直ったというか。だからとにかく点を取りに行こうという思いでこの試合に入ったと思います。日本の人たちも「ジャマイカには勝てよ」って考えてたと思うんですよ。ジャマイカってアルゼンチンに0-5で負けてたというのもあって。

 

ところがよもや、カウンターで39分と54分に2ゴール、ポンポンとやられて。日本はそれまで以上にこの試合ではチャンスを作れてたんですよ。

シュートまで行けてたし。でもその中で相手に先行されてリードを広げられて。 僕は2点取られたことでさらに開き直って、もう行くしかないと思ってました。それに2点取られた後は4バックに変更したんで、さらに攻撃的な姿勢をさらに強く出せたかなと。そうしたらボールが来たんですよ。

 

今でも覚えてるんです。名波浩からのフワッとしたボールが来てシュートして。でもそれがポストに当たったんですよ。ここでギリギリ外れるのって、ユーゴスラビア戦のバーに当たったところから繋がってる気がしましたね。あれが入っていればまた違った景色が見えたかなって。

 

でもいいんです。日本のワールドカップ初ゴールがゴンさんだから絵になったんですよ。あれが名良橋晃だったら何にも絵にもならないし、マスコミの方も「名良橋ゴールか……」ってなっちゃっただろうし。あれはゴンさんだからよかったんです。それみんなからも言われるんです。「あれポストでよかったな」って。

 

その後79分にシンジ(小野伸二)が交代出場して日本のスイッチが入りましたね。シンジは右サイドに入って、最初に相手のマタを抜いてシュートしたんですよ。「なんだコヤツは」と思いましたね。「まったく緊張感ないんだろうな」って。アンダー世代で大舞台を踏んでますからね。その流れからですね。攻撃的な姿勢を出しつつ最後まで戦いました。

 

でも結局は負けちゃって3戦全敗でしたからね。悔しさしかなかったですね。帰りのバスの雰囲気は暗かったし、僕の中では世界と比べると何ができて何ができないと整理できたところもあったので、よりワールドカップ後は、世界でやってみたいという思いが鮮明になりました。

 

ワールドカップが終わって

ワールドカップが終わって

日本に帰ってきたら空港で城彰二に水を浴びせる人もいて。みんなそれぞれの考えもあるし、そこは本当に申し訳ないという……。それだけでした。

みんなの期待値が高かったからこそ、本大会に出場して、出たからには勝とう、アルゼンチン、クロアチアは厳しいけどジャマイカにはって、そういう考えの人もいたと思います。

 

今だったら3敗でもおかしくないと冷静に考える人もいたんでしょうけどね。そう言えば岡田監督って2010年南アフリカワールドカップのときは星勘定を言わなかったですよね(笑)。日本サッカー界も学んできたというか。

2020年10月と11月の試合はオールヨーロッパ組で、昔戦った僕からすると、すごく日本サッカーって成長したんだなって。1998年フランスワールドカップのときはオール国内組で、大会が終わってからヒデがイタリアに行きましたけど。それを考えるとこの22年の進歩って、もうすごく突っ走った、いろんなことがあったなって。

 

ただ1998年のころのみんなの期待値がすごく高くて、誰もが松木安太郎さんで「イケイケ」だったっていう、その熱は失ってほしくないんですよ。見る側にとっても、楽しむところは楽しんでほしいし。

いろいろあったけど、あのワールドカップって、僕はサッカー人生の中でいい思い出の一つです。ワールドカップに出られる人って数少ないですからね。そのメンバーの中に入れて、うれしかったですね。

小さいころからの夢が本当に叶ったというのは、自分の中で本当によかったという思いです。あれで2002年日韓ワールドカップに出たいという思いが強まりました。残念ながら出場できませんでしたけどね。

 

名良橋 晃の「やりたいこと」

僕は、最終的には指導者を目指したいと思ってます。そしてプロのチームというより、育成のところをやってみたい、突き詰めたいと考えてます。

中高校生というまだ完成されてない選手を、サッカーだけじゃなくて、いろんなところでぶつかり合いながら、子供たちと一緒に成長していきたいなって。

 

サッカーだけじゃなくて、将来社会に出たとき、当たり前のことが当たり前にできる人間を作りたいと思っていて。その思いが強いんで育成の現場というのに立ってみたいと思っています。

一番伝えたい経験は、「サッカーには正解がない」ということですね。指導者たちがいろいろ言ってもピッチ内で状況を変えるのは子供たちなので、その中で消極的にプレーをしてほしくないなと。失敗しないのが一番ですけど、失敗を重ねることも成功に繋がると思うんで。

 

だからサッカースクールで子供たちと接する中で中途半端にやらないというか、こっちが真剣にやれば子供たちも少しでも真剣にやってくれる、そういう環境も作ってます。そしてサッカーだけじゃなくて、何に対しても100パーセントで全力でやりたいなって、そういう考えを常に持ってます。

 

【1998年 日本代表ワールドカップまでの道のり】

2月15日 3(1-0)0 オーストラリア 得点:5分中田英寿(PK)、65分、70分平野孝

2月19日 1(1-0)0 シドニー・ユナイテッド 得点:29分三浦知良

3月01日 2(1-1)1 韓国 得点:18分中山雅史、89分城彰二

3月04日 5(3-1)1 香港選抜 得点:22分、36分(PK)中田英寿、40分増田忠俊、71分名波浩、85分呂比須ワグナー

3月07日 0(0-1)2 中国

4月01日 1(0-1)2 韓国 得点:61分中山雅史

5月17日 1(0-1)1 パラグアイ 得点:86分相馬直樹

5月24日 0(0-0)0 チェコ

6月03日 0(0-0)1 ユーゴスラビア

6月14日 0(0-1)1 アルゼンチン

6月20日 0(0-0)1 クロアチア

6月26日 1(0-1)2 ジャマイカ 得点:74分中山雅史

 

名良橋 晃(ならはし あきら)

名良橋 晃(ならはし あきら)

1971年11月26日、千葉県生まれ。千葉英和高校から1989年、JFLのフジタ(ベルマーレ平塚の前身、現・湘南ベルマーレ)に入団し、1994年にJリーグに昇格。1997年に鹿島アントラーズに移籍し、2007年、湘南ベルマーレに戻るとその年で現役を引退。

1994年から日本代表にも選出され、1998年フランスワールドカップではグループリーグ3試合に出場。現役引退後は解説やコメンテーターとして様々な番組に出演しつつ、SC相模原ジュニアユースの総監督も務める。

引退後に体重が急激に落ち健康状態が心配されたが、「元々食は細かったので現役時代は無理して食べ体重を維持していた」と現在も健康であると語っている。

(写真:神山陽…Backdrop)

 

 

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「ディエゴ・加藤・マラドーナ」こと加藤謙太郎 やり続けることでマラドーナに会う夢を叶えた

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Jリーグの前座試合などでアルゼンチンユニフォームの10番を見かけたことがあるかもしれない。その異様に太い大腿部を見ただけでも、ディエゴ・マラドーナに似ていると思うだろう。そしてプレーを見るとますます本物に見えてくるかもしれない。

 

それもそのはず、高校時代は名門のエースだった。それが「ディエゴ・加藤・マラドーナ」こと加藤謙太郎氏だ。憧れの選手をモノマネしながら追いかけた。あるとき、本物に会えるかもしれないチャンスが巡ってきた。果たして気まぐれな天才に会う夢は叶ったのだろうか——。 

 

マラドーナに会う夢を叶えた、ディエゴ・加藤・マラドーナ

名門 帝京高校のエース

 僕は元々横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)のジュニアユースにいたんですよ。でも中学2年生が終わるとき、3年生のクラスに上がれなくて、「神奈川クラブ」という町のクラブに行くことになったんです。

その「神奈川クラブ」で神奈川県の中学、Jクラブのジュニアユースも出場する高円宮杯全日本ユース(U-15)選手権神奈川県大会に出場しました。そこで横浜マリノスのジュニアユースも含めたJクラブの下部組織を全部破って優勝したんです。それで道が開けました。その後、帝京高校に入って10番をつけてプレーすることも出来ました。

 

 

大学に進学してプレーしたんですけど、社会人になるときプロは諦め、普通の会社員として働いたんです。あるとき、テレビを見ていて「芸人っていいな」と思い、そこから渡辺プロダクションの養成所に入りました。

渡辺プロダクションでは、最初、帝京高校の同級生とダイヤモンズというコンビを組んでコントをやってたんです。渡辺プロダクションは毎月ライブを開催するんですけど、必ず新しいネタを披露しなければいけないというルールがありました。

 

だから毎月死に物狂いでネタを考えてたんです。スベりたくないし、ウケたいし、事務所に認めてもらいたいと思って。あるときネタを作っていたら、僕が高校時代に左利きで体型も似てたから「和製マラドーナ」と言われてたことが頭に浮かんだんですよ。当時、パンツは短パンで、僕の68センチある太ももが出てたのもよかったんだと思います。

 

ディエゴ・加藤・マラドーナ氏のサッカーの実力はこちらの動画をご覧ください。

※音が出ますので、ご注意ください。

youtu.be

マラドーナのモノマネをはじめたきっかけ

 その時、帝京には矢野隼人というストライカーがいて、彼が「和製ロナウド」と呼ばれ、田中達也君という今もまだアルビレックス新潟で活躍している選手が「和製オルテガ」と呼ばれ、「和製トリオ」みたいなのがあったんです。 それで「あ、これはまだ体型がマラドーナだから、アルゼンチンのユニフォームを着て、『マラドーナが日本に来てファミレスに入った』というコントをやったらどうだろう」って思いついたんですよ。アイデアが浮かんだ瞬間、「これでオレたち売れた!!」って2人で抱き合って喜びました。

 

それでマラドーナ率いるアルゼンチンが1986年メキシコワールドカップで優勝したときのル・コックのユニフォームを探したんです。そのときは2005年だったので、まだネットで売ってました。ところが短パンが見つからないんですよ。

そうしたら相方の同級生が昔のアルゼンチンの色の短パンを持っていて、メーカー名を見たらル・コックだと言うんですよ。「くれ!!」とお願いしたんですけど、「無理。7万円だと売る」と言ってきたんです。

 

「なんでキリのいい数字じゃなくて7万円?」と思ったんですけど、もう僕たち2人はすっかり売れた気になっていたので、「すぐ取り返せるから買おう」と言って取り寄せました。相方も半分出してくれて。

それでライブで披露したんですけど、これまでの芸人人生で一番ぐらいスベりました。今だからこそ笑えますが、あの当時は相当ヘコみましたね。7万円も出したのに。それで静かにタンスの奥にユニフォームをしまい込みました。

 

やり続けることでマラドーナに会う夢を叶えた、「ディエゴ・加藤・マラドーナ」

芸人を辞めようと思っていた

 その後コンビを解散し、トリオを結成したんですけれどもそれも解散になって。それで芸人を辞めようと思っていたとき、サッカー仲間の有名芸能人の方から大阪の長居競技場であったJリーグの前座試合に呼んでいただいたんです。

僕は素の「加藤謙太郎」で出場しようと思ってたんですけど、何か芸を持ってるんだったらそれで出たほうがいいとアドバイスされたんです。それでしぶしぶタンスからユニフォームを引っ張り出して、「ディエゴ・加藤・マラドーナ」としてピッチに出ました。そうしたら、めっちゃめちゃウケたんです。

 

尋常じゃないどよめきとか笑いで、僕がボールに触るたびに跳ね返りがあって。大阪という土地柄もあったのかもしれないですね。僕もまだ若かったんで体もキレキレで、ワンプレー毎に湧いてくれて、転べば笑ってくれるし。あの感覚はまだ忘れてないですよ。

そこからはときどきテレビに呼んでいただいたり、エキシビション・マッチに出させてもらったり、サッカースクールに行ったり講演会をしたりと、お仕事をさせていただいてます。

 

ですが、他のみなさんもそうだと思うんですけど、今年の新型コロナウイルスの影響は本当に大きかったですね。「ディエゴ・加藤・マラドーナ」としての仕事は、5月25日の緊急事態宣言の前からなくなりました。サッカー教室などのイベントは9月までなかったですね。1つもないです。

でも僕自身も、子どものことを考えるとやっぱり感染させちゃいけないと気になりますし。もちろん呼ばれたら全力でやりたいとは思いますが、なかったので子どもたちのことで気を揉むことはなくてすみました。もちろん仕事としては苦しいですけど、やるほうとしてもやっぱり来てくれる人のことが心配ですし。

人材派遣会社の社長もしている

 ただ、僕はまだいいほうなんですよ。芸人として営業している以外に仕事もしてますから。僕は「京浜マネキン紹介所」という人材派遣会社の社長もやってます。横浜で祖母の代からやっている50年の歴史を持つ会社を継いでいて。

人材紹介業界も今、メチャメチャ大変なんですけどね。「マネキン」というのは「マヌカン」という言葉から来てるデパートの販売員さんのことで、自分たちが服を着て見せて販売するという立場の人のことです。

 

その販売員さんの紹介をやってるんですけど、お得意様である百貨店さん、デパートさんが新型コロナウイルスの影響で休業だったり時短営業だったりで。緊急事態宣言のときは休館してましたから。

宣言が解除された後も人がなかなかデパートに戻ってこないという状況なので、紹介業としても仕事量が自然と減ってしまって。業績としてはもちろん苦しいですね。何とか頑張りながら耐えなきゃいけないと思ってます。

 

僕はそうやって定職もあるんですけど、普通の「売れてない」というジャンルの、テレビとかいろんな事務所からのお仕事を頻繁にいただけない芸人たちは、本業以外の仕事ってだいたいアルバイトなんですよ。だから僕なんかよりも苦しくて。

しかも芸人がよくやるアルバイトは飲食業が多いんです。「まかない」でご飯が食べられるので、それが目当てで。ところが飲食業界も新型コロナウイルスの影響で休業したり時短になったり、あるいは閉店しちゃったりして仕事がなくなっちゃってたんです。独身だったらまだいいけど、家族がいると余計苦しかったようです。

 

地方から来ている芸人も多かったので、彼らは地元に帰って親に頼ろうと思っても、帰ろうにも帰れないし、親も帰ってくるなと言ってきて。仲いい芸人の1人は、パンの耳を一口ずつ食べて生き延びてたと言ってました。芸人の世界は「芸歴の長い人が短い人を連れて食事に行って全額払う」という慣習があるので、僕も連れて行ってあげたかったんですけど、会えないし、会食も出来ないし。

みんなが助かったのは特別定額給付金と持続化給付金のおかげでしたね。振り込まれたとき、知り合いは「電気止められなくてよかった」って言ってました。もうちょっと遅かったら本当に大変でした。

 

