酒井高徳「サッカーの経済の変化から、サッカー選手に対する目線が変化した」

2019年、酒井高徳がヴィッセル神戸に途中加入すると、スター選手を集めたチームは急激に活性化した。そのままの勢いで神戸は天皇杯を初制覇すると、2020年シーズン到来を告げる富士ゼロックススーパーカップでも勝利を収める。

 

明るく朗らかな態度で人気の高い酒井だが、これまでには多くの困難な時を過ごしていた。ドイツではキャプテンというだけで非難され、日本代表ではずっと選ばれながらもレギュラーとは言いがたかった。そんな酒井がどう乗り越えてきたのか、そして現在の夢は何かを語った。

 

酒井選手

※この取材は3月上旬におこないました。

酒井高徳の辛かった時期

これまで辛かったことが一杯ありますけど……やっぱりハンブルガーSVにいた2015年から2019年の4年間は辛かったですね。2017-2018シーズンには降格も経験しましたし、2018-2019シーズンには昇格できなかったというのもありましたし、批判の声も多くありましたし……。

 

もちろん充実してたし、いい経験にはなったし、辛いことばかりではなくて、いいことも一杯ありましたけど……やっぱり辛かった時期というと、そのころですね。

2016年11月にはキャプテンに指名されましたが、僕はキャプテンをやってもやらなかったにしても、チームに所属している間はそのチームのために全力を尽くすというのが自分のモットーですから。

 

チームに貢献しようという意識を持たないでサッカーだけやってるというのは、どうしても自分の中で何か違うと思ってたし。「自分はサッカーが上手じゃない」と思ってて、その中でどうやればチームに貢献できるのかと考えたら、そうやって一瞬一瞬を全力でやることだと思ってたんで。

全身全霊をかけてやった

キャプテンをやると決めたときからは、全力で取り組むともちろん決めて、全身全霊をかけてやりました。チームにとって本当に何がいいのか、自分がチームに貢献できる場所はどこなのかって。それ以上はできないけど、それを下回らないように自分ができることを全部やるつもりでいたんですよ。

 

責任を背負い込んでるんじゃないかとも言われたんですけど、自分としてはキャプテンであることを奮起する材料にして頑張ってたという側面もあります。

チームが勝てない、昇格できないというところで批判されたりもしたんですけど……まぁこう……サッカーっていうスポーツの見方が変わってきてて。

日本はまだそうでもないですけど、世界は選手の見方が変わってきてるんです。チームとしてどう戦っているかじゃなくて、個人が見られるようになりました。

 

移籍金が高くなって、選手の注目度が上がってきて、「そんなに払ってるんだから」「そんなにもらってるんだから」って思われてしまうようになった面が出てきて。メディアから勝手に出てきた噂の金額おかげで、「アイツはあんなにもらってるのに、あんなプレーしかしないのか」っていう見方をされるようになってるんですよ。

酒井高徳「サッカー選手に対する目線が変わった」

サッカーの経済の変化からサッカー選手に対する目線が変化したんです。少し前まではサッカーというものを11人で見て、そのチームを応援するっていう考え方があったんですよ。

けれど今は、特にビッグクラブはそうなんですけど、獲得した選手に対して「100億円も払ったのに、これかよ」って見られるようになってしまって。

 

長くチームに在籍してるからコイツらはいいとか、若いからコイツはいいとかじゃなくなってて。選手が若くても高い年俸をもらってるって話が出ると、「18歳で何億円ももらってるのに、コイツはこんな活躍しかできないのか」って言われちゃうんです。

 

ヨーロッパではサッカー界の経済の変化によって、選手が見られる角度、光の当たり方が凄く変わってきましたね。2部に落ちて、昇格させようと残った前のシーズンからの主力選手たちは、いざ蓋を開けてみたら高給取りだって言われて、「使えない」とか一番批判されて。時代の変化がついて回ったというところがありました。

サッカーはチームみんなに責任がある

でも僕はそういう外の人たちはさておき、サッカーは11人でやるスポーツなので、みんなで勝ってみんなで負けると思ってるんです。得失点に直接関わっていない選手だとしてもチームだから責任はみんなにあるし。

負けたときは点を取れなかった攻撃陣も悪いと思うし、点をたくさん取って勝ったにしても、無失点じゃなかったら守れなかった守備陣が悪いと思ってるし。そういうサッカーに対する自分の考え方が変わらなければ、多少たりとも周囲の声は自分の中でシャットアウトできるのかな、というのも思ってたので。

 

確かに心のどこかに「なんでオレだけ非難されるんだ」と思ったことはもちろんありましたけどね。でもそれ以上に、そんな変な声は放っておけという気持ちもありました。

自分がキャプテンだから、主力でやってたから批判されたというのもあったと思うんですけど、よくよく見たらどこのチームもキャプテンなんて正直、精神的支柱なだけであって、プレーでチームを勝たせるとか何とかするという選手がキャプテンというのは、そうそうないわけで。

 

僕がそういう支柱の役割を任せられてキャプテンになっているというのは、みんな知ってたはずなので、どこかこう、ねぇ、やっぱり、責任をなすりつけやすいポジションでもあるのかと思いますね。

 

人種差別があったから非難されたということを言う人もいたんですけど……それはどうですかね。キャプテンになった当時は、ドイツ語をしゃべれるけど、そこまで流暢というわけではなかったんで、「言葉をしゃべれないヤツがなんでキャプテンなんだ」って、それも理由に批判されているとは聞いてました。

 

酒井選手インタビュー

常に結果を求められる世界 

そういうことは最初のころにありましたけど、監督がちゃんと僕の肩を持ってくれて、「ゴウはちゃんと理解もしてるし話もできてる。ゴウとの間にコミュニケーションの問題はまったくない」と言ってくれました。

