名良橋 晃が語る「1998年」
日本が初めてワールドカップに出場した1998年は、2月にオーストラリアのキャンプで始まりました。そこでオーストラリアとシドニー・ユナイテッドと試合をしてるんです。
僕は3-0で勝ったオーストラリア戦だけ出てました。シドニー・ユナイテッド戦は選手を24人使うテストマッチで、あまり記憶がないですね。
そして3月に日本でマールボロ・ダイナスティカップ(現・E-1選手権)がありました。初戦は韓国戦で、しかも横浜国際総合競技場(現・日産スタジアム)のこけら落としだったんですよ。ものすごく寒い日でしたね。
韓国戦は独特の雰囲気なんです。やっぱり他の試合とは違うんですよ。本当ならワールドカップの準備ってことになるんですけど、そういうんじゃなくて、ここだけには負けたくないというプライドがかかったゲームなんです。
僕自身としては1997年9月28日に国立競技場でやったワールドカップ予選で逆転負けしてたから、今回は借りを返さなきゃいけないという思いはより強かったですね。
あのころの日韓戦って今よりピリピリしてたんですよ。ヒリヒリしてるというか。韓国代表にもJリーグででプレーしてる人たちがいるんですけど、でもやっぱり両国のプライドというか、そういうのをバシバシ感じました。
2002年のワールドカップが日韓共催に決まって、だんだん日韓って友好関係も強くなってきた感じもあります。でもこのころまではガツガツ、局面での潰し合いが激しくて、プレーしててすごくやりがいがありました。僕は韓国戦って自分が成長できた要因の一つだと思いますね。
その韓国戦は18分にゴン(中山雅史)さんが魂のヘディングで先制したんですけど、21分にすぐ追いつかれて。それでも89分、城彰二のゴールで2-1と勝つことができました。
その次の香港選抜戦は5-1と大勝したんです。でも内容的には良くなかった記憶があって。点は取ったんですけど攻めあぐねたという印象がすごく強いゲームでしたね。
そして最後の中国戦は0-2と完敗でした。中国は両サイドに早くて大きな選手を置いてグイグイ押し込んできて、僕たちは何もできないまま終わりました。試合後にブーイングを浴びたのを覚えてます。
韓国とのワールドカップ共催記念試合
その次は4月1日にワールドカップ共催記念試合としてアウェイで韓国戦が開催されたんですよ。この試合、僕はずっと記憶に残ってます。イチ(市川大祐)の日本代表デビュー戦ですよね。僕が先発じゃなかったのは中国戦の影響もあったと思います。
しかもこの試合の直前のリーグ戦って僕が所属する鹿島アントラーズとイチのいる清水エスパルスだったんですよ。さらに本当だったら右のはずのイチがなぜか左に回って、僕の前にポジションを取っててマッチアップしたんです。
「なんだよ、これ。絶対マスコミが食いつくじゃん」って思いながらプレーして。その流れからこの試合なんですよ。
韓国戦のスタメンがイチっていうのは分かって、試合が夜だったんで、昼間に僕と同じくサブに回っていた小村徳男さんが誘ってくれて、悔しさを噛みしめながらランニングしてました。
僕は途中から出るチャンスがあるかと思ってたんですけど、小村さんは井原正巳さんが途中でケガしたので出場したのに、右サイドは結局イチがフル出場で。
僕はもう個人的には悔しさしかなかったですね。イチって高校生だったじゃないですか。Jリーグでのフル出場もないし。それだけオレはまだ、一人前じゃないですけど、そういう感じでは岡田武史監督には見られてるんだなって。
左は相馬直樹が安泰だったんです。右はまだまだ、自分にとっては向かい風というか、そういう中で戦うんだろうと分かりましたね。これがイチじゃなくて、僕が知ってるJリーグに出ている選手だったら、仕方ないと思ったか、そこまで危機感が高くなってなかったかもしれないですね。
リーグにはいろんないい選手がいたから「また競争の繰り返しだ」ってぐらいの感じだったんでしょうけど、それがイチという新しい選手が入ったことで、自分の中ではより危機感が募りました。しかもこの試合は韓国に負けましたからね。雨の中のどろんこサッカーで。
名良橋 晃が語る、岡田監督とのエピソード
