今はメディアでいつもにこやかな笑顔を見せている前園真聖だが、現役時代は眼光鋭くギラギラとしたプレーヤーだった。28年ぶりの五輪出場を決め、ブラジルのスター軍団を倒してマイアミの奇跡を起こしたU-23日本代表のキャプテンとして、前園は常に注目を集めていた。
だが1996年アトランタオリンピックの後の前園の現役生活は苦難に満ちている。しかも日本での最後の試合は、先制点を奪うがその引き換えに重症を負うという劇的な幕切れになってしまった。その辛いときが多かったかもしれない現役時代を、いつもどおり正直に、淡々と語ってもらった。
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前園真聖「成長するために海外のチームに行こうと思った」
僕にとって現役のころの辛い時期というのは……試合に出たいけど出られないとか、ケガをしていてボールを蹴れないとか、プレーするクラブを探していたときとか、他にも……そう考えるといろいろありましたね。
1996年アトランタ五輪が終わるとき、僕は横浜フリューゲルスから海外に行くというのを公言してたんです。五輪のときに肌で感じましたから。世界に出なきゃいけない、世界と戦うためにはトップレベルの選手たちと毎日練習して、高いレベルのリーグで出場して成長しなければいけないって。
五輪が終わってJリーグに戻ってきたとき、ヨーロッパ移籍に向けてやるんだとすごくモチベーションが高かったんですよ。自分としては日本でプレーする最後のシーズンだと思って。
でもその当時はエージェントや代理人という存在がいなかったので、契約交渉はクラブ任せという感じがあったんです。今は、クラブも大変だっただろうと思います。でもそのころは若くて「どうして僕が海外に行けるように交渉してくれないんだ」って不満が溜まって。
移籍係数がネックに
それに、当時は「移籍係数」というのがあったんです。最高で年俸の7倍を移籍金として払わなければいけないという規約で、僕はその7倍に設定されていたので、相手チームはフリューゲルスに約4億円近く支払わなければいけなくて。
その当時、ヨーロッパのチームが日本人を4億円出して獲得するなんて、まずあり得なかったんですよ。僕は「海外移籍」と公言してたし、いろんなメディアの見出しにもなっていたけど、やっぱり決まらなくて。そんなとき、僕に手を差し伸べてくれたのがヴェルディだったんです。
それで1997年にヴェルディに移籍したんです。自分の中ではもちろんしっかりモチベーションを保ったとは思うんですけど、でも少なからず海外行きの夢が絶たれたということで、当時まだ23歳だった自分のメンタルの弱さもあって。気持ちを切り替えたと思いながらヴェルディでプレーしたんですけど、うまくはまらなくて。
自分がしっかり準備をすれば試合に出られるという環境ではあったんです。いいプレーができた時もあったけど、フリューゲルスの時みたいにコンスタントに試合に出ていいパフォーマンスを出せたというわけではなかったので、すごく難しい時期ではありました。
前園真聖「メディアとの距離をうまく作れなかった」
あの当時のヴェルディはみんなスター選手でしたし、僕が行ってもポジションが用意されてるようなチームでもなかったんです。それに、それまでの報道で「海外のチームに行けなかったからヴェルディにした」という感じで捉えられてしまって。ヴェルディは本当に僕がほしくてちゃんと交渉してくれたのは間違いないんですけど。
ただヴェルディに入るとき、当時の移籍金では一番高い移籍金で行ったんで、メディアからはそれだけの価値を示せないって叩かれて、メディアと距離を置くようにもなったんです。試合に集中しなければいけないのにいろんな雑音もあったし。いろんな意味で……何と言うのか……本当じゃないことも書かれて、メディアとの距離を自分でうまく作れなかったというのがありますね。
今みたいにクラブがメディア対応をコントロールしてるわけでもなくて、選手個人が責任を持って発言しなきゃいけないという時代でした。ただ僕は気が乗らなくてもメディアに対して何も話さないということはなかったと思います。試合が終わって納得がいかなくても一言二言しゃべると言うのは、愛想は良くなかったかもしれないけどやっていたと思います。
当時、ヴェルディにうまくフィットできなかった
そういう中で1998年はヴェルディが変わっていく時期に重なって、うまく自分はフィットできなかったなって、自分の実力不足も含めて思ってます。試合に出ていた時期もあったけど出られないときもあったし、2年間で4人監督が代わりましたし。
ヴェルディの選手はみんな練習に対して真剣にやってたし、やっていたからこそ練習のときに他の選手と言い合いになることもあったし。それをよしと捉える監督もいれば、チームの輪を乱すと考える監督もいました。