 

チームメイトも、「ドイツ語がどこまで話せるかは関係なくて、高徳がどれだけ努力してやってるか自分たちも分かっている。何かサポートできることがあればサポートする」と、メディアの前で、僕がいるところで言ってくれたりしたんですよ。それでだいぶ気持ちが楽になったし、実際にキャプテンになった2016-2017シーズンは「もう残留は無理だろう」と言われていたところから残留することはできたので。

 

ただ、ヨーロッパというのは日本とは違って、安心してサッカーをしていられる環境ではないと思いますね。常に結果を求められる。その選手が半年間ずっといいプレーをしていようが関係なく、悪いときは悪い、いいときはいいっていう両極端な評価をされるんです。そうやってずっと結果を出し続けて生きていかなければいけない場所なんで、結果を出さないで批判されたときは自分が悪いと僕は思ってて。

 

日本の人たちは日本的考えがあるから「悪いなんてことはないよ」って言ってくれるけど、やっぱり8年間向こうでやった自分としては、結果を出していれば自分が批判の的にはされなかったはずだって思ったんで。

 

だから僕は批判されるのは当然で、自分の力のなさを痛感したという感じなんです。そういうのを乗り越えてきた、乗り越えられたのは反骨心のおかげでしたね。自分がうまくなって黙らせよう、自分がちゃんとやって黙らせればいいんだと思ってやってました。 

酒井高徳が語るサッカー日本代表への想い 

日本代表に関しては……今まで7年間ぐらい代表チームにいたのかな。それに対して不満とか、文句みたいなのは全くないですけどね。

代表チームでは左SBだけじゃなくて右SBやボランチもやりましたけど、代表として試合に出るということはすごく光栄なことだし、選手としてもいろいろ喜ばしいことなんで、右でも左でもしっかりやれる準備しておかなければいけないと思ってました。だからミーティングの戦術確認の時なんかは、たとえば左SBでやってたとしても、右サイドでは何を言われているのか意識して聞いていたし。

 

自分が出場するのは試合の途中からじゃないかと思ったときは、左右両方のスカウティング映像を見たりして相手選手の特徴を頭に入れてましたよ。ヴァイッド・ハリルホジッチ監督の時はボランチでも出ましたけど、その時自分のチームでも同じポジションもやってたんで、もちろんボランチとしての話も聞いてたし。

監督に「自分のチームではこうしてるんだけど、代表ではどうなんですか?」って聞いたりとか、組んだのが山口蛍だったんで、蛍に聞いたりとかしながら、意識してやってました。

いろんなポジションができることが生きる道だった

器用貧乏はいざとなったときに弱いというのは言われてたし、そのポジションのスペシャリストになることが重要とも言われてました。でも逆にいろんなポジションができることでいろんなチャンスが来るとも言われてたし。いろんな考え方がある中で、僕がサッカー選手として生きる道は、いろんなポジションができるという、そこなんだと思ったんで。

 

同じポジションにスペシャリストがいて、その選手に負けるようだったらそれは自分の弱味というだけで、準備というのは絶対に手を抜きませんでした。ワールドカップには3回行かせてもらって、先輩方が試合の直前に出られなくなるというのをたくさん見てきて、その選手がどんな役割をしてるのかというのもたくさん見てきたんで、そこで勉強させてもらってて。

 

それでプロとして絶対的に必要な部分で、どんなときでも100パーセント、自分の持ってるすべてを出せる準備をしておくというのが大事なんだというのを思ったんですよ。起きた現象に文句を言ったところで変わるものではないし。自分ができることをしっかりやって、それをずっとやってきてるから、自分はそういう人生なんだと思います。

酒井高徳がワールドカップを振り返る

ワールドカップは、2018年ロシアワールドカップのポーランド戦に右MFで出ました。あの試合は負けちゃダメという条件があったんで、西野朗監督の考えとして安定してた4バックをあまり変えたくないというのはあったんでしょう。ディフェンスラインでは槙野智章選手が入りましたけど、やっぱりフィジカル的な強さは槙野選手のほうがありましたから。

 

2010年南アフリカワールドカップではサポートメンバーで、2014年ブラジルワールドカップではメンバー入りしたけど出場機会がなくて、ずっとワールドカップに出たいと思ってました。

それで出場できたというのは、少なからず自分をずっと応援してきてくれた人に対しての恩返しでもあるから、ポジションが本職の左SBではないという不満は考えなかったし、全力でやろうと思ってました。

 

あの試合は0-1で負けていた状況で、そのままだったらベスト16に進出できたので、ボール回しをして攻めなかったら世間を騒がせたところはあったんですけど、僕としてはボール回しなんかせずに勝って、気持ちよくみんなをベスト16に連れて行きたかったんです。

 

でもそれを実行させてあげられなかった。そういう自分のふがいなさを感じた試合でした。周りがボール回しの時間稼ぎを非難していても、自分にはそんなことはどうでもよくて、そういうシチュエーションになった、勝利に持っていけなかった、サブ組としての役割を果たせなかったというのが単純に悔しかったですね。

頼まれたら断れない性格

そうやって自分がいろんなポジションで出場したというのは、頼まれたら断れないという自分の性格が関係してるとは思いますよ。でも僕はずっとそれで生きてきたし、プロデビューしたアルビレックス新潟でプレーしていたときも、当初は攻撃の選手として試合に出たりしてたんで。監督に使われて試合に出るというのは、選手として成長できるって思ったんです。

 

ただ代表というのは試合に出る、出られないという競争が存在する場所で、そこには結果を残さないとずっと入られないし、出ない選手というのは出たときに結果を残さなきゃいけないんです。

 

そのどちらも自分は当てはまらなかったから、あの立場に甘んじてたのかと思ってるし、だからこそ、そこのポジションで自分が……何というのかな……これ以上、そういった競争を戦いながら、仮にサブになってしまったときに、サブでいられる、サブで居続けるメンタリティを持つことをもう自分はできない、代表に使う体力や気力はないと思ったんで。

日本代表への復帰は?

