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Jリーグの前座試合などでアルゼンチンユニフォームの10番を見かけたことがあるかもしれない。その異様に太い大腿部を見ただけでも、ディエゴ・マラドーナに似ていると思うだろう。そしてプレーを見るとますます本物に見えてくるかもしれない。
それもそのはず、高校時代は名門のエースだった。それが「ディエゴ・加藤・マラドーナ」こと加藤謙太郎氏だ。憧れの選手をモノマネしながら追いかけた。あるとき、本物に会えるかもしれないチャンスが巡ってきた。果たして気まぐれな天才に会う夢は叶ったのだろうか——。
名門 帝京高校のエース
僕は元々横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)のジュニアユースにいたんですよ。でも中学2年生が終わるとき、3年生のクラスに上がれなくて、「神奈川クラブ」という町のクラブに行くことになったんです。
その「神奈川クラブ」で神奈川県の中学、Jクラブのジュニアユースも出場する高円宮杯全日本ユース(U-15)選手権神奈川県大会に出場しました。そこで横浜マリノスのジュニアユースも含めたJクラブの下部組織を全部破って優勝したんです。それで道が開けました。その後、帝京高校に入って10番をつけてプレーすることも出来ました。
大学に進学してプレーしたんですけど、社会人になるときプロは諦め、普通の会社員として働いたんです。あるとき、テレビを見ていて「芸人っていいな」と思い、そこから渡辺プロダクションの養成所に入りました。
渡辺プロダクションでは、最初、帝京高校の同級生とダイヤモンズというコンビを組んでコントをやってたんです。渡辺プロダクションは毎月ライブを開催するんですけど、必ず新しいネタを披露しなければいけないというルールがありました。
だから毎月死に物狂いでネタを考えてたんです。スベりたくないし、ウケたいし、事務所に認めてもらいたいと思って。あるときネタを作っていたら、僕が高校時代に左利きで体型も似てたから「和製マラドーナ」と言われてたことが頭に浮かんだんですよ。当時、パンツは短パンで、僕の68センチある太ももが出てたのもよかったんだと思います。
マラドーナのモノマネをはじめたきっかけ
その時、帝京には矢野隼人というストライカーがいて、彼が「和製ロナウド」と呼ばれ、田中達也君という今もまだアルビレックス新潟で活躍している選手が「和製オルテガ」と呼ばれ、「和製トリオ」みたいなのがあったんです。 それで「あ、これはまだ体型がマラドーナだから、アルゼンチンのユニフォームを着て、『マラドーナが日本に来てファミレスに入った』というコントをやったらどうだろう」って思いついたんですよ。アイデアが浮かんだ瞬間、「これでオレたち売れた!!」って2人で抱き合って喜びました。
それでマラドーナ率いるアルゼンチンが1986年メキシコワールドカップで優勝したときのル・コックのユニフォームを探したんです。そのときは2005年だったので、まだネットで売ってました。ところが短パンが見つからないんですよ。
そうしたら相方の同級生が昔のアルゼンチンの色の短パンを持っていて、メーカー名を見たらル・コックだと言うんですよ。「くれ!!」とお願いしたんですけど、「無理。7万円だと売る」と言ってきたんです。
「なんでキリのいい数字じゃなくて7万円?」と思ったんですけど、もう僕たち2人はすっかり売れた気になっていたので、「すぐ取り返せるから買おう」と言って取り寄せました。相方も半分出してくれて。
それでライブで披露したんですけど、これまでの芸人人生で一番ぐらいスベりました。今だからこそ笑えますが、あの当時は相当ヘコみましたね。7万円も出したのに。それで静かにタンスの奥にユニフォームをしまい込みました。
芸人を辞めようと思っていた