岡田監督は僕に対して何にもフォローしないんですよ。少なくとも僕の中では岡田監督に何か言われた記憶はないです。でもそれで気持ちに火がついて、代表からクラブに戻ってすぐの試合だった4月4日の京都戦で点を入れたんです。イチの存在でさらにモチベーションが上がったというか。
その次は5月のキリンカップでした。5月17日に国立でパラグアイと戦うんですけど、このときはもう岡田監督がワールドカップ初戦のアルゼンチンを想定して、3バックというのを僕たちに明言してました。
当時って、4バックと3バックのどっちがいいかっていう議論が盛んで、いろんな話がありましたね。今の3バックのイメージとは違って、このころって3バックってすごくネガティブなイメージだったんですよ。5バック的な感じでもあったんで。
自分としては3バックになったらウイングバックが4バックのサイドバックよりもアップダウンを繰り返さなきゃいけないと思って、追い求めるプレースタイルがより高くなったというか。僕にとって3バックって、それだけだったんですけどね。
パラグアイ戦は序盤の7分にあっさり先制されて、86分にやっと追いついたんです。この試合でもやっぱり攻めあぐねて、思いどおりに3バックが機能しなかったという印象がすごくありました。
国内の送別試合
国内の送別試合になった5月24日に横浜国際総合競技場でやったチェコ戦は0-0で、井原さんと中西永輔さんと斉藤俊秀という、それまでとちょっと変えてきた組み合わせでディフェンスラインを組んでました。
でも守備よりも、この試合も無得点だったんで、ゴールというところのもどかしさもありましたし、両サイドがもっと前に出て行かないと攻撃に厚みが出ないと分かりましたね。
4バックだとサイドバックは中盤との絡みで崩せるんですけど、3バックのワイドだと、単体で、自分で仕掛けて突破してというのが必要で。そういう特長が求められる、より攻守で対人プレーに強くならなければいけないと、さらに思いました。
スイス最終合宿での勘違い
そこからスイスの最終合宿に行くんです。ケガ人が出ることを考えて選手を25人連れて行って、そこから22人を選ぶという最後の選考もあり、ワールドカップの準備もあったんです。
僕は、最後の選考って岡田監督が決めることなんで、自分は日々のトレーニングを一生懸命やるしかないと思ってました。そういう意識でトレーニングしてましたし、それよりもアルゼンチン、クロアチアという強豪がいるグループに入ってたので、どういう展開になるだろうかとか、そういうことへの意識が自分の中では高かったかなと思いますね。
岡田監督が「1勝1分1敗」という目論見を話してたらしいんですけど、そんな話題はチームの中でなかったですし、僕自身はそんな星勘定は気にしなかったですね。
それに鹿島で培ったジーコイズムというのが体に染みついていて、特にジーコの母国のブラジルとはライバル関係のアルゼンチンなので、「やるからにはやってやろうじゃないか」と。
「3試合やるんだったら3試合勝つ」「何が起きるか分からないし、やってやれないことはない」というポジティブな気持ちで臨もうと思ってました。
スイスに来たらイチの体が重そうだとは感じましたね。コンディションよくないのかなって。逆に自分は重くないというか、コンディションを維持出来てた感じでした。そして5月末に非公開でメキシコ戦があったんです。確か引き分けだったかな。そこで岡田さんはいろいろ決断したと思うんです。
ワールドカップ前の最後のトレーニングマッチが6月3日のユーゴスラビア戦でした。実はその日って、嫁さんの誕生日なんですよ。もし嫁さんの誕生日にいいプレーができなくてワールドカップのメンバーから落ちたら申し訳ないと思ってたんです。
そうしたら2日にみんなが集まって「あれ? 何があるんだろう?」と思ってたら「メンバー発表だよ」って。
もう時効なんで話しますけど、完全に勘違いしちゃってたんですよ。日本のサッカー関係者で忘れてたのは僕だけだったと思います。
自然体でプレーできたのが良かった
僕はまだユーゴスラビア戦でもアピールできると思ってたから、メキシコ戦で緊張してなかったんですよ。完全に1人リラックスしてたんですよね。何も考えてなくてプレーしたのが良かったかもしれないです。