芸人のライブ

芸人のライブをどうか見にいってあげてほしい

 その後、状況は少しずつ改善してきて、7月過ぎぐらいにバイトは時短で働けるようになって、ライブもやっとできるようになってきて。事務所もライブを再開してますし、売れない芸人は自分たちで自主ライブをやっています。まだ大々的にやってるわけじゃないようなんですけど、どうか見にいってあげてください。

 

僕が「ディエゴ・加藤・マラドーナ」をやり始めたのは27、28歳ぐらいで、2007年だったと思います。今年で13年目ですね。やらせていただいているうちに、少しずつ知ってもらえるようになりました。前座試合に出たあと、素顔で帰るときに観客の人から「マラドーナ!」って声をかけてもらうようにもなりました。

本物のマラドーナに会いに行った

 そもそも僕がディエゴ・マラドーナさんを好きになったのは1986年、小学校4年生のときなんです。NHKで1986年メキシコワールドカップの特集をやってたんですよ。まずそこでビックリして、それでマラドーナさんのVHSのビデオを買って何度も見てました。

ビデオでは家のソファにマラドーナさんが娘さんを抱きながら座ってリフティングしてるんですよ。「なにこの人、座りながらやってんの!!」って。それで痺れちゃって。

 

ホント大好きで、ずっと「ディエゴ・加藤・マラドーナ」をやり続けたら、あるとき「ホンモノに会いに行こう」ってことになったんです。テレビや雑誌の企画じゃなくて、プライベートで。

きっかけの最初の最初は食事会ですね。今、僕はコネクト株式会社というところにマネジメントをお願いしてるんですけど、そのお願いすることになった2018年の食事会でした。

自分の会社もあるので最初は自分で自分のマネジメントをやってたんですけど、やっぱりメディア関係の部分が弱いとは思ってたんですよ。それで2年前にコネクトの百瀬俊介会長にお会いして食事をする機会があったんですけど、話を聞いているうちに自分から「お願いします」って自然に頭を下げてました。

 

百瀬会長は、日本人として初めてメキシコでプロサッカー選手になってプレーした方なんです。中学を卒業して単身メキシコに渡って、そこでプロになったというすごい人で。お話しをしているうちに感激して、「こういう方にマネジメントをお願いできたらいいな」って思ったんです。

そんな百瀬会長だから、メキシコサッカー界の人脈がすごいんです。仕事にしても友達にしても。あるとき、百瀬会長が「マラドーナに会いに行きたいよね。会いに行こうか?」とおっしゃるんですよ。そのとき、マラドーナさんはメキシコのドラドス・デ・シナロアというクラブの監督をなさってました。

ただし「行ってみても会えるかどうか分からない」ということでした。マラドーナさんってアポイントがあっても当日の気分で簡単にキャンセルなさる方らしくて。「最後まで分からないけど、一応、会えるまでの道筋はいろいろな人に頼んだから」と百瀬会長がおっしゃるので、「行かない理由はない」って1週間の休みを取って、「もうあとは運だけだ」と思って百瀬会長と一緒に飛んだんです。

12時間かけてマラドーナに会う

 たぶん「ディエゴ・加藤・マラドーナ」のことはマラドーナさんに伝えてあって、それでどう思われてるか分からないし、もちろん当日どういう状況になるかも分からないし。練習が上手くいってないというのも考えられるし、アポイントを取った日が試合当日の試合後だったので、連勝している、あるいは試合に負けた、なんかでもたぶんマラドーナさんの気持ちが違ってくるだろうし。でも行こう、って12時間かけてアメリカ経由でメキシコを目指しました。

現地に到着したら、試合前日の非公開練習も見せてもらえるかも、ということになったんです。アポイントの前日ですね。ホームスタジアムにメディアは入れなくて外で待ってるんですけど、僕たちだけは中に入れてもらって、スタンドから練習を見学させてもらうことになりました。

 

遠目で「生マラドーナ」見たとき、僕は感極まって涙が出てきてしまって。僕が好きになってから30年以上経って、生で見られるということだけで、なんか泣いちゃって。

練習って、僕はすごくピリピリしてるんだろうと思ってました。ところがまるで違うんですよ。チームはゲラゲラ笑いながらプレーして楽しそうで、マラドーナさんもそういう雰囲気で。そういうチーム作りをなさってたと思うんです。練習が終わって最後にみんなでセンターサークルで円を組んで手を叩いて締めるまでがそんな明るい感じでした。

 

チームがみんなロッカールームに歩いて行くとき、広報のフェルナンドさんがサッと監督のところに駆け寄っていったんです。しばらくするとフェルナンドさんが戻ってきて「会っていいよ。ピッチに降りてきて」って。

「え〜?!」ですよ。僕はてっきり翌日お会いするんだと思ってたので、メイクしてなくて、加藤謙太郎のまんまだったんです。ただアルゼンチンのユニフォームだけは持っていたのですぐに着て慌てて降りてって。そうしたらそこにいらしたんです。ホンモノが。

 

もうガチガチですよ。今、こうやって自分で話しててもしょうがないと思います。愛するマラドーナさん、会えるなんて思ってない人に会ったら、自然にああなっちゃうんだなって。

マラドーナの優しさ

 マラドーナさんはすごく優しくて、何度も握手とかハグをしてくれたんですよ。インタビューの最初に言ってくれたのが、「僕と彼は昔から一緒に住んでいて、僕がスペイン語、彼は日本語なんだけどアイコンタクトで意思疎通を図ってたんだよな」って。僕はマラドーナさんが冗談を言って僕の緊張を和らげようとしてくださってるんだ、ってすごい感じて。

それでも緊張し過ぎちゃってて、それから何聞いたかも覚えられてないぐらいです。「日本に対する印象」と「思い出に残っているゴール」は聞いたって覚えてるんですけど。マラドーナさんはスペイン語だし、僕は全然分からないんで百瀬会長が通訳してくださいました。

 

ただ、マラドーナさんがゴールの話で「ベルギー」っておっしゃったら、すぐ1986年ワールドカップ準決勝のことだと分かったし、ヘディングしたボールがゆっくりバウンドして転がる仕草をしながら「ミラン」って言われただけで、1988年のナポリがミランに4-1で勝ったときの先制点だって思ったし。

VHSのマラドーナさんのビデオを本当にすり切れるまで見たんで、ナポリ時代のことも覚えてるんです。浮き球のパスでオフサイドトラップを抜け出したマラドーナさんが、ペナルティアークの前にGKが飛び出してきたところで思い切りヘディングして、ループシュートがコロ、コロ、コロと転がりながらゴールに入るんです。だからスペイン語分かってないんだけど、思い切りうなずいてたんです。そのゴール集のVHSにもサインをもらいました。

 

それで話を聞いた最後に「僕はマラドーナさんのことを大好きで、ずっとあなたに憧れてて、あなたのプレーを真似してモノマネをやってます。やり続けていいですか?」って聞いたんですよ。そうしたら「もちろんだよ」って。だから公認していただけたかなって思ってます。そして僕の心の中にまた1つ見えないパワーが出たと感じました。

 

次の日の試合はマラドーナさんにとって大切な試合でした。優勝決定戦に出られるかどうかというゲームだったのに、残り数分で同点に追いつかれてしまったんです。僕は記者会見にも参加させてもらったんですけど、マラドーナさんはすごく暗くて、レフェリーの誤審を指摘したり監督退任を匂わせるような発言をしてたんですよ。どんよりして凍り付くような空気で。

僕はアポイントがあったけど、「あ、これは行っちゃいけない」と思って黙って座ってました。それで記者会見が終わって、マラドーナさんが会見室を出て行くからみんな立ち上がったところで、マラドーナさんが僕を見つけて「加藤!!」って言いながら僕をハグしてくれたんです。

そして「今日誤審があったんだけど、サッカーはときに勝てないこともある。加藤も頑張ってくれ」って話しかけてくれて、またハグを2回してくれて。周りの記者の人たちもビックリしてました。

 

その記者会見で僕は普通の格好をしてたんです。会見室にはメイクはもちろん、アルゼンチンのユニフォームを着て入ることも出来なかったから。それなのに僕を見つけてくれたのは、僕の顔を覚えていてくださったんだなって。「ディエゴ・加藤・マラドーナ」じゃなくて「加藤謙太郎」として会ってくださったことが、自分の想像以上で。「ディエゴ・加藤・マラドーナ」も見せたかったんですけどね(笑)。

 

やり続けたことで夢が叶った

やり続けたことで夢が叶った

 小学校4年生で初めて好きになったときなんて、まさか自分がホンモノに会うなんて思ってないですよ。正直に言うと子どものころどころか最近まで思ったことなかったです。本当にやり続けてよかったなって。はい。

マラドーナさんに会ったあと、講演やサッカー教室をやらせてもらったあとで子どもたちに伝えていることがあるんです。夢って、大きくても小さくてもみんなあっていいと思うんです。叶うと思ってない夢があってもいいけど、夢はたくさんあっていい。

 

「夢」って「目標」とも言うと思うんですけど、自分の中で中心になっている夢があったらそれに向かって努力するじゃないですか。自分の夢、目標を叶えたいから自分が努力するのは当たり前で。そういうのは夢を叶えるための最低ラインで。

それで僕がマラドーナさんに会って思ったのは、大きな夢に向かっていくときって、自分自身のために努力し続けるけど、最後は人が手助けをしてくれる、人が叶えてくれるものなんだって。人任せにするということじゃなくて、努力していれば人が助けてくれるんだって。

 

僕の場合は百瀬会長という方がいらっしゃって、百瀬会長から発信して、メキシコで10人以上の方々が会ったこともない僕のためにマラドーナさんに面会できるように動いてくださったんですよ。そういう方が動いてくださってたから会えたんです。

だから結果論かもしれないんですけど、会えるパワーみたいなものは感じてたんです。偉そうに聞こえるかもしれないんですけど、神様が優しく会わせてくださるみたいな。もちろん何回も手を合わせて祈ったりしてたんですけど、その会いたいという思いを持ってメキシコに降りたったら、なんか優しい風が吹いたんです。思い出しますよ。「優しかったな、空気が」って。

努力したうえで、人に頼ることが大切

 思い返すとサッカー選手になりたい夢を持ってたら、お父さん、お母さんがお弁当を作ってくれたり送り迎えしてくれたり、寝るところも用意してくれて。そういうことって日常的すぎて、あんまり感謝を感じることはないと思います。

感じてないことが悪いことではなくて、ただこういう話になるとやっぱり覚えててもらいたいんです。そこで人が動いてくれたんだって。自分のために技術を上げたい、能力を上げたい。だったら勉強することは当たり前で、でもそこまでやったらもっと人に頼っていいんじゃないって。

僕は高校生のときにプロサッカー選手になりたかったんですけど、でも正直に言うとプライドが高い部分もありました。今振り返ると。そういうのも踏まえて、もうちょっとというか、もっと……かなり人に頼ったりしてよかったんじゃないかなって。

 

夢を叶えたくて今もチャレンジしている子もいるし、まだ叶えられず頑張ってる子もいる、叶えた人もいる。叶えられる人のほうが比率としては多くないと思ってるんです。

最初から人に助けを求めるということじゃなくても、根本に夢に向かって進む心があったら日常生活の心構えや態度、人との接し方が変わってくると思うんですよね。そういうところが人から助けてもらえることにつながってくるんじゃないかなって。

 

それに「思い」って、叶うにしても自分が思ったときに自分の思い通りに叶うものじゃないんだなって感じました。そういうことを今、会う子どもたちに話してます。みんなに夢を大切にしてほしくて。大切にすると、きっといいことがあるから。

 

ディエゴ加藤マラドーナ氏がディエゴ・マラドーナ氏に会ったときの動画

夢叶う"ディエゴ・加藤・マラドーナ"のメキシコ旅

www.youtube.com

 

※取材協力:Sports Jungle10

 

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那須大亮の心に刻まれている「元気」と「遠慮」 今は亡き先輩2人からの言葉

サッカー系YouTuberとしてすっかりお馴染みになった那須大亮氏は、現役時代に数多くのタイトルを手にした。

新人王、ベストイレブン、リーグ戦優勝2回、天皇杯優勝2回、アジアチャンピオンズリーグ優勝1回、リーグカップ2回など、何度も栄光のときを過ごした。

同時に、どう壁を乗り越えていいか分からなくて苦しんだときもあったという。ショックすぎて記憶から飛んでいる試合もあるそうだ。そんな辛いときをどうやって乗り越え、現在につなげたのか。

活動もままならない現在の過ごし方とともに聞いた。

 

オンラインでお話をうかがいました

(オンラインでお話をうかがいました)

那須大亮が語る「苦しかった時期」

 僕が苦しかったときって、パッと思い浮かぶのはプロ1年目ですね。あれは節目でした。

大学3年生のときにサッカー部を辞めて、横浜F・マリノスにプロ契約していただいたんですけど、1年目はほとんど試合に出られず、出してもらえるようになったのは岡田武史監督になった2年目からなんです。

辛かったのは、試合に出られないことよりも自分が前に進んでないことに対してで。出場できないことを嘆くだけで、何かを変えようという努力を精一杯してなかった自分に対して、辛いというか情けないというか。なんかこう、葛藤じゃないですけど、すごくもどかしい気持ちで。でもそのもやもやした気持ちがあるのに、アクションを起こしてない自分というのが、ちょっと立ち止まってる感じ……とかそれに近いものあったって思います。

プライドが邪魔をしていた

 やっぱりいらないプライドってのが、多分あったんですよ。若いころってホントちっちゃなプライドというか、そういうのが邪魔して。「オレはこれだけできるのに」って思ってたし、大学サッカーやユースカテゴリーでやらせてもらって、ある程度自信を持ってマリノスに行ったつもりだったんです。

けど、その自信みたいなのがすぐに打ち砕かれて、出られない理由を他の何かのせいにしてたんすよね。自分に目を向けないっていう、一番やってはいけないことをしてました。出られない理由を周りのせいにしたり、環境のせいにしたり。自分に対してベクトルを向けるまでに時間がすごくかかりました。

努力の仕方とか、何をどうすればいいっていうのが自分自身で分かってなかったんですよ。なのにプライドみたいなのが先走ってしまって。ちょっと練習にも気持ちが入らないとか、俗に言う「腐る」っていうことを少ししてしまった時期があったんです。どうすればいいかっていうもがき方も自分で分かんなかったですし。だからそこはやっぱり辛かったですね。

自分にベクトルを向けられるようになったきっかけ

 自分にベクトルを向けられるようになったのは、周りの方に、先輩とかコーチとかにすごい恵まれてたからで。チームメイトには中村俊輔さん、松田直樹さん(故人)、中澤祐二さん、奥大介さん(故人)とか、有名な選手たくさんいて。