「もう1回代表、どうなの?」なんて感じで聞かれたりすることもあるんですけど、自分としては今いる選手に「頑張ってください」という感じで、自分にチャンスがあるとは思わないです。

 

何というんですかね……天邪鬼じゃないかと言われたこともあったんですけど、全然そんなことはなくて。僕は7年間日本代表として過ごしてきて、もうそこにいる気力がないんですよ。

代表って選出されても居場所を確保されてはいないから、戻ったとしても自分のパフォーマンスが実はよくなかったとか、仮によかったとしても、いつかやっぱり悪くなる時期は来るわけで、そのときにまた競争があって出られないこともあると思うんです。

 

それでサブに回って、そこから試合の準備をするというシチュエーションになるというリスクを考えなければいけない。競争があって代表があるっていう、出られる資格があるやつが出るのが代表だ、という重さみたいなのを感じて今まで代表に行ってたんで、そこは変わらないと思うんです。

 

だから僕がもうそうやって準備をする必要はないんじゃないかと思うんです。代表に行くんだったら絶対的な、誰もが納得するような日本代表のSBになってなければいけないと思うけど、僕は代表生活の7年間でそういう姿を見せられなかったんで。

日本のJリーグに帰ってきて半年のパフォーマンスがよかったからといって、代表に戻って活躍できるほど甘いところじゃないと思ってます。代表選手という立場で一生懸命やってきて、代表を軽く見てないから故の決心です。

酒井高徳の「やりたいこと」 

 

酒井高徳選手

 

これから僕がやりたいことは、もちろんサッカーのことで、ヴィッセル神戸に1つでも多くのタイトルをもたらすことです。そのために来たし、まず半年プレーして、天皇杯と富士ゼロックススーパーカップの2つのタイトルを取れたんで、もっとチームが取りたい、上のタイトルを目指します。

 

神戸にはどんどん貪欲なチームになってほしいし、強いチームの一員になれるように導いていきたいし、自分もなっていきたいと思います。自分としてもそういう経験はなかなかしてこなかったから。

 

だからチームとしても自分としても成長していきたいとは思ってて、それに対してやっているのは、細部のところまでしっかりこだわるということですね。細かいことまでしっかりやるというのが強いチームだと思うから。そういったところは、「これでもか」というくらい、自分でも気を付けながら発言したり、自分で見つめ直したり考え直したり提案したりしてますね。

 

どういうのが強いチームで、どういうチームが勝ち続けられるのかというのを、バイエルン・ミュンヘンとかボルシア・ドルトムントとか、他のヨーロッパのチームをいろいろ見てきたんです。自分が肌で感じてきた、「強いチームってのはこうだ」っていうのを、自分たちと照らし合わせてやっていきたいと思います。それを今は凄く楽しみに一日一日を過ごせしてるんですよ。

 

酒井 高徳(さかい ごうとく)

1991年3月14日県生まれ。レザーFS Jrユースからアルビレックス新潟ユースを経て2009年にトップチーム加入。2011年リーグ戦初得点を記録。2012年ドイツ・ブンデスリーガのVfBシュトゥットガルトに移籍。2015年ハンブルガーSVに移籍。ブンデスリーガで初の日本人キャプテンとなる。2019年J1ヴィッセル神戸に完全移籍。

日本代表には2010年に初選出。2012年UAE戦でA代表デビュー。同年ロンドンオリンピック出場。2014年ブラジルW杯、2018年ロシアW杯に選出。日本代表Aマッチ通算42試合出場。

 

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野人 岡野雅行がガイナーレ鳥取で学んだ「営業の極意」

野人 岡野雅行

日本が初めてワールドカップ出場を決めたとき、ゴールを奪ったのは岡野雅行だった。高校では自分でサッカー部を作り、無名選手から一転浦和に入団し、自分で出したスルーパスに足の速さを生かして自分で追いつくなど、異色な経歴やプレーぶりを見せていた。

 

そんな岡野は現役を終えた後も独特な道を歩んでいる。ガイナーレ鳥取の代表取締役GMとして、クラブの財政基盤を支えるために走り回っているのだ。肩書きこそGMだが、話を聞くと第一線の営業として東奔西走する日々が続いている。どんな日常を送っているのか、そして今の夢を聞いた。

岡野雅行「野人プロジェクト」を継続

僕はガイナーレ鳥取で「野人プロジェクト」という企画を2014年からずっと続けてます。これはガイナーレを経由して鳥取の名産品を買ってもらうことで、クラブの強化費を作ろうという取り組みです。

鳥取には美味しいものがたくさんあるんですよ。有名な境港の魚ももちろん美味しいんですけど、それだけじゃなくて、豚肉とかジビエやスイーツ、ブドウなんかまで本当に美味しいものの種類も多い。

 

経営的にも地元のいいものを使って何か出来ないかと調べているときに気付いたんです。境港に行ったら「支援は出来ないけど魚はあるよ」って言われて、じゃあそれを知ってもらえればいいんじゃないかって。

いいものはあるんだけど、みんなうまく宣伝できていない。だったらその宣伝をガイナーレがやろうって。それで僕が漁師さんの格好をしたら「野人が漁師になった」って全国版に取り上げてもらえたんですよ。

それで「うちもやりたい」と声をあげてくれるところが出てきたんです。全国に宣伝できたので大きな反響があったみたいで、境港の方が「他県から『ガイナーレのプロモーションを見て来ました』と言う人が増えた」とおっしゃってました。

 