その後コンビを解散し、トリオを結成したんですけれどもそれも解散になって。それで芸人を辞めようと思っていたとき、サッカー仲間の有名芸能人の方から大阪の長居競技場であったJリーグの前座試合に呼んでいただいたんです。
僕は素の「加藤謙太郎」で出場しようと思ってたんですけど、何か芸を持ってるんだったらそれで出たほうがいいとアドバイスされたんです。それでしぶしぶタンスからユニフォームを引っ張り出して、「ディエゴ・加藤・マラドーナ」としてピッチに出ました。そうしたら、めっちゃめちゃウケたんです。
尋常じゃないどよめきとか笑いで、僕がボールに触るたびに跳ね返りがあって。大阪という土地柄もあったのかもしれないですね。僕もまだ若かったんで体もキレキレで、ワンプレー毎に湧いてくれて、転べば笑ってくれるし。あの感覚はまだ忘れてないですよ。
そこからはときどきテレビに呼んでいただいたり、エキシビション・マッチに出させてもらったり、サッカースクールに行ったり講演会をしたりと、お仕事をさせていただいてます。
ですが、他のみなさんもそうだと思うんですけど、今年の新型コロナウイルスの影響は本当に大きかったですね。「ディエゴ・加藤・マラドーナ」としての仕事は、5月25日の緊急事態宣言の前からなくなりました。サッカー教室などのイベントは9月までなかったですね。1つもないです。
でも僕自身も、子どものことを考えるとやっぱり感染させちゃいけないと気になりますし。もちろん呼ばれたら全力でやりたいとは思いますが、なかったので子どもたちのことで気を揉むことはなくてすみました。もちろん仕事としては苦しいですけど、やるほうとしてもやっぱり来てくれる人のことが心配ですし。
人材派遣会社の社長もしている
ただ、僕はまだいいほうなんですよ。芸人として営業している以外に仕事もしてますから。僕は「京浜マネキン紹介所」という人材派遣会社の社長もやってます。横浜で祖母の代からやっている50年の歴史を持つ会社を継いでいて。
人材紹介業界も今、メチャメチャ大変なんですけどね。「マネキン」というのは「マヌカン」という言葉から来てるデパートの販売員さんのことで、自分たちが服を着て見せて販売するという立場の人のことです。
その販売員さんの紹介をやってるんですけど、お得意様である百貨店さん、デパートさんが新型コロナウイルスの影響で休業だったり時短営業だったりで。緊急事態宣言のときは休館してましたから。
宣言が解除された後も人がなかなかデパートに戻ってこないという状況なので、紹介業としても仕事量が自然と減ってしまって。業績としてはもちろん苦しいですね。何とか頑張りながら耐えなきゃいけないと思ってます。
僕はそうやって定職もあるんですけど、普通の「売れてない」というジャンルの、テレビとかいろんな事務所からのお仕事を頻繁にいただけない芸人たちは、本業以外の仕事ってだいたいアルバイトなんですよ。だから僕なんかよりも苦しくて。
しかも芸人がよくやるアルバイトは飲食業が多いんです。「まかない」でご飯が食べられるので、それが目当てで。ところが飲食業界も新型コロナウイルスの影響で休業したり時短になったり、あるいは閉店しちゃったりして仕事がなくなっちゃってたんです。独身だったらまだいいけど、家族がいると余計苦しかったようです。
地方から来ている芸人も多かったので、彼らは地元に帰って親に頼ろうと思っても、帰ろうにも帰れないし、親も帰ってくるなと言ってきて。仲いい芸人の1人は、パンの耳を一口ずつ食べて生き延びてたと言ってました。芸人の世界は「芸歴の長い人が短い人を連れて食事に行って全額払う」という慣習があるので、僕も連れて行ってあげたかったんですけど、会えないし、会食も出来ないし。
みんなが助かったのは特別定額給付金と持続化給付金のおかげでしたね。振り込まれたとき、知り合いは「電気止められなくてよかった」って言ってました。もうちょっと遅かったら本当に大変でした。
芸人のライブをどうか見にいってあげてほしい
