元サッカー日本代表のキャプテン 井原正巳が考える「理想のリーダー像」

1997年、日本サッカー界は大きな転換期を迎えようとしていた。1998年フランスワールドカップ出場をかけたアジア予選が集中的に開催されたのだ。1993年の「ドーハの悲劇」もあってワールドカップ出場はそれまで以上の「悲願」とされた。また2002年日韓ワールドカップが決まり、それまで本大会に出場した経験のない開催国はなかったということで、このフランスワールドカップ出場は「義務」という雰囲気にもなった。

日本は何度か本大会出場の夢を打ち砕かされそうになりながら、何とか最後は出場権をもぎ取った。その厳しい戦いをキャプテンとして戦い抜いたのは井原正巳。引き分けた試合後、椅子が選手バスに投げられるなどの中で、期待を感じ、責任を受け止め、仲間をまとめながら戦い抜いたあのときの話を聞いた。

 

 

(オンラインでお話をうかがいました)

(オンラインでお話をうかがいました)

井原正巳の苦しかった時期

僕の現役時代で一番苦しかったのは、やっぱり1998年フランスワールドカップのアジア予選を戦っているころだと思いますね。あの予選の間は非常にプレッシャーもありました。ワールドカップに出なければいけないという責任感も、世間の期待感もある中で、そういうものを重圧に感じたと思います。

1994年アメリカワールドカップのアジア最終予選、ドーハでの試合が終わってから1、2年してキャプテンを任されることが多くなってきて、柱谷哲二さんが日本代表に呼ばれなくなったときは自分がキャプテンという感じではあったので、そういう意味ではプレッシャーがありました。

 

それから2002年日韓共催のワールドカップが決まっていて、それまでワールドカップを開催した国で本大会に出場していない国はなかったということや、ドーハがあったのでなおさら「次の大会は必ず」という流れもあって、それもプレッシャーでしたが、もう信じてやるしかなかったですね。

あの予選はアトランタ・オリンピック組の若い力が途中からかなり合流してきました。その世代の選手たちはカテゴリー別の代表チームで世界大会に出ていた選手たちだったので、そういう経験をしてない代表メンバーよりもよりたくましさと言いますか、怖いものなしと言いますか。ジェネレーションギャップじゃないですけど、ふてぶてしさとか世界と戦ってきた自信を持っている選手が多かったんですね。松田直樹(故人)とか、川口能活、城彰二、中田英寿含めて。

ピッチ内では先輩後輩関係ない

彼らの個性は強かったですけど、サッカーに対しては純粋に勝ちたいという思いでいっぱいだったし、またピッチ内では先輩後輩とか年齢とか関係なくやるっていうところが彼らの良いところでもあったし、そういうほうがいいという自信を持ってたし。昔だったら、どうしても先輩には遠慮して気を遣ったりとかってあったと思うんです。それは日本人の良い面でもあり、良くないと思われるところで。

そういう関係が昔はあったと思いますけど、そういうのがなくなってきた世代ではあると思うし、世界に対する経験値を持って代表に来てくれている選手が多かったので、それまでの代表にはない雰囲気を持った若い選手が多かったと思いますね。

ワールドカップアジア最終予選を振り返ると、どの試合も全部大変だったんです。まずはレギュレーションが急遽変わったんですよ。1次予選は4チームで、セントラル方式だったんです。4チームが日本とオマーンに行って、そこで他のチームと対戦するっていう。最終予選もどこかに集まって試合をするという予定だったんですけど、それが5チームのホームアンドアウェイ方式になったんですね。 

【アジア地区1次予選グループ4】

出場国:日本、オマーン、マカオ、ネパール

 

・オマーンラウンド

第1戦 1997年03月23日 日本 1-0 オマーン

第2戦 1997年03月25日 日本 10-0 マカオ

第3戦 1997年03月27日 日本 6-0 ネパール

 

・日本ラウンド

第4戦 1997年06月22日 日本 10-0 マカオ

第5戦 1997年06月25日 日本 3-0 ネパール

第6戦 1997年06月28日 日本 1-1 オマーン

【アジア地区最終予選 グループB】

出場国:日本、韓国、UAE、ウズベキスタン、カザフスタン

 