全員の言葉が残ってますし、プロプレイヤーとして18年間やらせてもらう上で、その方々の言葉っていうのがホントずっと心に残り続けてるので、人に恵まれた、人に助けられたんです。

松田直樹さんからの言葉

 マツ(松田)さんから言われたときは……ホント僕、元気なかったんですよ。あからさまに気持ちが乗らないというか。すると練習終わって、突然マツさんに呼ばれて「お前どうしたんだよ」って言われて。

「元気ねぇじゃん」って声かけてくれて。「いや、こうで」って説明したら、「お前さぁ。オレもそういうことあったけど、お前みたいなヤツが元気ないと、オレも元気出ないよ」「お前、元気出せよ」って。

僕みたいな、1年目のホント新人に言っていただいて。マツさんみたいな、その当時も日本代表でバリバリ活躍してた方に、そうやって励ましてもらうこと自体が非常にありがたかったですし、声かけてくれてたってうれしさを感じて。何気なくフランクに喋りかけてくれたんですけど、その言葉は自分がその年を乗り越えるきっかけの一つになりました。

 

本当は僕とマツさんはポジションが被るのかもしれないけど、マツさんは僕が成長して自分が刺激されることに対しての拒否反応がなくて。マツさんは自分に立ち向かってくる選手がいることを喜びとしてましたし、それが逆に自分の成長になるって考えていたと思うので。

試合中に罵声に近いくらい衝突するとかありましたが、マツさんには「どんどん言ってこい」って僕が試合に出るようになってから言っていただきました。プロとして衝突するとか意見を言い合ってコミュニケーションを取るんだから「お前も気を遣わず言え。気を遣ったらオレは怒るからな」って。

それぐらいの気迫を持ってやれと教えていただいていて、プロとしてどういう姿勢で、どんな気持ちを持って試合に臨むかとか、戦う姿みたいなことを非常に学ばせていただきました。

奥大介さんからの言葉

 奥さんには1年目からプライベートでもかわいがってもらったりしてたんです。でもあるとき叱られて。僕が2年目にボランチとして試合に出始めてから、同じポジションだった上野良治さんがケガしてたというのもあって、僕が良治さんの場所を取る形になったんですよ。それで練習とかで良治さんに気を遣うのがすごく見られたみたいで。

あるときご飯食べてたら「ちょっと、那須」みたいな感じで声かけられて。「お前、気を遣ってるやろ。あんなんだったら伸びんぞ」って、本気で言ってくださったんですよ。

普段そんなことまったく言わない人だったんですけど。「何、気を遣ってんや」みたいな感じで関西弁で言っていただいて。「お前、今後そんなんじゃあかん」って本気で叱っていただいて。まだ甘ちゃんだった僕に、プロで生き残るっていうことの意味を教えていただいたんです。

 

もうこのお2人はお亡くなりになりました。僕には大きなものを残していただいた2人なんです。その時期を乗り越えられたのはこういう方々の支えがあったからなんですよ。でも、みなさん何気なく言ってくださったことなので、ご本人たちは、シュンさんにしても「覚えてない」って言ってましたけど、僕はもうホント心にずっと残ってる、今でも残ってるくらい、刻み込まれた貴重な言葉でした。

 

那須大亮が語る「苦しい時期の乗り越え方」

那須大亮が語る「苦しい時期の乗り越え方」

 1年目は辛かったというか、壁とか挫折の乗り越え方とか努力の仕方がわかんなかったんです。でも、何にどうアクションすればいいとか、何を自分で変えなければといけないとか、そういう乗り越え方やもがき方が分かってくれば、壁とか挫折は必ず「学び」に変わるってのを、人生の中で体感してきました。そのときは苦しいですけど、この時間はどういう時期だっていう認識があれば、必ずいい時間になったり自分の糧になるって人生の中で経験したんです。

新型コロナウイルスが猛威を振るっている今もそういう苦しい時期だと思うんですけど、人生の糧になるという考えを持っておくことがすごく大事だって思って行動しようと思います。

「アテネ五輪の初戦」について

 僕のYouTubeの動画でも度々話題にしているあの試合……2004年アテネ五輪の初戦で、4分に僕のミスから失点したパラグアイ戦は、僕のサッカー人生の中で、相当というか、ワースト3というか、1位ぐらいにショックでしたね。

ミスしてからの記憶がほぼ飛んでますし、あのシーンを見たいとは思ってないです。別に悪い思い出だけとして残ってるわけじゃないんですけど、あのシーン、ミスしてから後は全然思い出せなくて、それくらいショックを受けてました。

キャプテンに指名してもらって、それはありがたいことでしたし、オリンピックを機に海外移籍だったり日本代表だったり、いろんな可能性があると思って、希望を心に抱きながらここで頑張ろうというときの、あの初戦でのミスだったんで。

 

(c)Kenichi Arai

サッカー日本代表 (c)Kenichi Arai

 

 だからもう自分で自分を地に足が付かない状態にしてしまって。 チームには迷惑掛けるし、サポーターもいっぱい来てくれて、たくさんの方々が全国から声援を送ってくださっている中で、やっぱりああいうプレーをしてしまったとか、そういうことに本当に、いろんな感情が交じりすぎて、その後は全く覚えてないですね。ショックすぎて。

PKで同点に追いついたときに落ち着けばよかったかもしれないんですけど、自分に余裕がなかったというか。あの当時もうちょっとサッカーを楽しむとか、気負いすぎないでマイペースにやれれば良かったんですけど、結局、あの当時はそれだけの技量が自分になかったんだなって、今考えれば思います。

監督の選択は素晴らしかった

 そのパラグアイ戦は前半で交代して、次のイタリア戦は徳永悠平さんと交代して出場したけど、ガーナ戦では使われませんでした。オリンピックでしたけど、僕は代表の試合の重みを分かってますから、監督がどういう選手を選ぶか僕はリスペクトしてますし、結果的にガーナ戦は勝ちましたし。

もちろん、ガーナ戦で出してもらえば個人的にはうれしかったかもしれないですけど、あのときは単純に僕に力がなかったと思います。あのミスは当時の自分が受け止めなければいけないことでしたし、それを受け止められなければ、仮に3戦目に出ていたとしても、ちゃんとプレーできたか分からないです。 だからガーナ戦で僕を使わなかったという山本昌邦監督の選択って、僕は素晴らしいと思ってます。

 

勝負の世界ってそういうものだし、それに代表チームというのは特にそういうものだと思っているので。そこでいい選手を使うべきですし、使わなければいけないと思ってますし。

それから僕は今、「意味がないことはない」と思ってるんです。あの試合も僕のサッカー人生を形作る中ですごく意味あることを与えてくれたんだって。したことについては満足してないですし、起きたことも満足してないですし、あのミスに大きなショックを受けたとか、できればあそこで活躍したかったとか、ホントいろんな思いはもちろんありますけど、そのあとよくよく考えたら、18年間プロ生活を送れたのはミスのおかげというのは心から思ってるので。

「本質」を知ったから乗り越えられた 

 あの試合は見直してないです。18年経ってもまったく見てないです。見てないですし、記憶から消えてるので気にもならないですね。プレーのシーンを思い出したいとか考えてなくて、もう起きたことを振り返らずに、自分のポジティブな部分に変換できたって。

乗り越えられたのは、あのときから起きた一つひとつの物事を乗り越えるたびに「本質」を知ったからですね。本質を知ってからあの物事、あのあとに起きたいろんな事象に対してもポジティブに捉えられるようになりました。その考え方とか捉え方が変わってからですかね。

 

アテネ五輪からマリノスに帰ってきて、そのシーズンは結局「本質」というのが何か探れなくてもがいていたと思います。リーグ戦は出してもらっていたんですけど、結局チャンピオンシップには出ることが出来ず、やっと次のシーズンからまた出ることができたんですけど。

マリノスにいた期間は先輩におんぶに抱っこじゃないですけど、素晴らしい先輩方がいて、その中で輝けたんですよ。先輩方といい監督がいて輝けたんです。そしてそれが自信に繋がっていったんですよ。

だから本当にいい意味で、マリノスにいた期間というのはずっともがき続けていたと思います。その時期に、努力するとか、自分にベクトルを向けるとか、そういうのを身につけられたので。今後何が必要かというのを考えて、そのためにメンタル面だったりフィジカル的な面、技術的な部分も含めて見つめ直して、じゃあどうしなきゃいけないって気づけたのが非常に大きかったと思います。

「本質」を探れるようになったきっかけ

 「本質」が探れるようになったのはアテネ五輪の翌々年の2006年……ですね。きっかけというか、2005年はリーグ戦29試合に出していただいてたんですけど、2006年からは、センターバックに戻してもらうんですよ。 岡田監督からは2005年のリーグの終盤に「いずれセンターバックに戻す」って言われて、そこから競争が始まったんです。

マツさん、中澤さん、栗原勇蔵という、本当に豪華なメンバーと競わせていただいて。自分はセンターバックで勝負したいという気持ちがありましたし、マリノスでやるんであれば、そういうチーム内の競争は越えなければいけないところと思っていて。

それで2006年のリーグ戦の出場は16試合で、前の年に比べると半分ぐらいに減るんです。特にそのころですね。どうやってこの状況を変えなきゃいけないか、自分にベクトルを向けて、出てない時間に何をしなければいけないか、出るために何の準備をしなければいけないか、そういうのを自分を見つめ直して考えた期間かと思ってます。

「苦しみは悪いものではない」

 もちろん自分の実力も、先輩方の偉大すぎる実力というのも分かってましたから、そこに追いついて追い越すためには何をしなければいけないかというところで、見つめたんですよ。ライバルが凄かったからできたわけですね。もし競争するライバルがいなくて、普通にレギュラーになってたら、その後のサッカー人生が良くも悪くも変わってたかもしれないですね。 そのときも苦しかったんです。

でも僕は常々感じてるんですけど、苦しいときって本当に成長できる一番の時間だって。苦しさを「苦しい」とだけ受け取ったら人間は成長できなくなるというか、歩みを止めてしまうと思うんです。

「苦しみって決して悪いものではない」って思って、本人にとっては気持ちのいい時間じゃないですけど、本質が何か分かれば、自分がたどり着きたいところを目指す上でその苦しみって学びの時間になると思ってます。自分が何になりたいか、どうなりたいかというところを見つめようと思ったら、結局そういう苦しいときは必要な時間なんですよ。

サッカー系YouTuberとしての活動

 今、YouTubeという媒体を使わせていただいて、サッカーの良さや素晴らしさを広めたい、Jリーグの発展と貢献につなげたいと思って、プロ1年目じゃないですけど、自分の中でのプライドみたいなものを捨てながらやってます。

これまでやってきたすべての現象というのは自分がここにいた証で、それを取り繕うわけでもなく、起きたことを発言してYouTubeの映像に残して、それでたくさんの人がサッカーを見るきっかけになれば僕はいいと思ってます。

今はとにかくサッカーを知ってもらうきっかけを作りたいんですよ。だから映像に苦しかったときの話も入れてて。もちろん実際に辛かったですけど、ポジティブに捉えて今の人生の糧になってるので、「あのときはミスして本当にすみません」って言えるぐらいになったんですよね。

新型コロナウイルスの影響

 今は自分の中でもそうやって前向きに考えられてます。 新型コロナウイルスの影響でいろいろなことができないんですけど、意味のない時間はないと思うし、時間は無限じゃないので、1分1秒をどれだけ大事にできるかと考えてます。

コロナだからこそ本当に苦しいとか辛いとか、いろんな痛みを伴わなきゃいけないとか、そういうことがあると思うんですけど、それだけ多くの痛みを知ったのなら、それを前向きに変えることができたら、大きな力になるんじゃないかと思って。

だから今の辛かったり痛い思いは感じるべきだと思ってるんです。そして、そこでやっちゃいけないのが、その痛いことを「何でオレだけ」という、本当の苦しさに変える受け取り方をしちゃうことで。

もしそういう感じ方をしまったら、その先の自分が求めていた本質に行き着かないですし、自分のそのあとの糧になるものになくなってしまうので。 僕がコロナの苦しさをどうプラスに変えたかというと、自粛して家にいる時間が増えたので、自分磨きというか、今、インプットしなければいけないことがたくさんあるから、それをやっていました。

 

那須大亮が「やりたいことをやる」ためにしていること

那須大亮が「やりたいことをやる」ためにしていること

 インプットしなければいけないことって、サッカーの知識だけじゃなくて、表現者としての語彙力だったり、YouTubeではエンタメ性を求めなきゃいけないので、トークのスキルなんかですね。

あとは今後YouTubeをやっていくだけじゃなくて、ビジネス的な観点も身につけなければいけないと思ってて、今まで知らなかった知識を豊富にしなきゃいけないから、そのインプットする時間として非常に有効に使えていると思います。

それに最近は語学もやってるんですよ。英語です。ホントまだまだなんですけど。チームメイトだったスペイン語圏の選手もドイツ語圏の選手もそうなんですけど、海外の選手は英語って基本的に話せるんですよ。

英語を話せなくても関係値は深められたんですけど、より一層深いところで関係を築きたいと思って、語学はやるべきところだと思いました。 外国語のいろんな音を聞いたりすると、言語ってこんなに違うんだということを、当たり前ですけど感じましたし、人は聴覚も使って、いろんなもので判別したり学んだりしているから、より発してる言葉は大切だって。

 

そう感じて、どういう言葉を発したら視聴者の方がどういう受け取り方をしてくれるのかと考えながら話してたら、視聴者の目を変える言葉に繋がったんです。だから言語の意味だったり言葉の重みというのをより大切にしなきゃいけない、言葉って簡単なものじゃなくて大事にしなきゃいけないというのを改めて気付かせてもらいました。

そんなことをやりながら有限な時間をどう有意義に使っていくかに目を向けてます。自分に対する対価が止まってしまうということに考えのベクトルを向けるんじゃなくて、今インプットすることでコロナ明けとか、もう少し状況が良くなった時に、活動がいい形で進められると思ってたので。

 

それで映像を作るために結構頻繁に会議をして企画やキャスティングを決めてます。クリエイターさんと、それこそ現役時代のように結構バチバチでやってますね。それがないといいものできないんで。

いい動画を作ろうという上での企画会議なので、ときにはギスギスすることもあるくらいです。自分の立ち位置というのも理解してますし、今は本当にコツコツというか、よりスキルを上げていく中で、視聴者の方の信頼を掴まないというフェーズだと思います。

 

でもホントまだまだなんですよ。僕はサッカーだけで生きてきて、社会に出てからは1年目なんで苦しんでますし、やっぱり知らないことばっかりで。だから本当に謙虚に学ぶ姿勢を持って、今はインプットしてアウトプットして、トライアンドエラーでやっていこうと思っています。

 

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井原正巳が考える「理想のリーダー像」元サッカー日本代表キャプテンインタビュー