その後、状況は少しずつ改善してきて、7月過ぎぐらいにバイトは時短で働けるようになって、ライブもやっとできるようになってきて。事務所もライブを再開してますし、売れない芸人は自分たちで自主ライブをやっています。まだ大々的にやってるわけじゃないようなんですけど、どうか見にいってあげてください。
僕が「ディエゴ・加藤・マラドーナ」をやり始めたのは27、28歳ぐらいで、2007年だったと思います。今年で13年目ですね。やらせていただいているうちに、少しずつ知ってもらえるようになりました。前座試合に出たあと、素顔で帰るときに観客の人から「マラドーナ!」って声をかけてもらうようにもなりました。
本物のマラドーナに会いに行った
そもそも僕がディエゴ・マラドーナさんを好きになったのは1986年、小学校4年生のときなんです。NHKで1986年メキシコワールドカップの特集をやってたんですよ。まずそこでビックリして、それでマラドーナさんのVHSのビデオを買って何度も見てました。
ビデオでは家のソファにマラドーナさんが娘さんを抱きながら座ってリフティングしてるんですよ。「なにこの人、座りながらやってんの!!」って。それで痺れちゃって。
ホント大好きで、ずっと「ディエゴ・加藤・マラドーナ」をやり続けたら、あるとき「ホンモノに会いに行こう」ってことになったんです。テレビや雑誌の企画じゃなくて、プライベートで。
きっかけの最初の最初は食事会ですね。今、僕はコネクト株式会社というところにマネジメントをお願いしてるんですけど、そのお願いすることになった2018年の食事会でした。
自分の会社もあるので最初は自分で自分のマネジメントをやってたんですけど、やっぱりメディア関係の部分が弱いとは思ってたんですよ。それで2年前にコネクトの百瀬俊介会長にお会いして食事をする機会があったんですけど、話を聞いているうちに自分から「お願いします」って自然に頭を下げてました。
百瀬会長は、日本人として初めてメキシコでプロサッカー選手になってプレーした方なんです。中学を卒業して単身メキシコに渡って、そこでプロになったというすごい人で。お話しをしているうちに感激して、「こういう方にマネジメントをお願いできたらいいな」って思ったんです。
そんな百瀬会長だから、メキシコサッカー界の人脈がすごいんです。仕事にしても友達にしても。あるとき、百瀬会長が「マラドーナに会いに行きたいよね。会いに行こうか?」とおっしゃるんですよ。そのとき、マラドーナさんはメキシコのドラドス・デ・シナロアというクラブの監督をなさってました。
ただし「行ってみても会えるかどうか分からない」ということでした。マラドーナさんってアポイントがあっても当日の気分で簡単にキャンセルなさる方らしくて。「最後まで分からないけど、一応、会えるまでの道筋はいろいろな人に頼んだから」と百瀬会長がおっしゃるので、「行かない理由はない」って1週間の休みを取って、「もうあとは運だけだ」と思って百瀬会長と一緒に飛んだんです。
12時間かけてマラドーナに会う
たぶん「ディエゴ・加藤・マラドーナ」のことはマラドーナさんに伝えてあって、それでどう思われてるか分からないし、もちろん当日どういう状況になるかも分からないし。練習が上手くいってないというのも考えられるし、アポイントを取った日が試合当日の試合後だったので、連勝している、あるいは試合に負けた、なんかでもたぶんマラドーナさんの気持ちが違ってくるだろうし。でも行こう、って12時間かけてアメリカ経由でメキシコを目指しました。
現地に到着したら、試合前日の非公開練習も見せてもらえるかも、ということになったんです。アポイントの前日ですね。ホームスタジアムにメディアは入れなくて外で待ってるんですけど、僕たちだけは中に入れてもらって、スタンドから練習を見学させてもらうことになりました。