自然体でできたから。もしメンバー発表が3日だったらユーゴスラビア戦のほうが緊張してたかもしれないです。
イチはメンバーから漏れた後に体が軽くなったと言ってました。イチって、韓国戦にスタメンで出て、メディアから右サイド大抜擢かとか、そういう重圧が僕以上にいろいろあったと思うんですよ。それでストレスが強くなって思いどおりにスイスではプレーできなかったんでしょうね。
僕はメンバーに入って、ホッとしたまでではないんですけど、より開幕戦のアルゼンチンにどう立ち向かっていくかということに気持ちを切り替えました。
それでユーゴスラビア戦を迎えたんですけど、序盤で僕にチャンスがあってシュートしたんです。そうしたらボールがバーに当たったんですよ。それがその後の自分を予言してましたね 。
ユーゴスラビアには0-1で負けたけど、悲観するないようじゃなかったと思いますね。だからみんなワールドカップで行けるというか、いい流れでアルゼンチン戦に挑めるんじゃないかと考えてました。
日本が初めて経験したワールドカップ
今だったら大会が始まるまでにもっとヨーロッパや南米のチームと戦うような、別のアプローチをすると思うんです。
でも、そういう流れがまだ僕も代表にも日本サッカー協会にも分かってなくて。すべてがはじめてで、そのままの流れでトゥールーズのアルゼンチン戦を迎えたという感じでしたね。
試合当日は驚くことが起きたんですよ。ウォーミングアップのときに、安室奈美恵さんの「CAN YOU CELEBRATE?(キャン・ユー・セレブレイト?)」が流れてきたんです。
日本の試合ということでセレクトされていたんでしょうね。でも流れたときはビックリして「え? ここでこの歌?」って。鮮明に覚えてます。
実は1997年、それまでずっとプレーしていたベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)から鹿島に移籍したとき、この歌がよく流れてたんです。ちょうどフジテレビのドラマ「バージンロード」の主題歌にもなっていたんで。
当時は鹿島で実際にプレーできるのかなっていう不安もあったし、新天地への期待感もあったし。そのふたつの思いが一緒になってこの歌の記憶になったんです。だからウォーミングアップのときに流れて、何か通じるものがあるなって思って。
初戦のアルゼンチン戦
試合のことに戻ると、よくミーティングなんかでアルゼンチンの南米予選のゲームを見てたんです。予選のアルゼンチン、ものすごかったですよ。切り替えが早いし球際厳しいし。技術もあるし、戦うし。そんなゲームを結構見てたので、このアルゼンチンすごいってしか思ってなかったんです。本当に優勝候補のチームなんだなって。
でも実際に蓋を開けてみると、「こいつらペースを落としてるな」ってしか思えなかったですね。「割り切ってサッカーしてる」とまでは言わないですけど、エリアの外までは日本にも来させるけど、そこではね返すという省エネサッカーをやってたというか。
僕たちはアルゼンチン戦で100パーセントの力を出すように準備してるじゃないですか。でもアルゼンチンは100パーセントじゃないんです。優勝のためのコンディションを調整してるというか、楽して勝てればそれで越したことがないような、そういう展開でした。悔しかったですね。南米予選のチームと全然違って。
アルゼンチンは1点取って、さらにペースを落としてそのまま流して1点差で試合を終わらせました。相手にとって一番効率のいいスコアですよ。自分の中では悔しさしかなかったですね。
ただ、終わった後のみんなの雰囲気はそんなに悪くなかったと思うんです。アルゼンチンに対しても少なからずチャンスは作ったと思うし、ワールドカップの雰囲気というか、そういうこともある程度選手も理解したと思うので。岡田監督もそんなにネガティブな言い方はしてなかったですね。「まだ2試合あるから」って。
2試合目 クロアチア戦
次はナントでのクロアチア戦で。クロアチアも初出場だったんですけど、選手はWOWOWの海外サッカーで見るメンバーばっかりだったんで、そんなに簡単じゃないって思ってました。