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1997年、日本サッカー界は大きな転換期を迎えようとしていた。1998年フランスワールドカップ出場をかけたアジア予選が集中的に開催されたのだ。1993年の「ドーハの悲劇」もあってワールドカップ出場はそれまで以上の「悲願」とされた。また2002年日韓ワールドカップが決まり、それまで本大会に出場した経験のない開催国はなかったということで、このフランスワールドカップ出場は「義務」という雰囲気にもなった。

日本は何度か本大会出場の夢を打ち砕かされそうになりながら、何とか最後は出場権をもぎ取った。その厳しい戦いをキャプテンとして戦い抜いたのは井原正巳。引き分けた試合後、椅子が選手バスに投げられるなどの中で、期待を感じ、責任を受け止め、仲間をまとめながら戦い抜いたあのときの話を聞いた。

 

(オンラインでお話をうかがいました)

(オンラインでお話をうかがいました)

井原正巳の苦しかった時期

 僕の現役時代で一番苦しかったのは、やっぱり1998年フランスワールドカップのアジア予選を戦っているころだと思いますね。あの予選の間は非常にプレッシャーもありました。ワールドカップに出なければいけないという責任感も、世間の期待感もある中で、そういうものを重圧に感じたと思います。

 

 1994年アメリカワールドカップのアジア最終予選、ドーハでの試合が終わってから1、2年してキャプテンを任されることが多くなってきて、柱谷哲二さんが日本代表に呼ばれなくなったときは自分がキャプテンという感じではあったので、そういう意味ではプレッシャーがありました。

 

 それから2002年日韓共催のワールドカップが決まっていて、それまでワールドカップを開催した国で本大会に出場していない国はなかったということや、ドーハがあったのでなおさら「次の大会は必ず」という流れもあって、それもプレッシャーでしたが、もう信じてやるしかなかったですね。

 

 あの予選はアトランタ・オリンピック組の若い力が途中からかなり合流してきました。その世代の選手たちはカテゴリー別の代表チームで世界大会に出ていた選手たちだったので、そういう経験をしてない代表メンバーよりもよりたくましさと言いますか、怖いものなしと言いますか。

ジェネレーションギャップじゃないですけど、ふてぶてしさとか世界と戦ってきた自信を持っている選手が多かったんですね。松田直樹(故人)とか、川口能活、城彰二、中田英寿含めて。

ピッチ内では先輩後輩関係ない

 彼らの個性は強かったですけど、サッカーに対しては純粋に勝ちたいという思いでいっぱいだったし、またピッチ内では先輩後輩とか年齢とか関係なくやるっていうところが彼らの良いところでもあったし、そういうほうがいいという自信を持ってたし。昔だったら、どうしても先輩には遠慮して気を遣ったりとかってあったと思うんです。それは日本人の良い面でもあり、良くないと思われるところで。

 

 そういう関係が昔はあったと思いますけど、そういうのがなくなってきた世代ではあると思うし、世界に対する経験値を持って代表に来てくれている選手が多かったので、それまでの代表にはない雰囲気を持った若い選手が多かったと思いますね。

ワールドカップアジア最終予選を振り返ると、どの試合も全部大変だったんです。まずはレギュレーションが急遽変わったんですよ。

1次予選は4チームで、セントラル方式だったんです。4チームが日本とオマーンに行って、そこで他のチームと対戦するっていう。最終予選もどこかに集まって試合をするという予定だったんですけど、それが5チームのホームアンドアウェイ方式になったんですね。 

【アジア地区1次予選グループ4】

出場国:日本、オマーン、マカオ、ネパール

 

・オマーンラウンド

第1戦 1997年03月23日 日本 1-0 オマーン

第2戦 1997年03月25日 日本 10-0 マカオ

第3戦 1997年03月27日 日本 6-0 ネパール

 

・日本ラウンド

第4戦 1997年06月22日 日本 10-0 マカオ

第5戦 1997年06月25日 日本 3-0 ネパール

第6戦 1997年06月28日 日本 1-1 オマーン

【アジア地区最終予選 グループB】

出場国:日本、韓国、UAE、ウズベキスタン、カザフスタン

 

第1戦 1997年09月07日 日本 6-3 ウズベキスタン

第2戦 1997年09月19日 UAE 0-0 日本

第3戦 1997年09月28日 日本 1-2 韓国

第4戦 1997年10月04日 カザフスタン 1-1 日本

第5戦 1997年10月11日 ウズベキスタン 1-1 日本

第6戦 1997年10月26日 日本 1-1 UAE

第7戦 1997年11月01日 韓国 0-2 日本

第8戦 1997年11月08日 日本 5-1 カザフスタン

【アジアプレーオフ(第3代表決定戦)】

1997年11月16日 日本 3(GG)2 イラン

※GG:ゴールデンゴール/延長戦でどちらかのチームのゴールが決まった瞬間にタイムアップになる方式

日本代表韓国戦(c)Shin-ichiro KANEKO

日本代表韓国戦(c)Shin-ichiro KANEKO

井原正巳がワールドカップ予選を振り返る

 リーグ戦の最中に、急に3カ月の長丁場になって本当に大変でした。最初のウズベキスタン戦は6-3といいスタートを切れましたけど、第3戦のホーム・韓国戦で逆転負けして、続くアウェイのカザフスタン戦に1-1で引き分けて、初めて日本代表監督が予選中に、加茂周監督から岡田武史監督に代わるという事態になって。そのカザフスタンやウズベキスタンという中央アジアで試合をしていたあたりは、「本当にワールドカップに行けるのか……」という雰囲気になりかけたところもありましたし、苦しい時期ではありました。

 

 ホームのUAE戦は、僕は出場停止でちょうど試合に出られなかったんですけど、追いつかれて引き分けて、自力でのワールドカップ出場が難しくなったんです。その結果は受け入れるしかなかったですし、終わったわけではなかったですし。だからもう切り替えてやるしかなかったし、そういう思いは選ばれた選手全員が持っていたと思います。

 

 そこをどう乗りきったか……みんな本当にワールドカップ出場のためにみんな努力してましたし、そこはスタッフも同じで……選ばれた代表選手もそのためにいろんなことを犠牲にしながら戦って……日本のために、自分のために、家族のためにという思いで戦っていたので、もうそうなると自分たちを信じるしかなかったという感じですね。

 

 それに1994年ワールドカップアジア予選のイラク戦では残り少しで追いつかれて本大会に行けなかったんですけど、そのドーハの試合があったので、ほんとに最後の最後まで諦めずに戦おうって。

3カ月の最終予選ではいろんなことが起きましたけど、そういうことに動揺せずに、自分たちは最後の出場権を勝ち取る可能性がある限り戦おうという思いでやってました。

サポーターが暴れたことで世界に少し近づいたと思った

 そうしたらUAE戦が終わって国立競技場で初めてサポーターの方がパイプ椅子を投げたりして、選手の乗ったバスが足止めを食らったりということが起きました。

それまでの日本のサポーターって観戦マナーがいいと思っていたので、「ここは本当に日本なのか」という感じがするくらいで。ワールドカップに出場してほしいという思いもわかったんですけど、そうやって暴れるような人が出てきて世界に少し近づいてきたと言いますか、それぐらい熱い思いの強いサポーターが多くなって。

 

 逆に怖さを感じたところはありますけど、でもそれだけみんなが日本代表チームを応援してくれてるんだという思いも感じつつ、やるしかないなというところではありました。

それで韓国にはもう先にワールドカップ出場を決めていただいて、我々はグループ2位でプレーオフ進出を狙うというところにターゲットは変わっていきました。だから第7戦の韓国戦に照準をもう絞るしかなかったですね。

 

 キャプテンをやっているプレッシャーもありましたけど、勝ち抜こうという思いでみんな選手はまとまっていましたし、僕がキャプテンだったけれども、他の選手もいろんな選手が助けてくれたりとか盛り上げてくれたりしてたので。

 

 山口素弘とか名波浩なんかは本当にリーダーシップがある人間ですし、1996年は代表から外れていた中山雅史がホームのカザフスタン戦から帰ってきたりとか、そういう選手が引っ張ってくれてましたね。でも、もちろんドーハを経験しているキーちゃん(北澤豪)とかカズさん(三浦知良)とかがどんどん引っ張っていたので、チームが自信をなくすという事はなく、最後まで戦い続けられた部分はあります。

井原正巳が考える「理想のリーダー像」

 キャプテンだったから「理想のリーダー像」について聞かれることもあるんですけど、僕もわからないんですよね、やっぱり。いろんなリーダーがいますし、それぞれタイプが違うし、それぞれ置かれている状況も違うし。

ただ、どういうものがリーダーに求められているかをすぐ察知できたり観察できて、その状況に必要なものを出していけるリーダーが1番いいのかなと思います。

 

 サッカー界でもキャプテンやリーダーがたくさんいます。僕の前は柱谷さんという本当に熱い闘将タイプのキャプテンがいらっしゃいましたし、僕のあとでは宮本恒靖や長谷部誠がキャプテンをやってますし、今は吉田麻也がやっているので。

それぞれタイプが違うと思いますし、自分のキャラクターと言いますか、パーソナリティーをしっかり持ちつつ、その中で「何が今、チームにとって必要か」「リーダーとして何をしていかなければいけないか」としっかりと判断できる人間がリーダーなのかなと思います。

ターニングポイントとなった加茂監督の更迭

 このときの日本代表のターニングポイントは、もちろん監督が途中で加茂監督から岡田監督に代わったときでした。

日本サッカー協会も「何かを変えなきゃいけない」という思いで加茂さんを更迭して岡田さんにやってもらうことにして。それはそのときのチームに荒療治をしないとダメなんじゃないかという判断でされたと思いますし、みんなの思いというのは選手も感じながら合宿などで生活をしていたので。

 

 とにかく望みがあるかぎり最後まで戦おうということだけで、加茂さん、岡田さんのために、という気持ちも、日本のためにというのもあって。とにかくたくさんの熱い応援をしてくれてる人のために最後までやるしかないところはありました。

 

 そして岡田監督になった最初の試合がアウェイのウズベキスタン戦で、その試合は0-1でずっと負けてたんです。日本にチャンスはあるけど点が入らないという展開で。最後、90分に僕の蹴ったロングボールを呂比須ワグナーが少しそらして、カズさんがGKの前を横切ったことで何とか最後追いついたんです。

その1-1の勝点1が後で2位になるときに効いてきたんですけど、最後に勝点1を取れたときに岡田監督が「これは絶対ワールドカップ行ける」っていうような話をされて。それがターニングポイントになったのかと思いますね。

目標としていたワールドカップ出場が決まって

 ワールドカップに出てみて、やっぱりそこは自分たちが夢に、そして目標としてきた大会でしたけど、スタッフも選手も、誰も1度もワールドカップを経験したことがない日本代表メンバーで現地に行きましたので、そういう意味ではすべてが初体験で、「こんな雰囲気なんだ」って。

 

 事前合宿からして、「これが大会前の合宿の雰囲気なのか」とか、何もわからないままスタートして。協会の方ももちろんどういう調整をしていったらいいのか誰も、正解がないと言いますか、分からないままで本大会に向かったところもあり、調整の方法はよかったのだろうかというのはありました。

 

 でも、行ってみたら最高の舞台でしたね。「これがAマッチ」と言いますか、他国の代表チームとやる本気の試合というのはこれしかないという戦いでした。もちろんアジアカップなんかも本気の試合で他の代表チームと対戦できますけど、アジアの中だけだし、オリンピックは年齢制限ありますからね。親善試合ではなくて世界の強豪と対戦できるのはワールドカップしかないので、それは本当に素晴らしい雰囲気でしたし、そして「これがワールドカップなんだ」というのを肌で感じることができました。

井原正巳が初のワールドカップを振り返る

 ワールドカップを振り返ると、僕自身のプレーをもっとレベルを上げられていればよかったという思いはもちろんありますけど、代表チームの本大会に臨むにあたっての準備がやっぱり初めてだったと思いますね。

 

 よく言われるスイスでの事前合宿、最後の合宿に行ってメンバーが何人か、カズさん、キーちゃん、市川大祐が外れるってことがあったんですけど、ワールドカップ直前のキャンプが選手選考の合宿になってるって、今だったら考えられないと思うんです。けれど、あのときは初めてだったし、その選考があれだけの大きな話題になると言いますか、日本に衝撃を与えると誰も予想していなかったと思います。

 

 ワールドカップ出場が決まってから実際にワールドカップに行くまでの強化試合も、ほとんど海外ではやってないんですよね。もう最後の直前のキャンプに行ってようやく海外で調整試合をやったんですよ。昔は日本代表って本大会に行くことはできたんですけど、マッチメイクをまだ他の国が受けてくれなくて、なかなかできなかったんでしょう。

 

 そういう準備不足っていうのは間違いなくあったと思います。でも、そういう経験が次のワールドカップに生かされたところはあると思いますし、ワールドカップに出るたびにそういうことを常に考察して、また次にいいものを継承してという形になっていると思います。

……ワールドカップ、もう1回出たかったですけどね(笑)。そういう悔しさはありますけど。

 

マリノス時代(c)Shin-ichiro KANEKO

マリノス時代(c)Shin-ichiro KANEKO

今だから言えるマリノスからの移籍 

 日産自動車、横浜マリノス、横浜F・マリノスと10年いたチームから2000年に移籍したのですが、当時はまだ移籍というのが今のように頻繁に、当たり前のようにどの選手もするような時代ではなかったですね。

 

 自分自身も最初にマリノスにお世話になって、そのままマリノスで引退するまでやれれば幸せかなと思ってましたし、1999年には日本代表としてパラグアイで開催されたコパ・アメリカにも出ていたので、その年にマリノスから「選手としては契約しない」と言われて、ビックリと言いますか、「どうして?」という気持ちはありました。

 

 マリノスには本当にいい思いもたくさんさせてもらっていましたし、プロになった時からいつクビになるかもわからないという気持ちでやっていたので、そこは割り切ってと言いますか、もうしょうがないと。

 

 でも自分はその年、まだ代表チームでプレーしてて、まだ現役でプレーしたいという思いがあったので、移籍する方向で話を進めてもらいました。

ちょうどクラブの親会社の日産自動車の経営状態があまりよくなくて、カルロス・ゴーンさんが就任されて、いろいろ工場を閉鎖されたり、日産の社員の方もすごく急に辞めさせられなきゃいけないとかそういうのがあった中で、マリノスにお金を使っているというところの事情もあるのだろうと自分は理解しつつ、移籍したというところはありますけど。今だから言えますけどね。