第1戦 1997年09月07日 日本 6-3 ウズベキスタン

第2戦 1997年09月19日 UAE 0-0 日本

第3戦 1997年09月28日 日本 1-2 韓国

第4戦 1997年10月04日 カザフスタン 1-1 日本

第5戦 1997年10月11日 ウズベキスタン 1-1 日本

第6戦 1997年10月26日 日本 1-1 UAE

第7戦 1997年11月01日 韓国 0-2 日本

第8戦 1997年11月08日 日本 5-1 カザフスタン

【アジアプレーオフ(第3代表決定戦)】

1997年11月16日 日本 3(GG)2 イラン

※GG:ゴールデンゴール/延長戦でどちらかのチームのゴールが決まった瞬間にタイムアップになる方式

日本代表韓国戦(c)Shin-ichiro KANEKO

日本代表韓国戦(c)Shin-ichiro KANEKO

井原正巳がワールドカップ予選を振り返る

リーグ戦の最中に、急に3カ月の長丁場になって本当に大変でした。最初のウズベキスタン戦は6-3といいスタートを切れましたけど、第3戦のホーム・韓国戦で逆転負けして、続くアウェイのカザフスタン戦に1-1で引き分けて、初めて日本代表監督が予選中に、加茂周監督から岡田武史監督に代わるという事態になって。そのカザフスタンやウズベキスタンという中央アジアで試合をしていたあたりは、「本当にワールドカップに行けるのか……」という雰囲気になりかけたところもありましたし、苦しい時期ではありました。

ホームのUAE戦は、僕は出場停止でちょうど試合に出られなかったんですけど、追いつかれて引き分けて、自力でのワールドカップ出場が難しくなったんです。その結果は受け入れるしかなかったですし、終わったわけではなかったですし。だからもう切り替えてやるしかなかったし、そういう思いは選ばれた選手全員が持っていたと思います。

 

そこをどう乗りきったか……みんな本当にワールドカップ出場のためにみんな努力してましたし、そこはスタッフも同じで……選ばれた代表選手もそのためにいろんなことを犠牲にしながら戦って……日本のために、自分のために、家族のためにという思いで戦っていたので、もうそうなると自分たちを信じるしかなかったという感じですね。

それに1994年ワールドカップアジア予選のイラク戦では残り少しで追いつかれて本大会に行けなかったんですけど、そのドーハの試合があったので、ほんとに最後の最後まで諦めずに戦おうって。3カ月の最終予選ではいろんなことが起きましたけど、そういうことに動揺せずに、自分たちは最後の出場権を勝ち取る可能性がある限り戦おうという思いでやってました。

サポーターが暴れたことで世界に少し近づいたと思った

そうしたらUAE戦が終わって国立競技場で初めてサポーターの方がパイプ椅子を投げたりして、選手の乗ったバスが足止めを食らったりということが起きました。

それまでの日本のサポーターって観戦マナーがいいと思っていたので、「ここは本当に日本なのか」という感じがするくらいで。ワールドカップに出場してほしいという思いもわかったんですけど、そうやって暴れるような人が出てきて世界に少し近づいてきたと言いますか、それぐらい熱い思いの強いサポーターが多くなって。逆に怖さを感じたところはありますけど、でもそれだけみんなが日本代表チームを応援してくれてるんだという思いも感じつつ、やるしかないなというところではありました。

それで韓国にはもう先にワールドカップ出場を決めていただいて、我々はグループ2位でプレーオフ進出を狙うというところにターゲットは変わっていきました。だから第7戦の韓国戦に照準をもう絞るしかなかったですね。

 

キャプテンをやっているプレッシャーもありましたけど、勝ち抜こうという思いでみんな選手はまとまっていましたし、僕がキャプテンだったけれども、他の選手もいろんな選手が助けてくれたりとか盛り上げてくれたりしてたので。

山口素弘とか名波浩なんかは本当にリーダーシップがある人間ですし、1996年は代表から外れていた中山雅史がホームのカザフスタン戦から帰ってきたりとか、そういう選手が引っ張ってくれてましたね。でも、もちろんドーハを経験しているキーちゃん(北澤豪)とかカズさん(三浦知良)とかがどんどん引っ張っていたので、チームが自信をなくすという事はなく、最後まで戦い続けられた部分はあります。

井原正巳が考える「理想のリーダー像」

キャプテンだったから「理想のリーダー像」について聞かれることもあるんですけど、僕もわからないんですよね、やっぱり。いろんなリーダーがいますし、それぞれタイプが違うし、それぞれ置かれている状況も違うし。ただ、今、どういうものがリーダーに求められているかをすぐ察知できたり観察できて、その状況に必要なものを出していけるリーダーが1番いいのかなと思います。