現在扱っている商品は、お正月だとおせちもありますから、10種類ぐらいあるんじゃないかと思いますね。もうちょっと増えたかな。そういう食べ物を1万円前後で買ってもらって、そこで集まった資金で選手を連れてくるんです。だからプロモーションを行うのは海外から選手を獲得できる「移籍ウインドウが開いた」期間ですね。

初めてのときは4000口程度応募してもらいました。それでフェルナンジーニョを連れてこられたんです。しかもそのフェルナンジーニョが大暴れしたんで、商品を提供した人も、買って支えてくれた人も、クラブも選手も、みんながウィンウィンという企画になったんですよ。

美味しいものが届く、それで僕がフェルナンジーニョを獲る、フェルナンジーニョが活躍する、それで自分が寄付したから彼が来たんだよと喜んでもらえる。そういういいプロジェクトになったんです。

 

今も浦和レッズのサポーターの方がたくさんこのプロジェクトから購入してくれてて、それで2018年の企画の際に僕がブラジルに2泊4日で行って、連れてきたのがレオナルドなんです。現地で生で見て「コイツ、すごいな」って思ったんですよ。「これは何かやるだろう」って。

それで2年契約したんですけど、1年経ったところでアルビレックス新潟が移籍金を満額払って獲得して、J2リーグの得点王になったんです。すると今年、浦和レッズに移籍して、今季初戦のルヴァンカップ仙台戦でさっそく2ゴール挙げました。

 

まさかJ1まで行くなんて最初は思ってなかったんですけどね。浦和のサポーターが鳥取からたくさん買ってくれて、その資金で僕が選手を取ってきて、その選手が浦和に行ったということで、結果恩返ししていることになりました。偶然ですけど、おもしろいなぁって。

 

野人プロジェクト

岡野雅行がクラウドファンディング 

そして今やろうとしているのは「芝生」ですね。「しばふる」という芝生生産プロジェクトです。鳥取は芝生が育ちやすい土地なんです。

砂地で、水位が高いのでいい芝生になるんです。新国立競技場も鳥取の芝なんですよ。ガイナーレのホームスタジアム「チュウブYAJINスタジアム」の「チュウブ」は芝生の会社で、そこが国立とか味の素スタジアムなんかに鳥取の芝生を納めてるんです。

 

「しばふる」で扱っている芝生はその中でもちょっと違ってます。すごいクラブスタッフがいて、「チュウブYAJINスタジアム」の芝生を無農薬で育てちゃったんです。チュウブさんがスタジアムの芝をチェックしに来たとき、「こんなのあり得ない」って。

虫は飛んでるんですけど芝生はちゃんと育っていて、専門家が「なんでこんな状態で維持できるんだ?」って驚いてたんです。それで「これはすごいぞ。ガイナーレも芝生を作ったほうがいいんじゃないか?」ってことになったんです。

 

それで鳥取を見ると、手入れができてない土地、高齢化なんかが進んで遊休資産になっている場所が結構あるんですよ。そういうところをガイナーレが借りて芝生を植えてます。

見た目もきれいになるし、子供たちも安心して遊べるし、それで芝がしっかり育ったらほしいところに持って行けばいいし。これも地域社会の一員として役に立つんじゃないかって。

それから芝生って何にコストがかかるかって、やっぱり人件費なんですね。毎日刈らなければいけないから。伸びちゃうと根をしっかり張ることができなくて、ダメになっちゃうんですよ。毎日ちゃんと刈り取ることができれば芝生の密度も上がってきて、しっかりとしていきます。

 

夏場なんか毎日刈るのって本当に大変ですからね。でも、その大変な芝刈りをやってくれるロボットも今あるんです。ロボット掃除機みたいな機械で、自分でドックに戻ってきて充電しながら芝刈りするんですけど、電動なので音はうるさくないので深夜でも作業できます。そうすると人件費の問題も解決できます。

この芝生のプロジェクトは昨年クラウドファンディングを行ったんですけど目標額がすぐに集まって、みなさんが興味持ってくださっているのがわかりましたね。

 

ガイナーレって、母体がないから大きくお金を出してくれるところがないんです。それは大変なことで、ガイナーレはサッカークラブだけど、地域ビジネスをやっていかないと今の時代大変なんです。

 

大学時代に多くの人と出会う

大学時代に多くの人と出会う

僕はビジネスの勉強とかそういうの、大学時代にやってなかったですね。それより麻布十番のバー「プレゴ」というところで働いていました。サッカーじゃ絶対生きていけないと思ってて、バーテンダーになろうとしてたんですよ。

 

カクテルを作ってるのがかっこよくて、グラスをたくさん並べてシェイカーをシャカシャカやってる姿にめっちゃ憧れて。これはバーテンダーにならなければ、と思ってたんです。

そのバーで働いていたころにJリーグが開幕して、ゾノ(前園真聖)とかラモス(瑠偉)さんとか来てました。まさか次の年、自分が戦うとは思ってなかったですね。それから清原和博さんがいらしてて、僕は清原さん担当だったんです。

 

清原さんからは「タバコを買ってきてくれ」と頼まれることがあって、僕は走って自販機まで行ってたんです。戻ってきたら清原さんから「お前、マジで今行ってきたのか?」って驚かれたことがあります。清原さんは自販機の場所を知ってて、ちょっと距離があるのわかってましたから。それで「お前、早すぎねぇか?」って。

 

清原さんはそのあとも僕のことを覚えてくれていたんですよ。Jリーガーになった後、偶然お会いする機会があったんで、僕は「初めまして」って挨拶したんです。そうしたら清原さんが「お前、初めましてじゃなくて、バーに勤めてたときに会ってただろう? 今はプロになって『野人』って呼ばれてるよな?」って。

 