移籍したことが自分の中に財産として残っている

 同じチームで最後までいたら、それはそれで幸せだし、どっちがいいかというのはその人の「美学」ということになるんでしょう。

僕もずっと同じチームで引退までいられれば最高だと思ってましたけど、でも移籍することによっていろんなチームのカラーだったりサポーターの違いだったり、もちろんサッカーの違いもあるし、自分の人脈と言いますか、そういうサッカーに関わる多くの方と知り合えたりして、そういうものが移籍したことによって自分の中に財産として残ってますし、逆に移籍してよかったと今では思っています。

 

 ジュビロ磐田に1年、そして2年間浦和レッズでプレーしました。浦和には2006年ドイツワールドカップに出場する坪井慶介がいましたね。でも坪井は僕が育てたわけじゃないですし、坪井自身の努力であれだけの選手になりました。

そういう意味では現役時代の最後を浦和で2年間お世話になって、そのとき代表選手になっていく若手がたくさん出た浦和にいたというのはキャリアのいい終わり方だったなと思います。

現役時代の運命で1つだけ変えられるとしたら

 現役時代の運命で1つだけ変えられるとしたら、そうだな、どうだろう。自分は日本にまだプロがない、アマチュアの時代からやってきたので、今の選手は本当に幸せだと思いますね。プロからスタートできますからね。Jリーグがもう少し早い時代からあったら、という思いはありますよ。

 

 自分たちがプレーし始めたのは日本リーグ時代で、日本代表と言ってもワールドカップは出たことがなかったですからね。ワールドカップの扉を開くことはできましたし、時代の変遷に関われたという事は幸せですけど、最初からプロリーグがあって、幼い頃から高度なトレーニングや練習メニューも組めてやっていたら、もっとうまい選手になってたんじゃないかなって、そういう思いはあります。

 

 海外に行くチャンスも、もしかしたら広がってたかもしれないし。我々が代表のころはそういうルートがなかなかなくて、カズさんが行かれたり、ワールドカップに出てようやく日本のサッカーを世界に知ってもらうことができて、中田が頑張ってくれたりして、いろんな海外へのルートができたと思います。

 

 我々の頃はなかなか現実的な海外移籍の選択はなかったので、今のような時代に自分もサッカー選手になっていたらどうなっただろうと思うところはあります。あっ、そうしたら代表になってなかったかもしれないです。あの時代だから代表になれたのかも(笑)。

大学生で日本代表に

 僕が日本代表に入ったのは大学生だった1988年で、最初に海外で試合をして、国立競技場に日本代表として初めて立ったのは5月29日のフラメンゴ戦でした。ジーコさんが出ていた試合でしたね。

僕は選ばれる立場だったですし、選ばれたのだから自分のせいではなくて選んだ人の責任だと思って開き直ってやっていたので、緊張とか苦しいという思いは全くなかったんですよ。ダメだったらしょうがないだろうという感じだったので。

 

 とりあえず言われたままに、ただ夢中にやってただけですね。戦術とかも自分の中ではそんなに理解してやってた感じではないですし、先輩に動かされながらやってたという感じです。もうあまり試合も覚えてないです。

 

 自分が代表に選ばれるとは思っていなかった時代ですし、「僕でいいのかなぁ?」と思いながらやってたので、そこは本当に呼んでくださった横山謙三監督に感謝ですよね。あれがあったから、その後の自分の人生もありましたし、ああいう若い年代のときに代表や国際試合を経験させてもらったので、それが大きかったと思いますけど。

ただ代表としては結果がなかなか出せない時代だったので、その時の不甲斐なさというのが悔しい思いというのはすごくあります。

 

 高校時代までは中盤やFWをやっていたので、自分のストロングポイントはミドルパスや展開力という攻撃のところだと思っていました。守備はハードというかガツガツといけますけど、どちらかと言うと読みで相手の攻撃の芽を摘んだり、相手の動きを読んだりというところに面白さを見い出してやってて。そんなに体が大きいとか、ヘディングが強いというわけでもないので、そういう頭を使うところを自分なりに考えながらやっていました。

 

井原正巳の記憶に残っているミドルシュート

 攻撃で言えば1994年、広島のアジア大会準々決勝の韓国戦で86分にミドルシュートで同点にしたんですけど、現役のシュートであれだけきれいに決まったのはないと思いますし、特に日韓戦でしたから印象深いです。

ただ試合は結果的には89分に自分がPKをとられて負けてしまったので、そういう意味では喜べないといいますか。勝てばね、勝利につながるゴールだったらよりよかったんですけど、そういう意味では悔しさのほうが残っています。勝てればよりよかったんですけどね。

 

 能力の高いセンターバック、GK、FWは日本の弱点といいますか、個の力がより必要なポジションではあるので、そのポジションの選手はまだまだ人材不足という気がします。ようやく吉田麻也や冨安健洋が出てきましたし、FWも大迫勇也や世界でも活躍できそうな流れが少しずつできてきていると思うのでそういう選手が増えていってくれればより強くなってくれるのかなとは思います。

 

 いま自分が現役だったら……ルールなんかは変わってますからね。でも、たまに昔のビデオなんかが流れると「いや、そんなに悪いサッカーしてないなぁ」と思いますけどね(笑)。

 

井原正巳のやりたいこと

井原正巳の「やりたいこと」

 2002年に現役生活が終わって、次は指導者になろうと目標設定が変わりました。そして2006年から指導者としての生活に入って、いろいろ経験を積ませていただいて、2009年からは柏レイソルのヘッドコーチになり、2009年や2013年は柏レイソルで監督代行をやったり、2015年から2018年まではアビスパ福岡で監督もやらせていただいていて、2019年に5年ぶりにレイソルのコーチに戻っています。

 

 いま「やりたいこと」は、やはりレイソルが今年J1に復帰したので、こういう新型コロナウイルスの影響が大きな状況ではありますけど、ヘッドコーチとして監督の支えにしっかりとなって、タイトル争いが出来るように貢献していくということです。

大きな目標としては、もちろん指導者としてまたいずれは監督をやりたいとは思いますし、その中でJリーグのタイトルを狙いたいと思っています。次はどこのチームで監督をやるかわかりませんけれども、そういうチャンスがあればリーグの優勝監督をまず目指したいですね。

 

 そうすればまた代表カテゴリーの指導者や監督になるチャンスがあると思うし、さらに大きな目標としてはそういう代表カテゴリーに関わって、またワールドカップに出場できるぐらいの指導者になりたいというのが目標です。

 

ただ、まずは今、Jリーグでしっかりと結果を出していくことが一番の道といいますか、目標につながっていくと思いますから、レイソルでしっかり結果を出すためにスタッフとしての役割を全うしていきたいと思います。

 

 監督を経験した僕をレイソルがまた受け入れてくれたのは、クラブだったりネルシーニョ監督がすごく器が大きいからだと思います。ネルシーニョ監督とは2009年の途中から2014年まで、監督とコーチという立場で5年半やってるので、そういう意味では僕のことを知っていて、信頼して僕がコーチでもいいと呼んでいただいたので、そこはもう監督に感謝です。

監督の器が大きいからこそ、僕が今の立場にいられると思ってますし、あとは僕がどれだけチームのため、監督のためにやれるかで、それはコーチとしての役割に徹することだけだと思うので、そこはブレずにやっていきたいと思います。

 

 そういう自分の役割をしっかり果たすことがチームとしては大事だというのを、現役の時も指導者としても経験しました。そこがブレるとチームとしてバラバラになる可能性があるのがサッカー界だと思うので、そういうところは常に気を付けながらと思っています。

積み上げるのは時間がかかるんですけど、崩れるのはすごく早いので、そうならないように、自分たちが常に結束してチームのために、レイソルが結果を出すために頑張っていきたいと思っています。

 

井原 正巳(いはら まさみ)プロフィール

1967年9月18日、滋賀県出身。筑波大学卒業後の1990年、日産F.C(現:横浜F・マリノス)に入団し、1993年にJリーグデビュー。1993年から1997年までJリーグベストイレブンに輝く。1995年にはアジア最優秀選手に選ばれ、鉄壁な守備から「アジアの壁」と恐れられた。1999年に横浜F・マリノスからジュビロ磐田へ移籍。2001年には浦和レッズへ移籍し、2002年12月に現役を引退。現役引退後は公認S級指導者ライセンスを取得。2009年-2014年、柏レイソルのヘッドコーチを務める。2015年-2018年、アビスパ福岡の監督を務める。2019年シーズンから柏レイソルのヘッドコーチに就任。

 

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「オレは常にポジティブ」川又堅碁がステイホーム期間中に見せた新たな才能

2017年12月、川又堅碁は2年ぶりの日本代表に張り切っていた。得点こそ挙げられなかったものの、アグレッシブなプレーでチームを活性化させたと言えるだろう。だが2年後の2019年12月、川又は満足にプレーできず、チームは降格し、契約も終了した。しかも次のチームが決まらない。

2020年1月、川又は入団テストを受けていた。傍から見れば短期間での大きな変化は苦しかったのではないかと見えたが、本人はそれよりも辛かったことがあるという。陽気でギラギラしたストライカーが明かす苦悩と、中断期間中に見せた別の才能のことについて聞いた。



川又堅碁選手にインタビュー

サッカー人生でしんどかった時期

サッカー人生でしんどかったのは、そうですね……結構あるけど、プロサッカー選手になってからのことで言うと、大変だったと思うのは20歳の時に半年間、ブラジルに行ったときのことなんですよ。

オレ、もともと「キャプテン翼」に憧れてて、正直、サッカーを始めたのは「キャプテン翼」の影響だったんで、翼くんがブラジルに行くっていう話があって、高校生でアルビレックス新潟と契約するときに、条項の中に「ブラジルにチャレンジする」という条件を入れてもらってたんです。

それで2年間新潟でプレーして、20歳のときにブラジルに行ったんですよ。ところが現地に着いてみると、思っていたのとは全然違ってて。ブラジルって上から下までたくさんリーグがあるじゃないですか。自分が行ったところのチームは全国リーグじゃなくて、州リーグの2部だったんです。

正直、そこは本当にいろいろな面で大変だったと思いますね。まず、どこに行くのにも満足な交通手段がなくて。水はスタジアムの脇に付いている水道で飲むんですよ。現地の人からは、「すごくおいしい水」って言われてるんですけど、それが汚れてるから怖くてオレは飲めなかったんです。

スタジアムといっても日本で想像するちゃんとした場所とは違って、壊れかけのボロいやつで、メシはスタジアムで出るんですけど、卵とか「これ、冷蔵してくれてんのか?」という感じのわけなんです。

朝はフランスパンみたいなやつとココアみたいな甘い飲み物だけだったり、何を飲んでいるか自分でもわからない感じだったし。周りの選手には元ブラジル代表だったり、結構すごいプレーヤーがいて、そういう人たちにはクラブがまあまあいい家を貸してくれるんですよ。でもオレみたいな感じでチームに入っていくと、すごいところに入れられて。

洗濯機もなかったんですよ。ベッドはシーツを剥いだらカビだらけだったし、トイレは洋式なんですけど、便座がないんです。シャワーも結構の頻度で土が混じって茶色だったりとか、それぐらい設備が整ってなくて。ほんと、大変やったですね。

そこでいろんな経験ができて精神的には強くなったのかな。ハングリー精神だったり身につけられたし、日本に帰ったときに活躍できるための準備だと思って前向きに捉えてたんで大丈夫だったけど、正直、普通に考えたらめちゃくちゃタフな感じの環境でしたね。

でも苦労とは思ってなかったんですけどね。オレはそういうのも楽しかったんですよ。客観的にオレが置かれた状況を見たら大変だったと思うけど、オレには楽しかった思い出かな。

川又堅碁「2019年の脱臼が苦しかった」

ブラジル行ったのは客観的に見たら大変だったって話で、主観的な話で言ったら、やっぱり去年の脱臼かな。正直、いろんな意味で自分の中でも本気で苦しかったですね。 4月28日の第9節北海道コンサドーレ札幌戦で、コーナーキックから流れてきたボールに突っ込んだとき、顔を上げた瞬間に目の前にゴールポストがあって、ぶつかって肩に全体重が乗っちゃって。



【負傷シーンですので閲覧注意】



2019年はプロになって初めて開幕戦でゴール取ってたんで、「これは今年、ズドンと行くな」というノリだったんですけど、そこでケガして。最初は右肩の脱臼という診断だったんです。全治6週間で、1カ月半から2カ月で復帰に向けて準備始められるという流れだったんですよ。

それでずっとリハビリしてたんですけど、2カ月経っても腕が全く動かなくて。そこからしばらく経って「これは本当に動かなくなってる」って焦りだして、そのあと神経が麻痺してるって分かって。

リアルにもう脇から腕が離れないんです。それがずっと続いて、「本当に元に戻るのか?」ってときが1番メンタル的に、ホントにきつかったですね。チームもずっと悪かったんで、責任もすごく感じて。

それで、いろんな人に治療してもらったり助けてもらったりしてました。何回、磐田の練習場がある浜松まで来てもらったかわからないくらい助けてもらってたんですよ。大阪体育大学でも、1、2週間だったと思うんですけど、朝から晩まで、しかも夜8時とか9時ぐらいまでずっとリハビリさせてもらったりしてましたし。

でもリハビリどんだけやっても、動かなかったんですよ。サッカーできないし、チームに何の役にも立ってないし、力になれないし。ケガしたのは肩だから足は動くのに、といういろんな気持ちがありました。

ただ肩ってすごく大事で、バランスがすごく取れなくなっちゃうんですよ。「オレはホンマにまたサッカーできるんやろうか?」と思っちゃうぐらい動かなかったので、しんどかったですね。

それでもう無理矢理、第26節9月14日の川崎フロンターレ戦で試合に出たんですよ。腕はまだ全く動いてなかったんですけど、オレが出てマークの選手が付いてくれて、周りが生きればいいと思ったんで。

絶対残留させたいと思ったんで無理に出たんですけど、そしたらまた他のところを傷めちゃって。腕を動かせないっていうバランスもまだ全然整ってない時に出ちゃったもんでね。体の別のところに負担がかかっちゃって。なかなかいいパフォーマンスが出せなかったし、ホントすごいきつかったですね。

川又堅碁が語る日本代表

川又堅碁が語る日本代表

現役になって12年経って、まだまだ進化できるという思いで今もやってます。若いときは自分の自信というか、勢いという言葉が正しいのかな、それでやってたけど。いろいろチームを変わって、それぞれのところで考えてプレーするようになった……かな? どうかな? 何が変わりましたかね?