僕はいろんな監督に質問に行ったり、「なぜそうしなければいけないのか」「どうしてこういうことをするのか」と聞いてたんですけど、それを嫌がる監督もいましたね。それはその監督のやり方なんで、善し悪しはないんですけど。五輪の時の西野朗監督なんかはちゃんと受け止めてくれましたけど、そうじゃない監督も当然いて。
監督と選手という立場の違いがあるので、すべての監督とうまくいくことなんてないというのは、僕だけじゃなくてみんなあるんですけどね。うまくいかない監督の時は本当に大変でした。でもその中でトレーニングをしっかりやり続けなきゃいけない。川勝良一監督のときは本当によく僕のことを見てくれてて、評価して使ってくれましたね。
前園真聖「海外でどうしてもプレーしたい」
そうやって過ごしている中でもやっぱり海外に行きたいという思いがあって、そんなタイミングでブラジルから声がかかってサントスに行ったんです。サントスで3カ月、次のゴイアスに半年いて、そこからヨーロッパを目指しました。自分としてはピークを過ぎてたと思うんですけどヨーロッパでどうしてもプレーしたくて。1998年、27歳のときですね。
1996年のオリンピックが終わって、1998年のフランスワールドカップは、当然視野に入れていたけれども、叶わなかったですね。それは自分の実力もあるし、評価してもらえなかったということもあるし。もちろん悔しかったし、ワールドカップに出てるはずだと思っていた自分がいないから「自分は何をやってるんだ」という思いにもなりました。
けれど、それをずっと引きずっても仕方がないし。自分の思っていたとおり順調にいっていれば、オリンピックの後にヨーロッパに行って、チームで試合に出ながら活動して、当然日本代表にも呼ばれてただろうけれども、そうじゃない自分をちゃんと受け止めてました。
テストでヨーロッパを回ってる時点で、日本代表なんかはちょっと先の目標になってるじゃないですか。まずは目の前のことをやるしかないから。プレーする場所を探さなきゃいけないし、評価してもらわないといけない。だから、そこに対する焦りはあまりなかったですね。
前園真聖が1番辛かった時期
最初ポルトガルに行って、1部に所属しているヴィトーリア・ギマランエスのテストを受け、その後はギリシャの1部リーグのチームのテストに行ったりしながら4カ月過ごしました。その間は所属チームがないから、練習しながら先が見えない契約をずっと待つような形だったので、その時期が1番辛かったかな、と。
今の日本の選手たちは、相手のクラブがある程度取ることを前提にしてテストしてるじゃないですか。コンディションを見ながら決めるという感じで。でも僕たちのころはそうじゃなくて、こっちから頼んで練習に行って、相手は「じゃあ見てやろう」という感じなんで、全然違うんです。
ヨーロッパにいた4カ月間はホテル代やエージェントに払う費用とか全部自分持ちです。エージェントはずっと一緒にいるわけじゃなくて、チームに送り込んだら帰ってしまうんで、後は自分1人の生活ですから。ホテルから練習場までは自分で行ったり、仲良くなったチームメイトに迎えに来てもらったりしてました。
ポルトガルでは練習参加して1カ月経っても結論が出なかったんですよ。20代前半の若い選手じゃない、もう成熟した選手をそんなに長い期間テストして見極められないってどういうことだと思ったんです。普通は大体1週間とか10日ぐらいでどういう選手かわかるはずですから。経歴も送っているし。
松原良香さんとの縁
それで代理人が住んでるスペインに行って「次のところに行かせてくれ」って言って、スペインのジムでマシントレーニングしたり、公園でボールを蹴ったりしてたんです。そのときちょうど松原良香がスイスにいたんですよ。FCチューリッヒのテストを受けに。
それで良香に「一緒に練習させてくれるよう言ってくれ」ってお願いして、スイスに飛んでチューリッヒのセカンドチームと一緒にトレーニングさせてもらったんです。そうしたら良香はボロボロのホテルに泊まってたんで、「うちのホテルにおいでよ」って言って、一緒に泊まって2、3週間ぐらい2人で練習場に行ってました。
それからギリシャのサロニカにも1カ月ぐらいいたのかな。そこもポルトガルと一緒のような状況だったので、ブラジルのクラブを辞めてからだと約5カ月ぐらい公式戦をしてない感じになったんですよ。エージェントはもうちょっと信用してなかったから、当時の事務所と「このままだとまずい」というのを話してたんです。
前園真聖「サッカーが好きだから辞めるということは考えなかった」