遠目で「生マラドーナ」見たとき、僕は感極まって涙が出てきてしまって。僕が好きになってから30年以上経って、生で見られるということだけで、なんか泣いちゃって。
練習って、僕はすごくピリピリしてるんだろうと思ってました。ところがまるで違うんですよ。チームはゲラゲラ笑いながらプレーして楽しそうで、マラドーナさんもそういう雰囲気で。そういうチーム作りをなさってたと思うんです。練習が終わって最後にみんなでセンターサークルで円を組んで手を叩いて締めるまでがそんな明るい感じでした。
チームがみんなロッカールームに歩いて行くとき、広報のフェルナンドさんがサッと監督のところに駆け寄っていったんです。しばらくするとフェルナンドさんが戻ってきて「会っていいよ。ピッチに降りてきて」って。
「え〜?!」ですよ。僕はてっきり翌日お会いするんだと思ってたので、メイクしてなくて、加藤謙太郎のまんまだったんです。ただアルゼンチンのユニフォームだけは持っていたのですぐに着て慌てて降りてって。そうしたらそこにいらしたんです。ホンモノが。
もうガチガチですよ。今、こうやって自分で話しててもしょうがないと思います。愛するマラドーナさん、会えるなんて思ってない人に会ったら、自然にああなっちゃうんだなって。
マラドーナの優しさ
マラドーナさんはすごく優しくて、何度も握手とかハグをしてくれたんですよ。インタビューの最初に言ってくれたのが、「僕と彼は昔から一緒に住んでいて、僕がスペイン語、彼は日本語なんだけどアイコンタクトで意思疎通を図ってたんだよな」って。僕はマラドーナさんが冗談を言って僕の緊張を和らげようとしてくださってるんだ、ってすごい感じて。
それでも緊張し過ぎちゃってて、それから何聞いたかも覚えられてないぐらいです。「日本に対する印象」と「思い出に残っているゴール」は聞いたって覚えてるんですけど。マラドーナさんはスペイン語だし、僕は全然分からないんで百瀬会長が通訳してくださいました。
ただ、マラドーナさんがゴールの話で「ベルギー」っておっしゃったら、すぐ1986年ワールドカップ準決勝のことだと分かったし、ヘディングしたボールがゆっくりバウンドして転がる仕草をしながら「ミラン」って言われただけで、1988年のナポリがミランに4-1で勝ったときの先制点だって思ったし。
VHSのマラドーナさんのビデオを本当にすり切れるまで見たんで、ナポリ時代のことも覚えてるんです。浮き球のパスでオフサイドトラップを抜け出したマラドーナさんが、ペナルティアークの前にGKが飛び出してきたところで思い切りヘディングして、ループシュートがコロ、コロ、コロと転がりながらゴールに入るんです。だからスペイン語分かってないんだけど、思い切りうなずいてたんです。そのゴール集のVHSにもサインをもらいました。
それで話を聞いた最後に「僕はマラドーナさんのことを大好きで、ずっとあなたに憧れてて、あなたのプレーを真似してモノマネをやってます。やり続けていいですか?」って聞いたんですよ。そうしたら「もちろんだよ」って。だから公認していただけたかなって思ってます。そして僕の心の中にまた1つ見えないパワーが出たと感じました。
次の日の試合はマラドーナさんにとって大切な試合でした。優勝決定戦に出られるかどうかというゲームだったのに、残り数分で同点に追いつかれてしまったんです。僕は記者会見にも参加させてもらったんですけど、マラドーナさんはすごく暗くて、レフェリーの誤審を指摘したり監督退任を匂わせるような発言をしてたんですよ。どんよりして凍り付くような空気で。
僕はアポイントがあったけど、「あ、これは行っちゃいけない」と思って黙って座ってました。それで記者会見が終わって、マラドーナさんが会見室を出て行くからみんな立ち上がったところで、マラドーナさんが僕を見つけて「加藤!!」って言いながら僕をハグしてくれたんです。
そして「今日誤審があったんだけど、サッカーはときに勝てないこともある。加藤も頑張ってくれ」って話しかけてくれて、またハグを2回してくれて。周りの記者の人たちもビックリしてました。