日本代表でいうと、2015年東アジアカップ(現・E-1選手権)のときって何もできなかったというイメージがあったけど、2017年E-1選手権の時は、チームの流れを変えたというのを自分でも実感できて。ただ、得点ほしかったんですけどね。

惜しい場面も結構あったんで、ああいう場面で決められたらよかったんですけど。だからもう1回、日本代表に入っていきたいという気持ちも湧いたけど、ロシアワールドカップには選ばれなかったし。

ロシアワールドカップのメンバーが決まった時って、正直ワンチャンあるかと思ったけど、それよりパワー系の選手連れてってほしいと思いましたけどね。あのころ調子がよかった都倉賢でもいいからって。

川又堅碁が語る過去の移籍

クラブで言えば、18歳で新潟に入って20歳でブラジルに行って、戻ってきて2年新潟でプレーして、さぁこれから、と思ったときにファジアーノ岡山行きの話が出たんです。新潟でも前の年、23試合に出てたんで「今年は点取りまくってやるぞ」と思ってたんですけど、チームの陣容を考えたら出番がなさそうで。それでも練習とかで力を見せつけたらきっと出番が来るやろうと燃えてたときに、岡山のオファーが来て。

自分としては新潟が当時J1、岡山はJ2ということでかなり悩んだんですよ。J1で結果を残してやると張り切ってたから。でもそのとき代理人に「お前、ゴール前にボールがこぼれてきたとき、迷ったりするFWがおるか?」みたいなことを言われて、自分でも「いやいや、そこは突っ込むやろう」って。それで期限付移籍で岡山に行くことにしたんです。岡山では38試合に出て18点取りましたし、そこは自信になりましたね。

期限付移籍から新潟に復帰して、その2013年は23点取ったんですよ。でもその次の2014年、出場機会が減っていたんで、シーズン途中にいろんなチームから声かけてもらって、その中で名古屋グランパスを選んだんです。名古屋にもいい経験をさせてもらいましたね。2014年から2016年までの2年半の契約だったんですけどね。

その名古屋との契約の最後の年に、ジュビロ磐田の監督だった名波浩さんが直々に挨拶に来てくれたんです。名波さんが「一緒にやってほしい」って、あんなすごい人にそんなこと、熱く言われたら、それは「磐田で名波さんのためにプレーする」っていう気持ちになりますよね。

ジュビロ岩田時代の川又堅碁選手

(撮影:hiroyuki sato)



それで磐田に行ったら、FWに外国籍選手を取らないで、自分を使うというのをハッキリ打ち出してくれたんですよ。しかもどうして外国籍選手を取らないのかっていうことを名波さんがメディアに説明して、自分への信頼を語ってくれたりするんです。そういうのって名波さんっぽくて本当にかっこよくて。

磐田に移籍した2017年、2018年はリーグ戦で14点、11点って、最低ラインの2桁得点は挙げてたんですけど、3年目は肩を脱臼したせいで8試合にしか出られなくて。もし僕が点を取っていれば名波さんはまだ続投している可能性もあったので、そういう意味でいろんな思いを感じながらリハビリしてました。

川又堅碁「オレは常にポジティブだから大丈夫なんです」

それで今年、ジェフユナイテッド市原・千葉のテストを受けることにもなったんです。2018年まで日本代表だった選手がテストを受けてるから精神的に厳しいんじゃないかって心配する人もいたけど、オレは常にポジティブだから大丈夫なんです。

チームが決まらなかった間も、実はそんなに焦ってなかったんですよ。実際、2019年は肩のケガでプレーできてなかったんで、みんなまだ無理だと見てるんやろうなと思ってたし。それにどこのチームに行っても、またサッカーで成り上がればいいと思ってるし、やっとスタート切れるくらいの体が戻ってきたんで。

2019年12月はまだ右肩が自由に動かなかったりしてたんだけど、今は右手も上がるようになったし。そこから筋トレもできるようになって、だいぶよくなって、今は自然にサッカーできるようになってきて。この新型コロナウイルスの影響でリーグが延期されてる間に肩のトレーニングもだいぶできたんで。

ジェフに所属した川又堅碁選手

(撮影:松岡健三郎)



今はね、正直、尹晶煥監督に感謝ですよ。だってオレがテストを受けた時って、どのポジションの選手もみんな決まってて、編成なんか終わってたのに、尹晶煥監督といろいろ話をして、それでチームに入れてくれたんですから、それは大きいですよ。ありがたいです。

目標はまずジェフをJ1に上げること。それに自分の結果が付いてくればいいし。J1に上げるためにチームに何かをやって、それは得点であったりアシストだったり、守備でもあったり、何でもいいんですけど、チームのためにやって、それに結果が付いてきて、それから自分の結果もついてきて、チームとともに自分も上がっていければいいと思うし。

それからね、またJ2から日本代表とかに入るような選手が現れても面白いし、メディアも絶対盛り上がると思うんで。2018年にも森保一監督から1回招集されてるんだし。その意識を持っていろんなトレーニングをやっているし、ケガしたあとは、これまで以上にしんどい時でももう一つ頑張れるようにもなったし。なんで今年楽しみです。

それにここ最近は昔に比べるとボールのもらい方とかタイミングが変わったかもしれないですね。昔はパスをもらって強引に振り向いてシュートしたりしてたけど、今は強引に振り向かなくてもいいところでもらえるようになったし、DFの間で受けるというのはできるようになったかもしれないですね。まだまだ足りないですけどね。それ、ちゃんとできたら次の代表いけるかもしれないですよね。

ここからまた一花咲かせないとね。去年苦しかったぶん、これからのサッカー人生で楽しくいきたいですね。結果として出したいね。老け込む歳じゃないし、まだまだやりますよ。がんばりますよ。今年はバッコーンと行きますよ!!

ステイホーム期間中に川又堅碁がしたこと

新型コロナウイルスの影響で全体練習が休みのとき、絵を書いたりしてました。自粛期間だからできたということもあるんですよ。継続的に絵を描きたいけど、まぁまぁ時間がかかるんです。でも、うまいんです。うまいんですよ、これが(笑)。



このヒマワリ、正直4時間半とか余裕でかかるんです。オレ、水彩画とかは全然だめなんですよ。塗り直しができないんで。油絵だったから、絵の具を描いてるやつの上に置くことができるんです。うまい人やったら1回描いたら終わるんでしょうけど、オレは下手やから何回も何回もやって、綿棒でのばしたりとかいろんな作業をしてできてて。

油絵は全く興味なかったんですけど、何かぱっとやりたくなったんですよ。レインボーのひまわりとか書いたらみんな元気になるんじゃないかなと思って。みんなが元気になるようにって描いたんですけど、自己満足みたいな感じになってんですけどね(笑)。その後もサッカーボールをレインボーの基調にして、オレたちこれから先もまだまだ明るいよって感じで描いたんですよ。

ヒマワリのモチーフは元があるんですけどね。携帯でヒマワリの写真撮ってインターネットに出してたんです。それをちょっと写して変えて。写すのも難しいんですけどね。本当はひまわりって周り黄色じゃないですか。でも俺の想像で、色を混ぜてレインボーにしたらもっとみんな明るくなるんじゃないかなって、ちょっとそこらへんも工夫したりとか。 完成したのはTwitterに載せてた2枚と、あとはInstagramにアップした字が2枚あって。

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1枚はファンの方へのプレゼント用に描いて、もう1枚は僕の、サッカーとは関係ない親友が会社やってて、その会社に飾りたいって言うんで描いて。

絵を描こうと思ったのは、オレたちっていつもサポーターの人たちがスタジアムに見に来てくれてパワーをもらってるじゃないですか。でも、その逆をね、このコロナの時期にいろいろ考えて発信したらいいんじゃないかなって。

インスタライブでみんな自分たちの話を発信したりとか、いろんなことをやってたんですよ。その中でオレも何ができるかなって考えて、画とか、料理してみて。ちょっと笑いが入るようにわざとオーバーリアクションな感じでやったりとか、それでみんな楽しんでくれたらいいなと思いながらやってたんで。いろんな選手が今まで応援してくれていた人に対して、何か還元しようという気持ちがすごく多くなった気がして、それはよかったですね。

ただ絵ってめっちゃくちゃ集中力いるんですよ。相当時間かかりますもん。やったらかっこよくやりたいから、よくなるまでずっとやっちゃうし。あれ、いきなりやり始めようかと思ったのが夜の10時ぐらいやったんですよ。それで気付いたら2時半とかやったんで。絵の具は何かひらめいてて先に買ってたんですけど。

だから絵を描くってシーズン中はなかなか出来ないけど、休みの日があって誰かリクエストとかくれたりしたら、字を書いてデザインチックな、人が見て勇気や元気が出るものを書けたらいいなと思いますけど。試合に勝って、ケガなく元気に休みが迎えられればできます。

料理もInstagramで公開してるんですけど、全然やったことなかったです。だって今までずっと外食でしたもん。家で自分が作ることなくて。1つだけ言えるのは、鶏ガラスープを使えば何でもうまくなる。うん。これ、何でもいけるんですよ。オレの味噌汁とか、料亭並みの味噌汁じゃないかと思うくらいうまくなってるし。やりだしたらとことんというタイプなので。

川又堅碁の”やりたいこと”

個展でもやりたいと思いますね。そのためには、まずチームの結果をそれにイコールにしたいですね。絵のほうが優先じゃないから。昇格記念パーティーの時に個展をやるのがいいじゃないですか。そうなれるんだったら、寝ないで3日ぐらい描きますよ。

こういう絵とか料理とかで楽しんでもらうのも悪くはないけど、でも早く普通にサッカーがある日常に戻ってほしいですね。戻るころちょうど、オレの調子は100パーセントぐらいになってますよ。

 

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前園真聖が現役時代を振り返る。なぜ、環境を変えて突き進んだのか?

今はメディアでいつもにこやかな笑顔を見せている前園真聖だが、現役時代は眼光鋭くギラギラとしたプレーヤーだった。28年ぶりの五輪出場を決め、ブラジルのスター軍団を倒してマイアミの奇跡を起こしたU-23日本代表のキャプテンとして、前園は常に注目を集めていた。

 

だが1996年アトランタオリンピックの後の前園の現役生活は苦難に満ちている。しかも日本での最後の試合は、先制点を奪うがその引き換えに重症を負うという劇的な幕切れになってしまった。その辛いときが多かったかもしれない現役時代を、いつもどおり正直に、淡々と語ってもらった。

 

前園真聖インタビュー

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前園真聖「成長するために海外のチームに行こうと思った」

 僕にとって現役のころの辛い時期というのは……試合に出たいけど出られないとか、ケガをしていてボールを蹴れないとか、プレーするクラブを探していたときとか、他にも……そう考えるといろいろありましたね。

1996年アトランタ五輪が終わるとき、僕は横浜フリューゲルスから海外に行くというのを公言してたんです。五輪のときに肌で感じましたから。世界に出なきゃいけない、世界と戦うためにはトップレベルの選手たちと毎日練習して、高いレベルのリーグで出場して成長しなければいけないって。

 

 五輪が終わってJリーグに戻ってきたとき、ヨーロッパ移籍に向けてやるんだとすごくモチベーションが高かったんですよ。自分としては日本でプレーする最後のシーズンだと思って。

でもその当時はエージェントや代理人という存在がいなかったので、契約交渉はクラブ任せという感じがあったんです。今は、クラブも大変だっただろうと思います。でもそのころは若くて「どうして僕が海外に行けるように交渉してくれないんだ」って不満が溜まって。

移籍係数がネックに

 それに、当時は「移籍係数」というのがあったんです。最高で年俸の7倍を移籍金として払わなければいけないという規約で、僕はその7倍に設定されていたので、相手チームはフリューゲルスに約4億円近く支払わなければいけなくて。

その当時、ヨーロッパのチームが日本人を4億円出して獲得するなんて、まずあり得なかったんですよ。僕は「海外移籍」と公言してたし、いろんなメディアの見出しにもなっていたけど、やっぱり決まらなくて。そんなとき、僕に手を差し伸べてくれたのがヴェルディだったんです。

 

 それで1997年にヴェルディに移籍したんです。自分の中ではもちろんしっかりモチベーションを保ったとは思うんですけど、でも少なからず海外行きの夢が絶たれたということで、当時まだ23歳だった自分のメンタルの弱さもあって。気持ちを切り替えたと思いながらヴェルディでプレーしたんですけど、うまくはまらなくて。

自分がしっかり準備をすれば試合に出られるという環境ではあったんです。いいプレーができた時もあったけど、フリューゲルスの時みたいにコンスタントに試合に出ていいパフォーマンスを出せたというわけではなかったので、すごく難しい時期ではありました。

 

現役時代の前園真聖

(撮影:Shin-ichiro KANEKO)

前園真聖「メディアとの距離をうまく作れなかった」

 あの当時のヴェルディはみんなスター選手でしたし、僕が行ってもポジションが用意されてるようなチームでもなかったんです。それに、それまでの報道で「海外のチームに行けなかったからヴェルディにした」という感じで捉えられてしまって。ヴェルディは本当に僕がほしくてちゃんと交渉してくれたのは間違いないんですけど。

ただヴェルディに入るとき、当時の移籍金では一番高い移籍金で行ったんで、メディアからはそれだけの価値を示せないって叩かれて、メディアと距離を置くようにもなったんです。試合に集中しなければいけないのにいろんな雑音もあったし。いろんな意味で……何と言うのか……本当じゃないことも書かれて、メディアとの距離を自分でうまく作れなかったというのがありますね。

 

 今みたいにクラブがメディア対応をコントロールしてるわけでもなくて、選手個人が責任を持って発言しなきゃいけないという時代でした。ただ僕は気が乗らなくてもメディアに対して何も話さないということはなかったと思います。試合が終わって納得がいかなくても一言二言しゃべると言うのは、愛想は良くなかったかもしれないけどやっていたと思います。

当時、ヴェルディにうまくフィットできなかった

 そういう中で1998年はヴェルディが変わっていく時期に重なって、うまく自分はフィットできなかったなって、自分の実力不足も含めて思ってます。試合に出ていた時期もあったけど出られないときもあったし、2年間で4人監督が代わりましたし。

ヴェルディの選手はみんな練習に対して真剣にやってたし、やっていたからこそ練習のときに他の選手と言い合いになることもあったし。それをよしと捉える監督もいれば、チームの輪を乱すと考える監督もいました。

 

 僕はいろんな監督に質問に行ったり、「なぜそうしなければいけないのか」「どうしてこういうことをするのか」と聞いてたんですけど、それを嫌がる監督もいましたね。それはその監督のやり方なんで、善し悪しはないんですけど。五輪の時の西野朗監督なんかはちゃんと受け止めてくれましたけど、そうじゃない監督も当然いて。

監督と選手という立場の違いがあるので、すべての監督とうまくいくことなんてないというのは、僕だけじゃなくてみんなあるんですけどね。うまくいかない監督の時は本当に大変でした。でもその中でトレーニングをしっかりやり続けなきゃいけない。川勝良一監督のときは本当によく僕のことを見てくれてて、評価して使ってくれましたね。