「はい!」と言ったら、「よかった。他の選手に『野人』は昔飲みに行っていたバーでアルバイトしてたヤツだって言っても誰も信じてくれないんだよ。やっぱり本当だった」って。僕も覚えてもらっててうれしかったですね。

それでJリーグできたぐらいのときに僕は初めて大学選抜に入って、「あの速いやつは誰だ?」みたいな感じになって、そこからプロへの道が開けたんですよ。めっちゃ無名でしたからね。

 

大学時代

岡野雅行「GMはできないと思った」

そんな大学時代だったんで、まさか自分がゼネラル・マネジャー(GM)やるなんて思ってませんでした。だから最初、塚野真樹社長に「GMやらないか?」って誘われたとき、言いましたもん。「どうしてオレがやれると思うんですか? パソコンも開けないのに」って。慣れないと言うか、できないっていう話ですよ。

 

現役終わるころって僕は東京に戻ってタレントさんと組んで番組を始めるという話もあったんです。報酬もすごくもよかったし、もう勝負のプレッシャーも嫌だったし。その時に社長が来てうまく口説かれたっている感じです。

それでよく考えると、高校のときは交渉ごとってやってて、そこでセンスを身につけたかもしれないですね。高校のサッカー部は僕が作って、監督がいなかったから、僕が全部やらなきゃいけないじゃないですか。

 

だから営業じゃないですけど、対戦を希望する相手の高校に電話して話をするのは僕だったし、グラウンドを使わせてくださいとかそういうお願いにも行きましたし。

そのときは必死だったんで、どれくらい大変だったかあんまり覚えてないんですけどね。僕の再現ドラマをテレビで見て、そういえばああいうこともあった、オレってすごいなって。

岡野雅行「最初は地獄のような日々」

でも本格的に営業のセンスを磨いたのはこの仕事になってからですかね。初めは社長にくっついて行ってました。最初は地獄のような日々ですよ。社長がバンバン営業に行くんです。広島行って姫路に行って鳥取に戻って、もう1回広島に行ってそこから大阪、そして岡山。

もう今自分がどこにいるかわかんないぐらいで。毎日車での移動が4時間、5時間当たり前。大変だったけど、そのときにこういう感じで話せばいいんだと学んだんですよ。

その後、1人で企業さんを訪問するようになって。最初に1人で営業に行った時って、相手は初めて会う人だし「大丈夫かな?」と心配してたんですけど、電車の中で目の前を見たら、スーツを着た人が同じように不安そうな顔をして資料を見てて。

 

「今日は何を話せばいいのかって考えてんだろうな。一緒だな」と思って、降りる時に「今日、頑張りましょうね」って声かけて。そのとき1発目に入ったところと契約できました。

とにかく僕はサッカーと一緒で向かっていくので。自分で行って話をするんです。資料は持って行かないんですよ。相手がこちらに興味がないのに資料を持って行っても仕方ないから。

それで会長さんとか社長さんと話をしてて、「わかった。何をやればいいんだ」って言ってもらったら、「もう1回来ます」と言って次に営業を連れて行って、そこで資料を説明するんです。 

 

営業方法を学ぶ

岡野雅行「飛び込み営業もやる」

営業に行く時って、通りにあった企業さんをしらみつぶしに歩いたりしてるんです。飛び込み営業ですね。ピンポーンって鳴らして「ガイナーレの岡野です。ちょっと挨拶に来たのでいいですか?」と言って入らせてもらって。

もちろんトップの方がいないと話は決まらないんですけど、「社長がいなくてもご挨拶だけさせてください。みなさん今年もガイナーレ頑張るのでお願いします。見に来てください」って頭を下げて。喜んでもらっていると思います。

 

現役を引退した選手で、その後にテレビに出られる人って少ないじゃないですか。それでどこかの企業に入って最初は挨拶の仕方から勉強しなきゃいけない。でも、頭を下げることってなかなか難しいと思うんです。

だってみんなずっとエリートだったから。僕は高校にサッカー部もなかったりヤンキー高校だったり、そういうのがあったから頭を下げるのなんて当たり前だと思ってて、僕はずっとこれが普通だと思ってやってきました。

やっぱり目の前で話すというのは大事なんです。特にトップと。みんなが怖いって言って近づけないような人がいるじゃないですか。でも僕は関係ないから、どんどん行っちゃう。

 

嫌われてもいいから、やっぱり出て行かなきゃダメなんだと思いますよ。自分の口で喋って。ホームページも作ってはいるんですけど、ホームページって興味がある人は調べて見てくれても、興味がない人は見ないから。

昔はまず「Jリーグとはどういうものか」というところから説明しなきゃいけなかったですね。次にJリーグは知っててもJ3というのはどういうのかわかってなかったりとか。

 

「ガイナーレってJリーグとは関係ないんでしょ?」って言われたりもしましたし。今はだいぶ浸透してきたと思います。

 

野人というあだ名

岡野雅行「野人というあだ名が良かった」

自分の「野人・岡野」というイメージも逆の意味で良かったと思います。みんな「長髪でどうせチャラチャラしてんだろう?」みたいに思ってるんですよ。

それで僕が挨拶に行って、「今日はお時間を作っていただいてありがとうございます」と言っただけで驚かれて。「挨拶ちゃんとできるんですね」って、それだけで契約してもらえるみたいなのもありました。

 

もしこれがちゃんとしている人間としてイメージを持たれているような、たとえば川口能活だったらきちんと挨拶して当たり前と思われちゃうんでしょうね。

僕に「野人」というあだ名を付けてくれた、今は浦和でスポーツ・ダイレクターになった土田尚史さんに感謝です。本当によかったというか、今の仕事になってとても生きてます。

 