その中で声をかけてもらったのが湘南ベルマーレでした。1999年でJ2に落ちて2000年からは新しく市民球団になる、しかも指揮するのは僕が1997年にヴェルディに入ったときの最初の監督だった加藤久さんだったんです。
J2というのがちょっと引っかかりましたけれども、まずは自分がプレーをしなければいけないということで、「よろしくお願いします」とチームに入ったんです。
好きなサッカーでずっとやってきてるんだから、多少うまくいかないとか苦しい中でもやり続けなきゃいけないし、ヨーロッパでテストを受けていた期間もなかなか大変なことも多かったけど、やっぱりサッカーが好きだったからそこで辞めるということは考えなかったし、サッカーがやれる場所を自分で作らなきゃいけなかったし。
そういう中で声をかけてくれたベルマーレに行くと自分で決断して帰ってきました。正直に言うと日本に戻りたくないという気持ちはあったんです。それだけ僕は海外でプレーするというのにこだわってたし、どこであれ海外に行くのを考えてたんですけど、でも5カ月もプレーしてなくて、これが続くというのは自分にとってはあまり良くないと思ったんで。まずはピッチに戻ってプレーするのが優先順位として高かったんです。
ベルマーレで最初に練習グラウンドに行った時のことを覚えてるんですよ。市民球団に変わったから、それまでのベルマーレの選手たちは出て行って若い選手に代わってて、正直に言えば、これは昇格までしばらく時間がかかるかもしれないと思いました。1年で上がれるチームじゃないなと。多分クラブとしてもそう思ってたでしょう。それでも何とか戦えるようにと思って、「僕の年俸を削っていいから良香を連れてきてくれ」って言って、良香が入って、形になってきたんです。
そこからコンディションも含めて1年間でしっかり元に戻っていったのがベルマーレ時代でした。1年間で38試合出て11点取れたのは自分でも自信になりましたし、ある程度自分が戻ってきたという感覚もあって。
ベルマーレから古巣のヴェルディへ
それで2001年にヴェルディに戻ったんです。ヴェルディも「ヴェルディ川崎」から「東京ヴェルディ」になってましたけど、僕のパス(保有権:現在は廃止)はずっとヴェルディが持ってました。松木安太郎監督が戻って、ヴェルディからいろいろ散らばっていた選手を戻しながら新しいヴェルディを作るということで声をかけてもらって。
1998年にいたころとはメンバーがだいぶ変わって、小倉隆史とかも入ったりして、自分も気持ちを切り替えて環境が変わった中で取り組んだんです。少しずつパフォーマンスもよくなってきて、一番いいときの自分の調子とまではいかなかったんですが、少しずつ戻ってきてる感じがしてました。そんな中で、9月15日、国立競技場での横浜F・マリノス戦があったんです。
前園真聖「ケガしたシーンは未だに見ていない」
あの日、本当はスタメンじゃなかったんですよ。当日体調不良になった選手がいて、それで僕が急きょ出ることになったんです。でも自分の状態が戻ってきてるのもわかってたし、スタメンじゃなくてもずっと準備はしてたので、モチベーション高かったんですよね。
前半35分に相手GKの川口能活と僕の間にボールが落ちたんです。僕は足を伸ばしてシュートに行こうとして、能活も飛び出してきて。ぶつかるというのは、あの局面が来たときに分かりました。ボールが落ちた瞬間にどっちかがケガするというシチュエーションだったと思います。
それで足を出してボールに触った後に、危ないと思ったから体を引いたんです。でも足は先に地面に着いちゃってるから、そのままグキッと音がして。
だからそのゴールの瞬間も痛すぎて見えてないし、歓声でボールが入ったんだなって。僕はあのシーンをその後ビデオでも見てないですね。
もう1回やり直し
自分がいい状態の時にケガをするというのは、なかなか……。自分が骨折したというのはその瞬間にすぐわかったので、「なるほどな」と思いましたね。「まだまだだな。もう1回やり直ししなきゃいけないな」って。
骨折のような大きなケガは初めてだったんです。でも、なんというのかな、骨折だったから逆に「仕方がない」と諦めがついたというか。これは試練を与えられたと気持ちを切り替えられたというか。
捻挫とか膝をちょっとひねったりしただけだったら、「なんでやっちゃったんだ」って悔やむんですよ。調子が良くなってきたのにまた1カ月休まなきゃいけないのか、試合ができないのかって。でも骨折なので仕方がないんです。
そのケガからの復帰は年齢のことも考えてとても慎重にやりました。全治1カ月ぐらいのケガだったら焦ってたと思うんですけど、そうじゃなかったから逆にしっかり治さなきゃいけないというのがあったので、長かったですけど非常に慎重にやりました。それで2002年にようやくサッカーができるところまで戻ったんです。