サッカー界でもキャプテンやリーダーがたくさんいます。僕の前は柱谷さんという本当に熱い闘将タイプのキャプテンがいらっしゃいましたし、僕のあとでは宮本恒靖や長谷部誠がキャプテンをやってますし、今は吉田麻也がやっているので。それぞれタイプが違うと思いますし、自分のキャラクターと言いますか、パーソナリティーをしっかり持ちつつ、その中で「何が今、チームにとって必要か」「リーダーとして何をしていかなければいけないか」としっかりと判断できる人間がリーダーなのかなと思います。

ターニングポイントとなった加茂監督の更迭

このときの日本代表のターニングポイントは、もちろん監督が途中で加茂監督から岡田監督に代わったときでした。日本サッカー協会も「何かを変えなきゃいけない」という思いで加茂さんを更迭して岡田さんにやってもらうことにして。それはそのときのチームに荒療治をしないとダメなんじゃないかという判断でされたと思いますし、みんなの思いというのは選手も感じながら合宿などで生活をしていたので。

とにかく望みがあるかぎり最後まで戦おうということだけで、加茂さん、岡田さんのために、という気持ちも、日本のためにというのもあって。とにかくたくさんの熱い応援をしてくれてる人のために最後までやるしかないところはありました。

そして岡田監督になった最初の試合がアウェイのウズベキスタン戦で、その試合は0-1でずっと負けてたんです。日本にチャンスはあるけど点が入らないという展開で。最後、90分に僕の蹴ったロングボールを呂比須ワグナーが少しそらして、カズさんがGKの前を横切ったことで何とか最後追いついたんです。その1-1の勝点1が後で2位になるときに効いてきたんですけど、最後に勝点1を取れたときに岡田監督が「これは絶対ワールドカップ行ける」っていうような話をされて。それがターニングポイントになったのかと思いますね。

目標としていたワールドカップ出場が決まって

ワールドカップに出てみて、やっぱりそこは自分たちが夢に、そして目標としてきた大会でしたけど、スタッフも選手も、誰も1度もワールドカップを経験したことがない日本代表メンバーで現地に行きましたので、そういう意味ではすべてが初体験で、「こんな雰囲気なんだ」って。

事前合宿からして、「これが大会前の合宿の雰囲気なのか」とか、何もわからないままスタートして。協会の方ももちろんどういう調整をしていったらいいのか誰も、正解がないと言いますか、分からないままで本大会に向かったところもあり、調整の方法はよかったのだろうかというのはありました。

でも、行ってみたら最高の舞台でしたね。「これがAマッチ」と言いますか、他国の代表チームとやる本気の試合というのはこれしかないという戦いでした。もちろんアジアカップなんかも本気の試合で他の代表チームと対戦できますけど、アジアの中だけだし、オリンピックは年齢制限ありますからね。親善試合ではなくて世界の強豪と対戦できるのはワールドカップしかないので、それは本当に素晴らしい雰囲気でしたし、そして「これがワールドカップなんだ」というのを肌で感じることができました。

初のワールドカップを振り返る

ワールドカップを振り返ると、僕自身のプレーをもっとレベルを上げられていればよかったという思いはもちろんありますけど、代表チームの本大会に臨むにあたっての準備がやっぱり初めてだったと思いますね。

よく言われるスイスでの事前合宿、最後の合宿に行ってメンバーが何人か、カズさん、キーちゃん、市川大祐が外れるってことがあったんですけど、ワールドカップ直前のキャンプが選手選考の合宿になってるって、今だったら考えられないと思うんです。けれど、あのときは初めてだったし、その選考があれだけの大きな話題になると言いますか、日本に衝撃を与えると誰も予想していなかったと思います。

ワールドカップ出場が決まってから実際にワールドカップに行くまでの強化試合も、ほとんど海外ではやってないんですよね。もう最後の直前のキャンプに行ってようやく海外で調整試合をやったんですよ。昔は日本代表って本大会に行くことはできたんですけど、マッチメイクをまだ他の国が受けてくれなくて、なかなかできなかったんでしょう。

 

そういう準備不足っていうのは間違いなくあったと思います。でも、そういう経験が次のワールドカップに生かされたところはあると思いますし、ワールドカップに出るたびにそういうことを常に考察して、また次にいいものを継承してという形になっていると思います。

……ワールドカップ、もう1回出たかったですけどね(笑)。そういう悔しさはありますけど。

 