1996年のEUROでも準々決勝まで行ってましたし、そこで敗れたのが優勝したドイツでしたし。厳しい試合になるとは覚悟してたんですけど、いい流れから試合に入れたんです。あの試合は暑かったんですよ。それが日本に有利に働いてたんで。
前半33分にヒデ(中田英寿)からゴンさんにパスが通って、ゴンさんがいいトラップで抜け出す決定機があったんです。ゴンさんに聞かなきゃ分かんないですけど、僕の見解としては、ゴンさんがゴンさんらしくなくスパッとコントロールしたことで運を使っちゃったのかなって。ゴンさん、運を使うのはそこじゃないよって思ってました(笑)。
僕は前半の途中ぐらいから右のかかとのテーピングが痛み出して、それが気になってましたね。でもテープをすべて取っ替えると時間がかかるじゃないですか。だから我慢しながら「神様いじめないで」と思いながらやってました。
やっとハーフタイムが来て一目散でロッカールームに戻ったんです。案の定、マメができててそれが痛くて、それをハーフタイムに修正して後半に出て行ったというのが裏話ですね。岡田監督は僕が監督より早く、真っ先にロッカールームに帰ったんで、「アイツはトイレか?」と考えてたそうです。
試合は結局また0-1という、相手にとって効率のいい展開で。それで連敗したことで、もうグループリーグ突破はなくなりました。だけど最後のジャマイカ戦で何としてでも勝たなきゃって。「日本の人たちに申し訳ない」しかなかったですね。
みんなが熱狂しているという情報は入ってましたからね。その中でアルゼンチン、クロアチアって強豪ではあるにせよ、勝てない。しかも無得点じゃないですか。それも申し訳ないと。何としてでも、形は何であれリヨンでのジャマイカ戦は絶対勝たなきゃいけないって。それはより思いました。
3試合目 ジャマイカ戦
プレッシャーというか、もう僕は開き直ったというか。だからとにかく点を取りに行こうという思いでこの試合に入ったと思います。日本の人たちも「ジャマイカには勝てよ」って考えてたと思うんですよ。ジャマイカってアルゼンチンに0-5で負けてたというのもあって。
ところがよもや、カウンターで39分と54分に2ゴール、ポンポンとやられて。日本はそれまで以上にこの試合ではチャンスを作れてたんですよ。
シュートまで行けてたし。でもその中で相手に先行されてリードを広げられて。 僕は2点取られたことでさらに開き直って、もう行くしかないと思ってました。それに2点取られた後は4バックに変更したんで、さらに攻撃的な姿勢をさらに強く出せたかなと。そうしたらボールが来たんですよ。
今でも覚えてるんです。名波浩からのフワッとしたボールが来てシュートして。でもそれがポストに当たったんですよ。ここでギリギリ外れるのって、ユーゴスラビア戦のバーに当たったところから繋がってる気がしましたね。あれが入っていればまた違った景色が見えたかなって。
でもいいんです。日本のワールドカップ初ゴールがゴンさんだから絵になったんですよ。あれが名良橋晃だったら何にも絵にもならないし、マスコミの方も「名良橋ゴールか……」ってなっちゃっただろうし。あれはゴンさんだからよかったんです。それみんなからも言われるんです。「あれポストでよかったな」って。
その後79分にシンジ(小野伸二)が交代出場して日本のスイッチが入りましたね。シンジは右サイドに入って、最初に相手のマタを抜いてシュートしたんですよ。「なんだコヤツは」と思いましたね。「まったく緊張感ないんだろうな」って。アンダー世代で大舞台を踏んでますからね。その流れからですね。攻撃的な姿勢を出しつつ最後まで戦いました。
でも結局は負けちゃって3戦全敗でしたからね。悔しさしかなかったですね。帰りのバスの雰囲気は暗かったし、僕の中では世界と比べると何ができて何ができないと整理できたところもあったので、よりワールドカップ後は、世界でやってみたいという思いが鮮明になりました。
ワールドカップが終わって
日本に帰ってきたら空港で城彰二に水を浴びせる人もいて。みんなそれぞれの考えもあるし、そこは本当に申し訳ないという……。それだけでした。
みんなの期待値が高かったからこそ、本大会に出場して、出たからには勝とう、アルゼンチン、クロアチアは厳しいけどジャマイカにはって、そういう考えの人もいたと思います。