ヨーロッパに行ってた時も当然苦しいという気持ちはあったんですけど、それは自分自身の問題で、一応ボールを蹴れるし、練習できるという環境ではあったから。ケガの場合はやりたくてもできないじゃないですか。それは僕にとって初めての経験で。
少しずつ歩けて、走れて、少しボールを蹴って、という喜びがあって、少しずつ試合に出られるようにするためのパフォーマンスや対人プレーの練習をやっていく中で、またサッカーできると喜びを感じてたんです。
2003年はヴェルディで1試合もプレーできなかったというのはあるんですけど、またサッカーができるという喜びのほうが自分の中では強かったんですね。だから「もう1回サッカーをやりたい」「もう1回チャレンジしたい」という思いが出てきたんです。
前園真聖「チャレンジをするのが好き」
それで2002年のシーズンは終わってからまた次のところを探そうという中で韓国に行ったんですよ。日本でカテゴリーを落としたら行けるクラブもあったんですけど、自分はヨーロッパでのテストを経験して、いろいろ違う環境を選ぶのが好きだと分かってたんです。
もう30代に差し掛かっていたので、そこからヨーロッパというのはもう難しかったし、J2は経験していたので、また新たな自分のモチベーションとなるのはどこかと考えたら、それが韓国で。
韓国が身近というか、年齢別代表時代からずっと対戦してましたし、アトランタ五輪のアジア予選では本大会出場を決めた後の決勝戦で対戦して負けてたし。最初に日本代表に入ったときの1994年アジア大会でも韓国に敗れてましたからね。だから韓国ってどういうところなんだろうって興味があったんです。
韓国のときは声をかけてもらってテストを受けて、1週間ぐらいで合格したんでKリーグで2年間プレーしました。
最後、日本に戻ってきてどこかのチームでプレーできたかもしれないんですけど、でも何か……うーん……それはできたのかもしれないけど、また僕は海外に行きましたからね。セルビア・モンテネグロのベオグラードに行ってテストを受けて、結果的にそこが自分の現役の最後になりました。
そういう人生というか、五輪以降はやっぱり海外への想いがどこかであったんでしょうね。それに、そういうチャレンジをするのが好きなんでしょうね。環境が整ってなかったりというか、言葉も知らなかったりとか、そういう大変なところに行ってプレーするのが好きなんでしょうね。
海外への挑戦は決してうまくいってないと思うんですけど、そういうことが自分の中で蓄えとか経験になるなって思ってやってたんですよ。もちろん成功してうまくいくのが理想だけど、うまくいかなくても後々そういうのが経験になるんじゃないかと思ってやってたんで。そう思わないとやれてないですけど。
前園真聖「今の自分があるのはサッカーのおかげ」
僕はある意味珍しいと思うんです。別に……オリンピック出場を決めたという事だけじゃないですか。自分の功績とか実績で言えば。28年ぶりに五輪出場を決め、マイアミの奇跡を起こしたチームのキャプテンというのが、僕の唯一の実績で、ワールドカップに1度も出てないじゃないですか。
1996年アトランタ五輪出場を決めた後、異常なくらいにサッカー界が盛り上がって、そのおかげでサッカーの枠を超えたCMに何本も出させてもらったりとか、そういうのを若い時にいろいろ経験して。
そこからなかなか自分がうまくいかなかったというのをサッカー人生の中で経験したんで……いろんなことを……若い時にいい時はメディアにちやほやされて、でもダメなときには叩かれて、本当のことを書いてもらうこともあれば嫌なことを書かれたこともあるし、真実じゃないことを書かれたりとか、そういうのをたくさん経験したんですね。いいことも悪いことも、あまり他の人が経験してないジェットコースター並みのいろんなことを経験しました。
引退してから自分の現役時代を振り返ると、「このときはこうしたほうがよかった」と考えるじゃないですか。それで現役を辞めた後もテレビに出してもらって、自分がメディア側に立ったときに選手の気持ちがわかるというか。そういうのはサッカーの中ですべて経験させてもらったからなんです。
自分の良いことも悪いことも含めて常にサッカーと一緒にあったので、ピッチの外からサッカーを見てても客観的に見られるのかなって。だから選手に対して上からというか、そういう態度にはならなくて。
もし自分がワールドカップに2、3回出てたりしたら、そういう功績を……何と言うのかな……うぬぼれるとか自慢げに語ったりしてたかもしれないんですけど、自分の功績としてはあまりなくて、五輪にしか僕は出場してないのに、現役終わった後にメディアに出してもらったりサッカーに関する仕事でテレビに出してもらったりしてるのは、すごくありがたいことだし、だからどれも一生懸命やらなきゃいけないと本当に思ってるんです。僕が今あるのはサッカーのおかげなんだなって。そう思ってます。