その記者会見で僕は普通の格好をしてたんです。会見室にはメイクはもちろん、アルゼンチンのユニフォームを着て入ることも出来なかったから。それなのに僕を見つけてくれたのは、僕の顔を覚えていてくださったんだなって。「ディエゴ・加藤・マラドーナ」じゃなくて「加藤謙太郎」として会ってくださったことが、自分の想像以上で。「ディエゴ・加藤・マラドーナ」も見せたかったんですけどね(笑)。
やり続けたことで夢が叶った
小学校4年生で初めて好きになったときなんて、まさか自分がホンモノに会うなんて思ってないですよ。正直に言うと子どものころどころか最近まで思ったことなかったです。本当にやり続けてよかったなって。はい。
マラドーナさんに会ったあと、講演やサッカー教室をやらせてもらったあとで子どもたちに伝えていることがあるんです。夢って、大きくても小さくてもみんなあっていいと思うんです。叶うと思ってない夢があってもいいけど、夢はたくさんあっていい。
「夢」って「目標」とも言うと思うんですけど、自分の中で中心になっている夢があったらそれに向かって努力するじゃないですか。自分の夢、目標を叶えたいから自分が努力するのは当たり前で。そういうのは夢を叶えるための最低ラインで。
それで僕がマラドーナさんに会って思ったのは、大きな夢に向かっていくときって、自分自身のために努力し続けるけど、最後は人が手助けをしてくれる、人が叶えてくれるものなんだって。人任せにするということじゃなくて、努力していれば人が助けてくれるんだって。
僕の場合は百瀬会長という方がいらっしゃって、百瀬会長から発信して、メキシコで10人以上の方々が会ったこともない僕のためにマラドーナさんに面会できるように動いてくださったんですよ。そういう方が動いてくださってたから会えたんです。
だから結果論かもしれないんですけど、会えるパワーみたいなものは感じてたんです。偉そうに聞こえるかもしれないんですけど、神様が優しく会わせてくださるみたいな。もちろん何回も手を合わせて祈ったりしてたんですけど、その会いたいという思いを持ってメキシコに降りたったら、なんか優しい風が吹いたんです。思い出しますよ。「優しかったな、空気が」って。
努力したうえで、人に頼ることが大切
思い返すとサッカー選手になりたい夢を持ってたら、お父さん、お母さんがお弁当を作ってくれたり送り迎えしてくれたり、寝るところも用意してくれて。そういうことって日常的すぎて、あんまり感謝を感じることはないと思います。
感じてないことが悪いことではなくて、ただこういう話になるとやっぱり覚えててもらいたいんです。そこで人が動いてくれたんだって。自分のために技術を上げたい、能力を上げたい。だったら勉強することは当たり前で、でもそこまでやったらもっと人に頼っていいんじゃないって。
僕は高校生のときにプロサッカー選手になりたかったんですけど、でも正直に言うとプライドが高い部分もありました。今振り返ると。そういうのも踏まえて、もうちょっとというか、もっと……かなり人に頼ったりしてよかったんじゃないかなって。
夢を叶えたくて今もチャレンジしている子もいるし、まだ叶えられず頑張ってる子もいる、叶えた人もいる。叶えられる人のほうが比率としては多くないと思ってるんです。
最初から人に助けを求めるということじゃなくても、根本に夢に向かって進む心があったら日常生活の心構えや態度、人との接し方が変わってくると思うんですよね。そういうところが人から助けてもらえることにつながってくるんじゃないかなって。
それに「思い」って、叶うにしても自分が思ったときに自分の思い通りに叶うものじゃないんだなって感じました。そういうことを今、会う子どもたちに話してます。みんなに夢を大切にしてほしくて。大切にすると、きっといいことがあるから。
※取材協力:Sports Jungle10