前園真聖「海外でどうしてもプレーしたい」

 そうやって過ごしている中でもやっぱり海外に行きたいという思いがあって、そんなタイミングでブラジルから声がかかってサントスに行ったんです。サントスで3カ月、次のゴイアスに半年いて、そこからヨーロッパを目指しました。自分としてはピークを過ぎてたと思うんですけどヨーロッパでどうしてもプレーしたくて。1998年、27歳のときですね。

1996年のオリンピックが終わって、1998年のフランスワールドカップは、当然視野に入れていたけれども、叶わなかったですね。それは自分の実力もあるし、評価してもらえなかったということもあるし。もちろん悔しかったし、ワールドカップに出てるはずだと思っていた自分がいないから「自分は何をやってるんだ」という思いにもなりました。

 

 けれど、それをずっと引きずっても仕方がないし。自分の思っていたとおり順調にいっていれば、オリンピックの後にヨーロッパに行って、チームで試合に出ながら活動して、当然日本代表にも呼ばれてただろうけれども、そうじゃない自分をちゃんと受け止めてました。

テストでヨーロッパを回ってる時点で、日本代表なんかはちょっと先の目標になってるじゃないですか。まずは目の前のことをやるしかないから。プレーする場所を探さなきゃいけないし、評価してもらわないといけない。だから、そこに対する焦りはあまりなかったですね。

前園真聖が1番辛かった時期

 最初ポルトガルに行って、1部に所属しているヴィトーリア・ギマランエスのテストを受け、その後はギリシャの1部リーグのチームのテストに行ったりしながら4カ月過ごしました。その間は所属チームがないから、練習しながら先が見えない契約をずっと待つような形だったので、その時期が1番辛かったかな、と。

今の日本の選手たちは、相手のクラブがある程度取ることを前提にしてテストしてるじゃないですか。コンディションを見ながら決めるという感じで。でも僕たちのころはそうじゃなくて、こっちから頼んで練習に行って、相手は「じゃあ見てやろう」という感じなんで、全然違うんです。

 

 ヨーロッパにいた4カ月間はホテル代やエージェントに払う費用とか全部自分持ちです。エージェントはずっと一緒にいるわけじゃなくて、チームに送り込んだら帰ってしまうんで、後は自分1人の生活ですから。ホテルから練習場までは自分で行ったり、仲良くなったチームメイトに迎えに来てもらったりしてました。

ポルトガルでは練習参加して1カ月経っても結論が出なかったんですよ。20代前半の若い選手じゃない、もう成熟した選手をそんなに長い期間テストして見極められないってどういうことだと思ったんです。普通は大体1週間とか10日ぐらいでどういう選手かわかるはずですから。経歴も送っているし。

松原良香さんとの縁

 それで代理人が住んでるスペインに行って「次のところに行かせてくれ」って言って、スペインのジムでマシントレーニングしたり、公園でボールを蹴ったりしてたんです。そのときちょうど松原良香がスイスにいたんですよ。FCチューリッヒのテストを受けに。

それで良香に「一緒に練習させてくれるよう言ってくれ」ってお願いして、スイスに飛んでチューリッヒのセカンドチームと一緒にトレーニングさせてもらったんです。そうしたら良香はボロボロのホテルに泊まってたんで、「うちのホテルにおいでよ」って言って、一緒に泊まって2、3週間ぐらい2人で練習場に行ってました。

 

 それからギリシャのサロニカにも1カ月ぐらいいたのかな。そこもポルトガルと一緒のような状況だったので、ブラジルのクラブを辞めてからだと約5カ月ぐらい公式戦をしてない感じになったんですよ。エージェントはもうちょっと信用してなかったから、当時の事務所と「このままだとまずい」というのを話してたんです。

 

前園真聖さんに現役時代を振り返ってもらいました

前園真聖「サッカーが好きだから辞めるということは考えなかった」

 その中で声をかけてもらったのが湘南ベルマーレでした。1999年でJ2に落ちて2000年からは新しく市民球団になる、しかも指揮するのは僕が1997年にヴェルディに入ったときの最初の監督だった加藤久さんだったんです。

J2というのがちょっと引っかかりましたけれども、まずは自分がプレーをしなければいけないということで、「よろしくお願いします」とチームに入ったんです。

 

 好きなサッカーでずっとやってきてるんだから、多少うまくいかないとか苦しい中でもやり続けなきゃいけないし、ヨーロッパでテストを受けていた期間もなかなか大変なことも多かったけど、やっぱりサッカーが好きだったからそこで辞めるということは考えなかったし、サッカーがやれる場所を自分で作らなきゃいけなかったし。

そういう中で声をかけてくれたベルマーレに行くと自分で決断して帰ってきました。正直に言うと日本に戻りたくないという気持ちはあったんです。それだけ僕は海外でプレーするというのにこだわってたし、どこであれ海外に行くのを考えてたんですけど、でも5カ月もプレーしてなくて、これが続くというのは自分にとってはあまり良くないと思ったんで。まずはピッチに戻ってプレーするのが優先順位として高かったんです。

 

 ベルマーレで最初に練習グラウンドに行った時のことを覚えてるんですよ。市民球団に変わったから、それまでのベルマーレの選手たちは出て行って若い選手に代わってて、正直に言えば、これは昇格までしばらく時間がかかるかもしれないと思いました。1年で上がれるチームじゃないなと。多分クラブとしてもそう思ってたでしょう。それでも何とか戦えるようにと思って、「僕の年俸を削っていいから良香を連れてきてくれ」って言って、良香が入って、形になってきたんです。

そこからコンディションも含めて1年間でしっかり元に戻っていったのがベルマーレ時代でした。1年間で38試合出て11点取れたのは自分でも自信になりましたし、ある程度自分が戻ってきたという感覚もあって。

ベルマーレから古巣のヴェルディへ

 それで2001年にヴェルディに戻ったんです。ヴェルディも「ヴェルディ川崎」から「東京ヴェルディ」になってましたけど、僕のパス(保有権:現在は廃止)はずっとヴェルディが持ってました。松木安太郎監督が戻って、ヴェルディからいろいろ散らばっていた選手を戻しながら新しいヴェルディを作るということで声をかけてもらって。

 

1998年にいたころとはメンバーがだいぶ変わって、小倉隆史とかも入ったりして、自分も気持ちを切り替えて環境が変わった中で取り組んだんです。少しずつパフォーマンスもよくなってきて、一番いいときの自分の調子とまではいかなかったんですが、少しずつ戻ってきてる感じがしてました。そんな中で、9月15日、国立競技場での横浜F・マリノス戦があったんです。

前園真聖「ケガしたシーンは未だに見ていない」

 あの日、本当はスタメンじゃなかったんですよ。当日体調不良になった選手がいて、それで僕が急きょ出ることになったんです。でも自分の状態が戻ってきてるのもわかってたし、スタメンじゃなくてもずっと準備はしてたので、モチベーション高かったんですよね。

前半35分に相手GKの川口能活と僕の間にボールが落ちたんです。僕は足を伸ばしてシュートに行こうとして、能活も飛び出してきて。ぶつかるというのは、あの局面が来たときに分かりました。ボールが落ちた瞬間にどっちかがケガするというシチュエーションだったと思います。

 

 それで足を出してボールに触った後に、危ないと思ったから体を引いたんです。でも足は先に地面に着いちゃってるから、そのままグキッと音がして。

だからそのゴールの瞬間も痛すぎて見えてないし、歓声でボールが入ったんだなって。僕はあのシーンをその後ビデオでも見てないですね。

もう1回やり直し

自分がいい状態の時にケガをするというのは、なかなか……。自分が骨折したというのはその瞬間にすぐわかったので、「なるほどな」と思いましたね。「まだまだだな。もう1回やり直ししなきゃいけないな」って。

 

 骨折のような大きなケガは初めてだったんです。でも、なんというのかな、骨折だったから逆に「仕方がない」と諦めがついたというか。これは試練を与えられたと気持ちを切り替えられたというか。

捻挫とか膝をちょっとひねったりしただけだったら、「なんでやっちゃったんだ」って悔やむんですよ。調子が良くなってきたのにまた1カ月休まなきゃいけないのか、試合ができないのかって。でも骨折なので仕方がないんです。

 

 そのケガからの復帰は年齢のことも考えてとても慎重にやりました。全治1カ月ぐらいのケガだったら焦ってたと思うんですけど、そうじゃなかったから逆にしっかり治さなきゃいけないというのがあったので、長かったですけど非常に慎重にやりました。それで2002年にようやくサッカーができるところまで戻ったんです。

ヨーロッパに行ってた時も当然苦しいという気持ちはあったんですけど、それは自分自身の問題で、一応ボールを蹴れるし、練習できるという環境ではあったから。ケガの場合はやりたくてもできないじゃないですか。それは僕にとって初めての経験で。

 

 少しずつ歩けて、走れて、少しボールを蹴って、という喜びがあって、少しずつ試合に出られるようにするためのパフォーマンスや対人プレーの練習をやっていく中で、またサッカーできると喜びを感じてたんです。

2003年はヴェルディで1試合もプレーできなかったというのはあるんですけど、またサッカーができるという喜びのほうが自分の中では強かったんですね。だから「もう1回サッカーをやりたい」「もう1回チャレンジしたい」という思いが出てきたんです。

前園真聖「チャレンジをするのが好き」

 それで2002年のシーズンは終わってからまた次のところを探そうという中で韓国に行ったんですよ。日本でカテゴリーを落としたら行けるクラブもあったんですけど、自分はヨーロッパでのテストを経験して、いろいろ違う環境を選ぶのが好きだと分かってたんです。

もう30代に差し掛かっていたので、そこからヨーロッパというのはもう難しかったし、J2は経験していたので、また新たな自分のモチベーションとなるのはどこかと考えたら、それが韓国で。

 

 韓国が身近というか、年齢別代表時代からずっと対戦してましたし、アトランタ五輪のアジア予選では本大会出場を決めた後の決勝戦で対戦して負けてたし。最初に日本代表に入ったときの1994年アジア大会でも韓国に敗れてましたからね。だから韓国ってどういうところなんだろうって興味があったんです。

韓国のときは声をかけてもらってテストを受けて、1週間ぐらいで合格したんでKリーグで2年間プレーしました。

 

 最後、日本に戻ってきてどこかのチームでプレーできたかもしれないんですけど、でも何か……うーん……それはできたのかもしれないけど、また僕は海外に行きましたからね。セルビア・モンテネグロのベオグラードに行ってテストを受けて、結果的にそこが自分の現役の最後になりました。

そういう人生というか、五輪以降はやっぱり海外への想いがどこかであったんでしょうね。それに、そういうチャレンジをするのが好きなんでしょうね。環境が整ってなかったりというか、言葉も知らなかったりとか、そういう大変なところに行ってプレーするのが好きなんでしょうね。

 

 海外への挑戦は決してうまくいってないと思うんですけど、そういうことが自分の中で蓄えとか経験になるなって思ってやってたんですよ。もちろん成功してうまくいくのが理想だけど、うまくいかなくても後々そういうのが経験になるんじゃないかと思ってやってたんで。そう思わないとやれてないですけど。

 

前園真聖」「今の自分があるのはサッカーのおかげ」

前園真聖「今の自分があるのはサッカーのおかげ」

 僕はある意味珍しいと思うんです。別に……オリンピック出場を決めたという事だけじゃないですか。自分の功績とか実績で言えば。28年ぶりに五輪出場を決め、マイアミの奇跡を起こしたチームのキャプテンというのが、僕の唯一の実績で、ワールドカップに1度も出てないじゃないですか。

1996年アトランタ五輪出場を決めた後、異常なくらいにサッカー界が盛り上がって、そのおかげでサッカーの枠を超えたCMに何本も出させてもらったりとか、そういうのを若い時にいろいろ経験して。

 

 そこからなかなか自分がうまくいかなかったというのをサッカー人生の中で経験したんで……いろんなことを……若い時にいい時はメディアにちやほやされて、でもダメなときには叩かれて、本当のことを書いてもらうこともあれば嫌なことを書かれたこともあるし、真実じゃないことを書かれたりとか、そういうのをたくさん経験したんですね。いいことも悪いことも、あまり他の人が経験してないジェットコースター並みのいろんなことを経験しました。

引退してから自分の現役時代を振り返ると、「このときはこうしたほうがよかった」と考えるじゃないですか。それで現役を辞めた後もテレビに出してもらって、自分がメディア側に立ったときに選手の気持ちがわかるというか。そういうのはサッカーの中ですべて経験させてもらったからなんです。

 

 自分の良いことも悪いことも含めて常にサッカーと一緒にあったので、ピッチの外からサッカーを見てても客観的に見られるのかなって。だから選手に対して上からというか、そういう態度にはならなくて。

もし自分がワールドカップに2、3回出てたりしたら、そういう功績を……何と言うのかな……うぬぼれるとか自慢げに語ったりしてたかもしれないんですけど、自分の功績としてはあまりなくて、五輪にしか僕は出場してないのに、現役終わった後にメディアに出してもらったりサッカーに関する仕事でテレビに出してもらったりしてるのは、すごくありがたいことだし、だからどれも一生懸命やらなきゃいけないと本当に思ってるんです。僕が今あるのはサッカーのおかげなんだなって。そう思ってます。

前園真聖の「やりたいこと」

 現役のときは週末の試合やその先の日本代表とか、五輪やワールドカップとか、いろんな目標を見据えて、そこから逆算して毎日の練習に取り組むみたいなことがあったと思うんです。

でも、自分の不祥事で仕事が全くなくなった時期が3カ月以上あったんで、自分がボールを蹴ってたりとか、引退した後にサッカーに関わるレギュラー番組をいただいたりとかというのは、当たり前じゃないというのに気付いたんです。

 

 そのとき日々過ごせるありがたみというのを、自分の大きな失敗で経験してるので、復帰したときにまたいろいろお仕事をいただけるようになって、活動できるというのは本当にありがたいことなんだというのをすごく感じてやってるんですね。

だから「今やりたいことは?」って聞かれると、これっていうことがないんです。そう言うと誤解をされちゃうかもしれないんですけど。

一つひとつの仕事をしっかりやっていかないと、自分が思ってるところにたどり着けないんだなって。今の僕はバラエティー色が強いと思うんですけど、いろんな人に会ったときにそう言ってもらえるのもありがたいし。一方で復帰した2014年からLivedoorさんでサッカーの連載コラムを300回以上、今もやらせてもらっていて、そうするとサッカーの仕事もスカパー! さんやNHKさんの番組にも声をかけてもらって。

 