前園真聖の「やりたいこと」
現役のときは週末の試合やその先の日本代表とか、五輪やワールドカップとか、いろんな目標を見据えて、そこから逆算して毎日の練習に取り組むみたいなことがあったと思うんです。
でも、自分の不祥事で仕事が全くなくなった時期が3カ月以上あったんで、自分がボールを蹴ってたりとか、引退した後にサッカーに関わるレギュラー番組をいただいたりとかというのは、当たり前じゃないというのに気付いたんです。
そのとき日々過ごせるありがたみというのを、自分の大きな失敗で経験してるので、復帰したときにまたいろいろお仕事をいただけるようになって、活動できるというのは本当にありがたいことなんだというのをすごく感じてやってるんですね。
だから「今やりたいことは?」って聞かれると、これっていうことがないんです。そう言うと誤解をされちゃうかもしれないんですけど。
一つひとつの仕事をしっかりやっていかないと、自分が思ってるところにたどり着けないんだなって。今の僕はバラエティー色が強いと思うんですけど、いろんな人に会ったときにそう言ってもらえるのもありがたいし。一方で復帰した2014年からLivedoorさんでサッカーの連載コラムを300回以上、今もやらせてもらっていて、そうするとサッカーの仕事もスカパー! さんやNHKさんの番組にも声をかけてもらって。
どれも自分がやりたいと言って始めたんじゃなくて、今ある仕事をしっかりやってると次の仕事も来るんだというのが自分で分かったし、先の目標を見るよりも目の前のことをしっかりやっていくというのが大事で、それをやっていかないと先はないというのがなんとなくわかって、「やりたいこと」を追うのではなく、目の前のことをしっかりするのが自分にとって大事だと思っています。
前園真聖が新型コロナウイルスで感じたこと
今は新型コロナウイルスの影響でみんなストレスが溜まってますね。僕がそれを1番感じるのは車で移動しているときで、みんなの運転が荒くなってるんですよ。すごく飛ばすし、イライラしてるんだろうなというのをなんとなく感じます。
僕も時々車を運転してて、それまでは、ちょっと入れて欲しいときに入れてもらえなかったりすると「なぜだ?」という気持ちになってたんです。それから渋滞でイライラしたりとか。そういう「いらつき」って自分が思ってたとおりじゃないことが起きたときに感じると思うんです。
それでちょっと考えたんですよ。自分が変えられないことに対して怒りをぶつけても、変えられないものは変えられないから、それをちゃんと見極めるなきゃいけないなって。変えられないんだったら、そのことを引きずるんじゃなくて、気持ちを切り替えたほうがいいなって。
あとは、人はそれぞれ自分なりの「べき」というの持ってると思うんです。
その「こうあるべき」というのを相手にぶつけると結構混乱が起きると思います。「こうあるべき」「こうあるべきじゃない」というのは、それぞれ人によって違うと思うので、それを他人に求めてもぶつかると思います。
その「べき」は、僕の中でできる限り排除してるんですよ。だからこういう状況で仕事もなかなかうまくいかないし、「仕事をするべきだろう」「休むべきじゃない」「なんで仕事がないんだ」と思っても仕方がないので。環境が整っててできないんだったらイライラするかもしれないけど、そうじゃなかったら、そこに腹を立てても仕方がないし。
逆に今の状況が落ち着いたら何をするかということを考えたほうがいいと思うから、そういうふうに自分をもっていったほうがいいんじゃないかなって。半ば諦めも必要だし、それと同時に先にある楽しいことを考えたほうがいいかもしれないです。よくポジティブ思考といいますけど、楽しいことをイメージしながら、これまで以上に貯めてたパワーを出す準備をすることが、今、大事かもしれないですね。
前園 真聖(まえぞの まさきよ)
1973年10月29日、鹿児島県生まれ。鹿児島実業高校から1992年、Jリーグ 横浜フリューゲルスに入団。1996年のアトランタオリンピックに選出され、ブラジルを破るマイアミの奇跡などを主将として演出。
ブラジルのサントスFC・ゴイアスEC、韓国の安養LGチータース・仁川ユナイテッドなどの海外クラブでプレーを続けるも、2005年5月19日に現役引退を表明。
現在はテレビなどのメディアにも数多く出演をしつつ、ZONOサッカースクールで少年サッカーを中心に全国の子どもたちにサッカーの楽しさを教えるための活動をしている。
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