今だったら3敗でもおかしくないと冷静に考える人もいたんでしょうけどね。そう言えば岡田監督って2010年南アフリカワールドカップのときは星勘定を言わなかったですよね(笑)。日本サッカー界も学んできたというか。
2020年10月と11月の試合はオールヨーロッパ組で、昔戦った僕からすると、すごく日本サッカーって成長したんだなって。1998年フランスワールドカップのときはオール国内組で、大会が終わってからヒデがイタリアに行きましたけど。それを考えるとこの22年の進歩って、もうすごく突っ走った、いろんなことがあったなって。
ただ1998年のころのみんなの期待値がすごく高くて、誰もが松木安太郎さんで「イケイケ」だったっていう、その熱は失ってほしくないんですよ。見る側にとっても、楽しむところは楽しんでほしいし。
いろいろあったけど、あのワールドカップって、僕はサッカー人生の中でいい思い出の一つです。ワールドカップに出られる人って数少ないですからね。そのメンバーの中に入れて、うれしかったですね。
小さいころからの夢が本当に叶ったというのは、自分の中で本当によかったという思いです。あれで2002年日韓ワールドカップに出たいという思いが強まりました。残念ながら出場できませんでしたけどね。
名良橋 晃の「やりたいこと」
僕は、最終的には指導者を目指したいと思ってます。そしてプロのチームというより、育成のところをやってみたい、突き詰めたいと考えてます。
中高校生というまだ完成されてない選手を、サッカーだけじゃなくて、いろんなところでぶつかり合いながら、子供たちと一緒に成長していきたいなって。
サッカーだけじゃなくて、将来社会に出たとき、当たり前のことが当たり前にできる人間を作りたいと思っていて。その思いが強いんで育成の現場というのに立ってみたいと思っています。
一番伝えたい経験は、「サッカーには正解がない」ということですね。指導者たちがいろいろ言ってもピッチ内で状況を変えるのは子供たちなので、その中で消極的にプレーをしてほしくないなと。失敗しないのが一番ですけど、失敗を重ねることも成功に繋がると思うんで。
だからサッカースクールで子供たちと接する中で中途半端にやらないというか、こっちが真剣にやれば子供たちも少しでも真剣にやってくれる、そういう環境も作ってます。そしてサッカーだけじゃなくて、何に対しても100パーセントで全力でやりたいなって、そういう考えを常に持ってます。
【1998年 日本代表ワールドカップまでの道のり】
2月15日 3(1-0)0 オーストラリア 得点:5分中田英寿(PK)、65分、70分平野孝
2月19日 1(1-0)0 シドニー・ユナイテッド 得点:29分三浦知良
3月01日 2(1-1)1 韓国 得点:18分中山雅史、89分城彰二
3月04日 5(3-1)1 香港選抜 得点:22分、36分(PK)中田英寿、40分増田忠俊、71分名波浩、85分呂比須ワグナー
3月07日 0(0-1)2 中国
4月01日 1(0-1)2 韓国 得点:61分中山雅史
5月17日 1(0-1)1 パラグアイ 得点:86分相馬直樹
5月24日 0(0-0)0 チェコ
6月03日 0(0-0)1 ユーゴスラビア
6月14日 0(0-1)1 アルゼンチン
6月20日 0(0-0)1 クロアチア
6月26日 1(0-1)2 ジャマイカ 得点:74分中山雅史
名良橋 晃(ならはし あきら)
1971年11月26日、千葉県生まれ。千葉英和高校から1989年、JFLのフジタ(ベルマーレ平塚の前身、現・湘南ベルマーレ)に入団し、1994年にJリーグに昇格。1997年に鹿島アントラーズに移籍し、2007年、湘南ベルマーレに戻るとその年で現役を引退。
1994年から日本代表にも選出され、1998年フランスワールドカップではグループリーグ3試合に出場。現役引退後は解説やコメンテーターとして様々な番組に出演しつつ、SC相模原ジュニアユースの総監督も務める。
引退後に体重が急激に落ち健康状態が心配されたが、「元々食は細かったので現役時代は無理して食べ体重を維持していた」と現在も健康であると語っている。
(写真:神山陽…Backdrop)