接待の席にも行きますね。今は「接待」ってだけで嫌いな人多いじゃないですか。お酒が入ったら文句を言われたりもするから。でも僕は昔から飲むのが好きだったんで、いろんな所に顔を出してたんですよ。だから接待は全然平気なんです。

ただ、みなさんのイメージに、「現役の時は飲んで暴れてたんだろう?」というのもあるんですよ。だから宴会の席でみなさんにお酒をついで回っている姿を見てもらっただけで、ある会長さんが「日本代表なのに正座して酒をついでる。気に入った」と支援を決めてくださったこともあります。

地道にガイナーレファンを増やす

昔、ガイナーレを嫌いな人ってやっぱりいらしたんですよ。実はその「気に入った」と言ってくださった会長さんだったんですけど、その会長さんが他の社長さんたちに向かって「おまえたち、どうしてガイナーレを応援しないんだ」って会合で言ってくださって。

みんなから「会長が嫌いだって言ってたじゃないですか」って突っ込まれてましたけどね(笑)。

それに僕は接待で負ける気がしてなくて。チュウブの会長さんはすごくお酒が好きで、あるとき、一升瓶を目の前にドーンと置かれて「これを飲んだらまた次の支援するから」と言われ、2人でずっと飲んでました。

 

おちょこが小さかったので途中から大きいのにしてガバガバ飲んで、とうとう一升瓶を空けたんですけど、そうしたら会長さんがベロベロになっちゃって、「何でお前は平気なんだ」って。

こっちは緊張して気が張ってるから酔わないんです。そんな状態なのに「もう一軒行くぞ」って言われて、次はウイスキーをドンと目の前に置かれて。

とうとう「お前、強いな」って会長さんが帰ることになって、僕はタクシーが見えなくなるまで頭を下げて、そこからホテルに帰ってぶっ倒れました。その次の日のお昼過ぎに電話したら、「わかった。次も絶対やるから」って。

 

僕はゴルフのコンペも顔を出しますね。コンペのときって僕はガイナーレに興味を持ってない人と組ませてもらってるんです。ハーフが終わってちょっと話をして、次第にサッカーのことなんか聞いてもらえるようになって。

それで夜の懇親会で「支援するよ」って言ってもらったこともあります。

 

そういうのをずっとやってきて、もう僕は知らない社長さんがいないです。会う人がみんなすごい社長さんとか会長さんばっかりで、その人たちからいろいろ教えてもらうんです。「こういう感じでやればいいんだよ」とか飲みながらヒントをもらったりとか。そういうので自分を磨いていったという感じですね。

 

今はこの仕事をやって本当によかったと思ってます。こういうことをやらないとお会いできない人たちと知り合いになれましたから。いろんな社長さんの苦労話なんかを直接聞けるというのだけでもすごいですし。

何百億円の借金があったけど、頑張って今は何千億円の売上にしたとか。そうすると余計に相手を尊敬の目で見ることができるようになりますね。

 

最近うれしかったのは、東京でご飯食べてたとき「もうガイナーレ辞めたんですか?」って聞かれたり、電車の中で「ガイナーレ頑張ってください」って言われたりしたことですね。僕がガイナーレで働いているというのが浸透したということですからね。鳥取じゃなくて他の地方で言われたというのが、よけいにうれしく思えましたよ。

 

岡野雅行のうれしかったこと
 

岡野雅行のやりたいこと

僕がやってみたいことは……夢は昔から居酒屋をやることなんです。下北沢とか三軒茶屋あたりに店を出したいと思ってて。そしたら今まで知り合った社長さんは全員来てくれるんじゃないかなって(笑)。

そこに来てくれるような人たちって、信じられないようなお金持ちの人たちだから、店を広くして値段を高くしたいんですけど、あまり無理しちゃダメなんです。20人か30人ぐらいが入れるところですね。でも高いボトルは置いておく、みたいな。

 

そこにやってきた社長さんに「社長、ドンペリありますよ」って営業して。そういうのをやって儲けたいです。今みたいな大変なプレッシャーがある中で稼ぐんじゃなくて、もうちょっとノンビリ出来ないかなって(笑)。

 岡野雅行のやりたいこと

(撮影:神山陽平/Backdrop)

 

森さんが書いた過去の記事はこちら

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大久保嘉人「人の目ばかり心配してたら成長しない」

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2013年から2015年まで3年連続Jリーグ得点王に輝いた大久保嘉人は苦しんでいた。2017年から2019年の3年間で挙げたゴールは14点。2013年からの3年間で67得点だったことを考えると急落したと言えるのだ。

2019年に所属した磐田では90分間フル出場が開幕戦だけと、出場機会も減少してしまった。その大久保が再起をかけて選んだのは高校時代の大先輩、永井秀樹監督が率いる東京ヴェルディ。新たなシーズンに向けた大久保の決意を聞いた。

 

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大久保嘉人が語る「日本人監督と外国人監督の違い」

自分のサッカー人生は苦労の方が多いですね……苦労のほうが多いと思います。

その辛かった事って、別に監督に理解してもらえないとか、そういうんじゃないんです。良いプレーが出来るかどうかって、そのチームのスタイルがあって、それに合うとか合わないとかいうのがありますから。

 

でも、監督が揺れ動いちゃうというか、目の前のことばかり考えてしまうようなサッカーになってしまったり、そういうときは、辛かったですね。こうやったら普通に勝てるのにって、ピッチ外やスタンドから、冷静に客観的に見てたら分かることでも、監督になったら分からなくなってしまうというか。その立場にならないと分からないことなんだろうと思いますが、そういうのが多かったですね。

 

日本人監督の特徴って結構似ているとこがあったんです。それは外国人監督とはまるで違って。日本人監督は割と分かりやすくて、目の前の試合にどう勝つかということに集中するというか。それはもちろん悪いことではないんですけどね。