マリノス時代(c)Shin-ichiro KANEKO

マリノス時代(c)Shin-ichiro KANEKO

今だから言えるマリノスからの移籍 

日産自動車、横浜マリノス、横浜F・マリノスと10年いたチームから2000年に移籍したのですが、当時はまだ移籍というのが今のように頻繁に、当たり前のようにどの選手もするような時代ではなかったですね。

自分自身も最初にマリノスにお世話になって、そのままマリノスで引退するまでやれれば幸せかなと思ってましたし、1999年には日本代表としてパラグアイで開催されたコパ・アメリカにも出ていたので、その年にマリノスから「選手としては契約しない」と言われて、ビックリと言いますか、「どうして?」という気持ちはありました。

でもマリノスには本当にいい思いもたくさんさせてもらっていましたし、プロになった時からいつクビになるかもわからないという気持ちでやっていたので、そこは割り切ってと言いますか、もうしょうがないと。

 

でも自分はその年、まだ代表チームでプレーしてて、まだ現役でプレーしたいという思いがあったので、移籍する方向で話を進めてもらいました。ちょうどクラブの親会社の日産自動車の経営状態があまりよくなくて、カルロス・ゴーンさんが就任されて、いろいろ工場を閉鎖されたり、日産の社員の方もすごく急に辞めさせられなきゃいけないとかそういうのがあった中で、マリノスにお金を使っているというところの事情もあるのだろうと自分は理解しつつ、移籍したというところはありますけど。今だから言えますけどね。

移籍したことが自分の中に財産として残っている

同じチームで最後までいたら、それはそれで幸せだし、どっちがいいかというのはその人の「美学」ということになるんでしょう。僕もずっと同じチームで引退までいられれば最高だと思ってましたけど、でも移籍することによっていろんなチームのカラーだったりサポーターの違いだったり、もちろんサッカーの違いもあるし、自分の人脈と言いますか、そういうサッカーに関わる多くの方と知り合えたりして、そういうものが移籍したことによって自分の中に財産として残ってますし、逆に移籍してよかったと今では思っています。

ジュビロ磐田に1年、そして2年間浦和レッズでプレーしました。浦和には2006年ドイツワールドカップに出場する坪井慶介がいましたね。でも坪井は僕が育てたわけじゃないですし、坪井自身の努力であれだけの選手になりました。そういう意味では現役時代の最後を浦和で2年間お世話になって、そのとき代表選手になっていく若手がたくさん出た浦和にいたというのはキャリアのいい終わり方だったなと思います。

現役時代の運命で1つだけ変えられるとしたら

現役時代の運命で1つだけ変えられるとしたら、そうだな、どうだろう。自分は日本にまだプロがない、アマチュアの時代からやってきたので、今の選手は本当に幸せだと思いますね。プロからスタートできますからね。Jリーグがもう少し早い時代からあったら、という思いはありますよ。

自分たちがプレーし始めたのは日本リーグ時代で、日本代表と言ってもワールドカップは出たことがなかったですからね。ワールドカップの扉を開くことはできましたし、時代の変遷に関われたという事は幸せですけど、最初からプロリーグがあって、幼い頃から高度なトレーニングや練習メニューも組めてやっていたら、もっとうまい選手になってたんじゃないかなって、そういう思いはあります。

 

海外に行くチャンスも、もしかしたら広がってたかもしれないし。我々が代表のころはそういうルートがなかなかなくて、カズさんが行かれたり、ワールドカップに出てようやく日本のサッカーを世界に知ってもらうことができて、中田が頑張ってくれたりして、いろんな海外へのルートができたと思います。

我々の頃はなかなか現実的な海外移籍の選択はなかったので、今のような時代に自分もサッカー選手になっていたらどうなっただろうと思うところはあります。あっ、そうしたら代表になってなかったかもしれないです。あの時代だから代表になれたのかも(笑)。

大学生で日本代表に

僕が日本代表に入ったのは大学生だった1988年で、最初に海外で試合をして、国立競技場に日本代表として初めて立ったのは5月29日のフラメンゴ戦でした。ジーコさんが出ていた試合でしたね。

僕は選ばれる立場だったですし、選ばれたのだから自分のせいではなくて選んだ人の責任だと思って開き直ってやっていたので、緊張とか苦しいという思いは全くなかったんですよ。ダメだったらしょうがないだろうという感じだったので。とりあえず言われたままに、ただ夢中にやってただけですね。戦術とかも自分の中ではそんなに理解してやってた感じではないですし、先輩に動かされながらやってたという感じです。もうあまり試合も覚えてないです。

 