 どれも自分がやりたいと言って始めたんじゃなくて、今ある仕事をしっかりやってると次の仕事も来るんだというのが自分で分かったし、先の目標を見るよりも目の前のことをしっかりやっていくというのが大事で、それをやっていかないと先はないというのがなんとなくわかって、「やりたいこと」を追うのではなく、目の前のことをしっかりするのが自分にとって大事だと思っています。

前園真聖が新型コロナウイルスで感じたこと

 今は新型コロナウイルスの影響でみんなストレスが溜まってますね。僕がそれを1番感じるのは車で移動しているときで、みんなの運転が荒くなってるんですよ。すごく飛ばすし、イライラしてるんだろうなというのをなんとなく感じます。

僕も時々車を運転してて、それまでは、ちょっと入れて欲しいときに入れてもらえなかったりすると「なぜだ?」という気持ちになってたんです。それから渋滞でイライラしたりとか。そういう「いらつき」って自分が思ってたとおりじゃないことが起きたときに感じると思うんです。

 

 それでちょっと考えたんですよ。自分が変えられないことに対して怒りをぶつけても、変えられないものは変えられないから、それをちゃんと見極めるなきゃいけないなって。変えられないんだったら、そのことを引きずるんじゃなくて、気持ちを切り替えたほうがいいなって。

あとは、人はそれぞれ自分なりの「べき」というの持ってると思うんです。

その「こうあるべき」というのを相手にぶつけると結構混乱が起きると思います。「こうあるべき」「こうあるべきじゃない」というのは、それぞれ人によって違うと思うので、それを他人に求めてもぶつかると思います。

 

 その「べき」は、僕の中でできる限り排除してるんですよ。だからこういう状況で仕事もなかなかうまくいかないし、「仕事をするべきだろう」「休むべきじゃない」「なんで仕事がないんだ」と思っても仕方がないので。環境が整っててできないんだったらイライラするかもしれないけど、そうじゃなかったら、そこに腹を立てても仕方がないし。

逆に今の状況が落ち着いたら何をするかということを考えたほうがいいと思うから、そういうふうに自分をもっていったほうがいいんじゃないかなって。半ば諦めも必要だし、それと同時に先にある楽しいことを考えたほうがいいかもしれないです。よくポジティブ思考といいますけど、楽しいことをイメージしながら、これまで以上に貯めてたパワーを出す準備をすることが、今、大事かもしれないですね。

 

前園 真聖(まえぞの まさきよ)

1973年10月29日、鹿児島県生まれ。鹿児島実業高校から1992年、Jリーグ 横浜フリューゲルスに入団。1996年のアトランタオリンピックに選出され、ブラジルを破るマイアミの奇跡などを主将として演出。

ブラジルのサントスFC・ゴイアスEC、韓国の安養LGチータース・仁川ユナイテッドなどの海外クラブでプレーを続けるも、2005年5月19日に現役引退を表明。

現在はテレビなどのメディアにも数多く出演をしつつ、ZONOサッカースクールで少年サッカーを中心に全国の子どもたちにサッカーの楽しさを教えるための活動をしている。

 

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木村和司、初のオンライン取材 「もう一回監督をやらないけん」

現役時代は正確な右足で日本代表の10番を付け

監督時代は歯に衣着せぬ発言で人気を博した

そんな木村和司は監督を辞めた後どうしているか

 

横浜に広大な土地を買い夢を実現した

土地活用を工夫しながらサッカースクールを立ち上げる

子供たちだけではなく大人たちも楽しくボールを追う

 

監督を辞めた後にどうしていたか

2015年に発症した脳梗塞の影響はどうか

自宅からのビデオ通話で答えてもらった

 

木村和司、初のオンライン取材

木村和司、初のオンライン取材

こんなビデオ通話の取材って初めてよ。なんでこんなことが出来るの? でもこれがこれからの主流になるのかもね。

ワシも自宅こもりっきりやな。顔色いいのは、まだのう、コロナにかかってないからな。わははは。外に出んからヒゲ伸ばし放題や。

 

1994年に現役を終えて、あと自分で食っていくしかないやん。クラブに残してくれるとか、そういうことはなかったな(笑)。

どこかのチームのコーチに入るということもなかったな。コーチングライセンスは取っておこうと思ったけどな。1995年だったかな、Jリーグの監督できるS級コーチライセンス取りに行ってな。

ワシらは特別というか、当時は日本代表で実績を残した選手は飛び級という制度が使えたからな。12歳以下を教えられるC級ライセンスとS級ライセンスを同時に取ることができたんよ。

一度に講習受けられたこと考えたら、よかったよ、ライセンス取っておいて。あんな面倒くさいことをな。金かかるしさ、1年ぐらい時間もかかるし。そういうこと、日本サッカー協会に言いたいよ。ワシがライセンス取ったときの講師は今の田嶋幸三会長やからな。

 

ライセンスの講習のとき、ワシにサッカー教えることになった人はイヤやったと思うよ。あんなの受けなくていいやんなぁ。ホント、何教えるんやろうなって。それでテストでさ、何の試験だったか忘れたけど……サッカー理論かなんかで落とされてさ(笑)。怒鳴り込んでいったよ。講師の人のところに。

 

S級ライセンス取ったけどな、どうなんじゃろうな。すぐに監督をやってほしいとかいう声は全然なかったな。だから自分で探さなきゃならんかったからな。よくわかんなかったね。それで2010年から2年間、横浜F・マリノスの監督をやってな。

 

横浜F・マリノスの監督時代 (撮影:佐藤博之/Backdrop)

横浜F・マリノスの監督時代 (撮影:佐藤博之/Backdrop)

木村和司がスポーツジャングル10を始めたきっかけ

そんで2012年に辞めて、今の「スポーツジャングル10」をやることになったんだけどさ。まぁ始めたきっかけは……たまたまじゃない?  なんだったかな。なんかで知り合った人が……うちの社長(木村夫人)のほうが先に知り合ったのかな。工務店の人でさ、その人もたまたまサッカーやっててさ。

 

で、土地があるって言うんで、見に行ったら本当の野っ原よ。3,000坪あったけどな。そういうね場所はほしかったというか、そういう思いはあったよ。自分でもやっぱり蹴りたいというかさ。蹴って教えたいってね。

でもそこは「市街化調整区域」でさ、あんまりいろんなことができないという土地だったんよ。建物の建築とか大規模な開発とか、あまり自由にできないって法律で決められてんだよ。

けど、そこを買って「スポーツジャングル10」がやっとできたというか。土地を買ったときは、社長が勝手に決めてきてさ(笑)。調整区域でも金払わなきゃいかんからさ。大変だったよ。あんまり大きい声で言えんけどな、借金して。

 

もしあれが市街化調整区域じゃなかったらさ、ワシは今ごろあの土地売って大金持ちよ。調整区域から抜ければかなりな額やろうな。でも調整区域から抜けたら自分のとこでは持てんよ。固定資産税とか払えん。払ってくれや(笑)。

 

だけど調整区域だからいろいろできないんよ。クラブハウスとかも建てられんから、トレーラーハウスを置いてるんよ。トレーラーハウスだから動かせて、建物にはならないんよ、あれは。あとはいびつな形の土地だったからな、フルコートができんかったからちょっともったいなかったけどね。

それでも7、8人制サッカー(ソサイチ)ができるコートが作れたし、フットサル場は3面できたな。JFA公認のロングパイル人工芝敷いてな。ちょうどいい大きさじゃない?

 

東京からもすぐやん。車だと東京インターチェンジがある用賀から30分じゃもん。首都高の新横浜出口からはもっと近いし、東名高速道路の横浜町田インターからはさらに近いし。アクセスはいいよ。自然もあるし、目の前には「よこはま動物園ズーラシア」があるからな。サッカーの前後に行って遊ぶことも出来るし。

場所を手に入れたときからさ、子供とかプロじゃない大人を相手にやろうと思ってたね。そういう固定したところでサッカー教室でもできればいいなと思ってた。教える相手は子供とか、あとは普通の大人の人たちだからね、だからおもしろいんよ。こっちが言ったことができないからさ。そういうのがいいんよ。

 

指導するのは疲れるし、「もうええわ」っていう終わりかたするんだけどね(笑)。一時は東大のグラウンドも借りてやってたな。最後は大学から「辞めてくれ」と言われたけどな。もうちょっとやりたかったけどな。

新型コロナウィルスの影響で営業自粛中

こういうことやって黒字にするのは大変よ。従業員もいるしさ。それにマネージャーがいないと、ワシ、何もできないもん。まだ借金は返してる段階よ。ワシはよう金のことはよくわからんけどな。まだだと思うで、そら。

仲のいいメーカーに、「サッカー教室をする場所とか土地を提供してくれ」とか、そういうことやってればもっと楽なんだろうけどね。ワシは言えんからなぁ。性格的にダメ。もっとね、欲があればいいんだろうけどね。強くなればいいんだけど。人がいいからのう。

 

本当はたくさん月謝とか利用料金とか取りたいけど、良心的だろう? 優しいだろ? そういうところ分かってほしいのう(笑)。でもね、いっぱい来てくれるようになって助かってるよ。今、大人は3、40人来てて、子供は100人弱ぐらいやったかな。

今は新型コロナウィルスの影響で4月から自粛しとるけどな。コートは屋外やけど一応自粛してる。ワシは「やれ」と言ってるけど、社長が反対するからのう。こういうサッカーでも接触とかあるからな。ワシから思うと大したことなくてもな。

こうやって休みになってやばいのう。この時期は全員ヤバいやん。どうする。ホント、ワシらだけじゃないよ。誰が助けてくれるんじゃろうか。

 

「スポーツジャングル10」を作ったのが2012年やから、8年間よくやってるのう。どうやってやってるんか、わからんけどのう。出来て3年経ったところ脳梗塞やったからな。熊本行ってゴルフしとってな。空振りを2回したから「これはおかしい」と思って途中で止めて、そのまま病院に行ったのよ。でも歩いててフワフワするぐらいで、診察してもらってすぐ帰ろうかなと思ったもん。

 

リハビリを語る木村和司

木村和司が語る「脳梗塞からのリハビリ」

そしたら「ちょっと待ってください」って言われたんよ。「ちょっと調べますから」って。それ「脳梗塞です」って、即入院よ。おかげでギリギリセーフのところやったからな。下手したら危なかったからな。入院した次の日から体が動かんようになったもん。

足は全然治らんぞ。でも、だいぶよくなったかな。最初は車椅子やったからな。そこからギブスになって、何かにつかまって歩けるようになって、今は1人で歩けるようになった。

 

まぁ思うたよ。サッカーよくサボりよったからな、こういうのも治らんよ。リハビリも真面目にしてないからな。あとは古傷があるからな。右足首が痛くてさ。右足首は大学のころからもうボロボロやったね。ワシが倒れた後もスクール生は残ってくれてのう。人徳かもね(笑)。

 

この前、病院でまた見てもらったよ。もう体はボロボロよ。日本と一緒よ。ボロボロ。日本というか地球規模での。人間が悪いんだけどの。

今は部屋から出られんからな。糖尿病だから今回コロナに感染したらやばいんよ。重篤、重症になる。だからならんように周りがしてくれとるんよ。気つかってくれとる。今は何カ月かに1回病院に行ってるからね。

部屋から出られんぶんリハビリかなあ。マネージャーがワシのためにブルブル震える運動器具持ってきてくれたんで、毎日それに座って乗ってるよ。一応運動やからな。でもな、乗ってても足首が痛かったりもするんよ。

 

大学から日産自動車に入ったころにはもう右足が変形してたしね。軟骨がすり減ってて。整形のお医者さんに言われたで。変形性の病気だって。しょうがない。これだけ長いことやってたらな。現役のころは周りの筋肉でもってたんよ。でも今、筋肉が全然ない。どっかに行ったもん。

筋肉、どっかに行ったけどさ、そのぶん脂肪が増えてさ、体重が増えてばっかり。酒は飲んでないよ。今だけな。このインタビューの時間だけ(笑)。そらそうだろ。もうちょっとしたらシャワー浴びて17時ぐらいから飲みだすんよ。

 

はよ、この新型コロナウィルスの騒動が終わって、みんなが来てくれたらの、ええけどな。今は本当に大変やからな。仕事もできん、金も回らんなぁ。政府もちゃんと金出しゃええのよ。金出せば文句言わんのよ。誰が助けるんか、いつ助けるんか。今じゃないかのう。……今でしょ(笑)。

木村和司「もう一回監督をやらないけん」

今、「カシャ」って音がしたのは……この画面を写真撮ってるんか。おもしろいね。すごいな。最近、ほとんどこれやろ。会社もこれでやるんやろ。すごくなったね。いろんな技術は進んでるな。

 

けどな、こういうのはいいけどさ、よくなってるけど、医療はのう。ちゃんとのう、なってほしいのう。その椅子に座ればさ、体全部見られるとかさ。そりゃ昔に比べたら医療もよくなってるけどさ、まだまだでしょ。

新型コロナウィルスのええ薬がすぐ出てくりゃええんやけどな。それからワシの右足を治す薬が出てくればいいけどな。あとは採血って、なんであんな痛いの、せにゃあかんの。ワシは注射が一番大っ嫌いやもん。

 

これから何かせんといけんのう。ワシは病気したけど生かされたんだからな。もう一回最低でも監督をやろうかなと。やらな、いけんな。あのまま終わっちゃいけんやろう。何かを残さんといかんな。サッカー界というか、よく言う「恩返し」というかさ、何かしていかんといけんな。

倒れた後もグラウンド行ってるよ。ヒマだから、見に行かなきゃ。でももうFKはダメだな。蹴れないもん。どっかで蹴られるようになればな。左足だったら今も蹴られるけどな。でも左足もな、右足が立ち足だからさ、やっぱり痛いんよ。

 

今は「スポーツジャングル10」の場所を、もうちょっとな、整備したいな。金があればね。もうちょっと広げてフルコートが出来るぐらい。うまくやればな、できると思うんだよね。

まぁフルコート作らなくてもええけど、あそこをどう言うんかな、もっともっとよくしたいよ。入ってきた道路からうちの土地やからな。あそこの入り口にETCのようなの付けてお金取ればいいかな(笑)。

駐車場もタダやからな。ワシはなんて人がいいんやろうな。うまいとこやれば、グラウンドを上から見ながらくつろげるところも作れるけどね。調整区域やから、あんまりいじっちゃいけんのやけどね。

 

それから夢に向かってな、やってることがあって、まだ話できんけどな。いろいろ準備しとるよ。マネージャーが嫌な顔したから言えんけどさ。最近、怖くて何にも言えんよ、ワシ(笑)。まぁ今、やっとるよ。それまでに新型コロナウィルスが収まるといいけどな。これだけはな、わからんな。まさかこんなことが起きるとはのう。大変じゃのう。 おー、そろそろか。なんでこれが繋がってるの? って思うよな。

 

じゃ、またね。

 

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