直近の試合に勝たなければいけないというのは分かるんです。けど、そこにだけフォーカスしてしまうことが多くなる。そうなると「こういうサッカーを続けてると最後は後悔するんじゃないか」と思うことが多かったですね。

 

そういう意味では、川崎フロンターレのときの風間八宏監督とか、今の永井秀樹監督のサッカーはめちゃくちゃ面白いです。風間さんや永井さんは、自分を貫き通すというか、やりたいサッカーを貫くから。そしてそのサッカーがアカデミーまで伝わっていきますから。

そうやって貫いたからフロンターレの色とかサッカーというのが出来上がった。ヴェルディも今はそうだと思います。そういうやり方ってなかなか日本人監督は出来ないと思います。結果を求められるうえで、それをやり続けることに批判も来るだろうし。

 

「サッカーを知ってるよ」っていう感じで見てる人でも、ただ何かを読んだ知識だけって人もいて。だから、試合に勝つか負けるかで判断されて、「あそこはこうすればよかったとか、ああすればよかった」とか言われたりするんですよ。

そういう批判があったり、どうしても勝点を稼がなきゃいけないということで考えを曲げてしまう。そういう時、僕はもうちょっと長期的に考えて信念を貫けばいいと思うことがあったんです。その考え方の違いに悩むこともありましたね。

 

一方、外国人監督はブレない人が多い。その信念に合うんだったら若い選手でもどんどん使う。そこはやっぱり素晴らしいところで、そういうところがまだ日本との違いとしてあるのかなと。歴史かもしれないですね。Jリーグは始まって27年だけど、海外では100年を超える歴史がありますからね。

信念を貫くというか頑固というか、そういう意味では2009年にヴォルフスブルクに行って、フェリックス・マガト監督の下でもやりましたが、彼の信念はすごかったですよ。

例えば「オーバーヘッドシュートは打つな」という信念を持っていて、それを常に言われる。ある試合でオーバーヘッドシュートして怒られました。惜しかったんですよ。ポストに当たって。普通だったら「いいぞ」って言ってもらえるとこだと思うんですけど、ダメなんですよ。マガト監督は。

 

自分の考えを貫き通す監督だというのは話に聞いていたし、それが分かって自分もヴォルフスブルクに行きましたから。だからまぁ、自分としてもそれを受け入れて。「なんだよ」と不満に思いながらもね(笑)。

 

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大久保嘉人「周りの目は気にしない」

自分は暴れん坊のイメージを持たれてるかもしれないけど、九州の人だったらそうじゃないと分かってくれると思うんですよ。特に自分の地元の感覚なんかだったら普通だと思うんです。いろいろはっきり言うけど、その場が終わったら終わりだから。怒ってるわけじゃないし。

だけど他の地域の人は分からないから、ビビっちゃうかもしれないですよね。喋り方もちょっと怖いと思われるかもしれないし。北九州の言葉なんか汚いと感じちゃうかもしれないし。そういうのもありますね。

 

でも誤解された感じでメディアに書かれても反論なんかしたことないですよ。自分は書いてもらうんだったら何でもいいです。発信してもらってるんだから。だからいろんな事を正直に全部言うし、書いてもらっていい。海外だったらそうじゃないですか。日本はそういうとこ甘いというか、周りの目を気にしすぎるところがあるな、と思います。人の目ばっかり心配してたら成長しないですよね。

自分が周りを気にしたって、「その周りの人たちが何かやってくれるの?」って。「自分の代わりに稼いでくれるのか?」って思うんです。結局はただ文句言ってるだけで、言ったほうはその後忘れちゃうけど、実際にやるのは自分だから。

人の目を気にしてたら結局はダメだって、そういうのって後々わかってくれると思うんです。そしてそのとき後悔しますよね。周りの目なんて気にしなければよかったなって。

 

自分もそうは言ってるけど、高校までは言われたことしかやってなくて。自分が思ったとおりにやってれば絶対ゴールできたのに、言われたことをやらないといけないと思うからそれでミスして得点取れなくなっちゃうんですよ。

「絶対これゴール決められたわ」と思うのが何回もあって。それで、周りからなんと言われても絶対自分が思ったことをやろうと高校3年生の時に決心したんです。

 

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悔いのないように自分を貫く

プロになった時も偉大な先輩がいっぱいいたんですけど、そこはもう貫くしかない。プロになって最初に入ったセレッソ大阪ってものすごい選手がたくさんいたんですよ。特に森島寛晃さんは日本代表で活躍してて、凄かったです。

でもその中でも考えは曲げないでいこうって思ってて。生き残るか潰れるかだから。自分の思うとおりにやってダメだったら仕方ないけど、人から言われてそれをやってダメだったら後悔しかないから。そうなってしまうのがマジ嫌で。絶対悔いのないようにしようって。

 

だから気性が激しいと思われちゃったのかもしれないですね。まあ警告でイエローカードもレッドカードもいろいろもらいましたけど。もらった時は、それは周りの選手やクラブにもいろいろ言われましたよ。罰金もめちゃくちゃ取られたし。でも自分は自分のやり方を変えなかったですね。そっちのほうが絶対生き延びられると思って。

 

海外に行った時も変えませんでした。あ、でもマガト監督にオーバーヘッドを禁止されたときは「もうやっちゃいけない」と思って、シュートじゃなくてトラップするようにしましたね。「ダメ!」ってすごい勢いで言われちゃうから。日本じゃ退場になった時でも、そんなにひどくダメって言われませんでしたから(笑)。

 

そうやって自分を貫こうとしてきたから、周りとの衝突とかあっただろうって言われるんですけど、全くないです。気にしてないとか、そういうことじゃなくて、何かあったとしても自分としてはその場で終わりだから。試合が終わったらみんな仲いいし。自分は「あいつ嫌だ」とかそんなこと全く思わない。試合が終わったらみんな友だち。