自分が代表に選ばれるとは思っていなかった時代ですし、「僕でいいのかなぁ?」と思いながらやってたので、そこは本当に呼んでくださった横山謙三監督に感謝ですよね。あれがあったから、その後の自分の人生もありましたし、ああいう若い年代のときに代表や国際試合を経験させてもらったので、それが大きかったと思いますけど。ただ代表としては結果がなかなか出せない時代だったので、その時の不甲斐なさというのが悔しい思いというのはすごくあります。

高校時代までは中盤やFWをやっていたので、自分のストロングポイントはミドルパスや展開力という攻撃のところだと思っていました。守備はハードというかガツガツといけますけど、どちらかと言うと読みで相手の攻撃の芽を摘んだり、相手の動きを読んだりというところに面白さを見い出してやってて。そんなに体が大きいとか、ヘディングが強いというわけでもないので、そういう頭を使うところを自分なりに考えながらやっていました。

 

攻撃で言えば1994年、広島のアジア大会準々決勝の韓国戦で86分にミドルシュートで同点にしたんですけど、現役のシュートであれだけきれいに決まったのはないと思いますし、特に日韓戦でしたから印象深いです。ただ試合は結果的には89分に自分がPKをとられて負けてしまったので、そういう意味では喜べないといいますか。勝てばね、勝利につながるゴールだったらよりよかったんですけど、そういう意味では悔しさのほうが残っています。勝てればよりよかったんですけどね。

能力の高いセンターバック、GK、FWは日本の弱点といいますか、個の力がより必要なポジションではあるので、そのポジションの選手はまだまだ人材不足という気がします。ようやく吉田麻也や冨安健洋が出てきましたし、FWも大迫勇也や世界でも活躍できそうな流れが少しずつできてきていると思うのでそういう選手が増えていってくれればより強くなってくれるのかなとは思います。

 

今自分が現役だったら……ルールなんかは変わってますからね。でも、たまに昔のビデオなんかが流れると「いや、そんなに悪いサッカーしてないなぁ」と思いますけどね(笑)。

 

井原正巳のやりたいこと

井原正巳の「やりたいこと」

2002年に現役生活が終わって、次は指導者になろうと目標設定が変わりました。そして2006年から指導者としての生活に入って、いろいろ経験を積ませていただいて、2009年からは柏レイソルのヘッドコーチになり、2009年や2013年は柏レイソルで監督代行をやったり、2015年から2018年まではアビスパ福岡で監督もやらせていただいていて、現在はレイソルのコーチに戻っています。

 

今「やりたいこと」は、やはりレイソルが今年J1に復帰したので、こういう新型コロナウイルスの影響が大きな状況ではありますけど、ヘッドコーチとして監督の支えにしっかりとなって、タイトル争いが出来るように貢献していくということです。

大きな目標としては、もちろん指導者としてまたいずれは監督をやりたいとは思いますし、その中でJリーグのタイトルを狙いたいと思っています。次はどこのチームで監督をやるかわかりませんけれども、そういうチャンスがあればリーグの優勝監督をまず目指したいですね。

そうすればまた代表カテゴリーの指導者や監督になるチャンスがあると思うし、さらに大きな目標としてはそういう代表カテゴリーに関わって、またワールドカップに出場できるぐらいの指導者になりたいというのが目標です。

 

ただ、まずは今、Jリーグでしっかりと結果を出していくことが一番の道といいますか、目標につながっていくと思いますから、レイソルでしっかり結果を出すためにスタッフとしての役割を全うしていきたいと思います。

監督を経験した僕をレイソルがまた受け入れてくれたのは、クラブだったりネルシーニョ監督がすごく器が大きいからだと思います。ネルシーニョ監督とは2009年の途中から2014年まで、監督とコーチという立場で5年半やってるので、そういう意味では僕のことを知っていて、信頼して僕がコーチでもいいと呼んでいただいたので、そこはもう監督に感謝です。監督の器が大きいからこそ、僕が今の立場にいられると思ってますし、あとは僕がどれだけチームのため、監督のためにやれるかで、それはコーチとしての役割に徹することだけだと思うので、そこはブレずにやっていきたいと思います。

 

そういう自分の役割をしっかり果たすことがチームとしては大事だというのを、現役の時も指導者としても経験しました。そこがブレるとチームとしてバラバラになる可能性があるのがサッカー界だと思うので、そういうところは常に気を付けながらと思っています。積み上げるのは時間がかかるんですけど、崩れるのはすごく早いので、そうならないように、自分たちが常に結束してチームのために、レイソルが結果を出すために頑張っていきたいと思っています。