大久保嘉人「あれはナイスファウル」

相手選手といろいろあったとしても、試合が終わったらどうでもいいですね。向こうも一生懸命なんだし、生活がかかってるし。相手選手の立場になったら「そこはファウルしてでも止めなきゃダメだ」とも思うし。

昔Jリーグで、抜け出して独走しようとしたときに抱きつかれて止められたことがあったんです。あれも相手にしてみたら「ナイスファウル」だったと思いますよ。あそこで抱きつかなかったら自分はゴール決めていたと思いますから。

 

でもね、あそこで抱きついてでも止めようってする日本人はなかなかいないですよ。退場したらダメだ、怒られる、そう思って当たりにいけないんです。でもそこでいけないでゴールを決められたら、勝利給とかゼロになりますからね。だからそこはやらないといけない。

自分も、相手選手ならあそこはファウルしてでも止めなきゃダメだというシーンだと思いましたね。もしファウルしたことでPKになるような場面でも、ファウルしなければゴールだし、PKは運だけど、もしも入らなかったら、それはファウルした選手の勝ちだと思います。

 

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自分がやりたいことだけをやってるわけじゃない

日本人は器用ですからね。いろんなサッカーに対応できる。でもここは日本で、海外じゃないから。海外のやり方をまねして、それでおかしくなってる感じってあると思うんですよ。みんな「海外はこうだ」って言いすぎてて。

ここはプレミアリーグじゃないんだから。海外ではああいう大きなパワーがある選手が揃っているからそのためのやり方をやっている。でも日本じゃそんな大きな人はいないし、それに合うサッカーをやっているのに、なぜか見失ってしまうことがあるんですよね。

 

自分は試合中、チームメイトには「ボールを出せ!」とか言いますけど、元々監督とかに何かを言うってことはほとんどしたことがないです。でも昔はいろんな選手が苦しんでたのを見て「これはヤバイ」と思って、監督のところに話に入ったこともありますよ。それでしばらく監督やコーチとうまくいかなかったなんていうこともありましたね。

 

ただ、自分がやりたいことだけをやってるというんじゃないんですよ。2007年にヴィッセル神戸へ行ったときって自分とレアンドロがFWで14点と15点取ったりしてまだよかったんです。けど、2008年はチームが苦しかったんで自分が中盤をやるしかなかったから、アウトサイドだったりトップ下だったりでプレーしました。

これまでの所属チームでの思い出

それで2013年に川崎に入り、風間さんのもと、ストレスなくやれました。風間さんの考えが ぶれないから。周りもいろんなプレーが出来るようになってきたし、自分もFWに入ったらゴールを取れるって自信がでてきたので。だからチームメイトに「前にパス出せよ」って厳しく言ってたんですよ。自信がなければ「パスを出せ」なんて言わないです。

2018年にFC東京から、もう1回川崎に戻ったときって、もうチームが出来上がっててなかなか出番も来ないし、一度引退も考えたんです。そんなときに磐田に誘ってもらって、もう一度別のチームで勝負してみようと。

 

そういう思いで移籍したけど、チームは残留争いに巻き込まれて、監督も1シーズンで3人代わって。そんな経験は今までなかったし、大変でした。出たらゴールを取れるという気持ちはあったんですけど、なかなか出番も回って来なくて。

でもいつ出番が来てもいいように体だけは動くようにしておこうと思っていました。体を動かしてたら、自分は全然まだやれるというのも分かりましたし。だから東京ヴェルディに来て初日の練習でシャトルランという持久力を計るトレーニングをやったときも、川崎の時よりも良い成績出ましたからね。

 

2008年に神戸で中盤をやってたときには、2013年から3年連続得点王を取れるなんて考えられなかったですけどね。でも「ボールが出てくれば点は取れる。やれる」ってことを証明できたと思います。今でも縦パスを貰ったらいけると思ってますよ。

自分ではまだちゃんとプレーできると思ってるし、みんなから「どうしてJ2に行くんだ?」って言われたりもするんですけど、やっぱり面白いサッカーをしてるところに行きたくて。

J1とJ2

普段、自分はJ1の試合もJ2もほぼ見ないんです。けど永井さんがヴェルディの監督になって、国見高校の大先輩だからやっぱり気になるじゃないですか。それで見てたんですよ。そうしたらヴェルディのサッカーがどんどん変わってきて。パスサッカーだし面白いなって思えて。それで誘われて「あのサッカーだったら絶対自分はハマる」と思って入ったんです。

それに、もしJ1のクラブに入ったとしても、どんどん相手陣内に蹴り込むようなサッカーだったら絶対自分は生きないし。だったらJ2でも、パスをつなぐサッカーをするチームのほうがいいじゃないですか。永井さんのサッカーで楽しくプレーして、なおかつJ1に上がると。それが面白そうだと思えたのがヴェルディに来た理由の中で一番大きかったですね。

 

C大阪からヴェルディまで、のべ10クラブでプレーしたんですけど、それぞれに思い出はあって。みんなからは「3年連続得点王を取った川崎から移籍したのはなぜなんだ?」って言われるんですけど、正直に言うとマンネリしてたんです。ずっと得点を取ってきて、好き放題できるんですけど、逆にそういうのが嫌で。やっぱり常に刺激がなきゃいけないと思うし。それが移籍の理由ですね。

 

今回も刺激が思いっきりありますよ。練習試合でもたくさんの人が来てくれて、 期待が大きいのもすごく分かります。それにこのチームはみんな上手い。ヴェルディはアカデミーがすごくしっかりしてて、昔からうまい選手がたくさん出てくるから。それにヴェルディってやんちゃが多い(笑)。ちゃんと言い合う文化はあると思うんです。

 

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大久保嘉人の”やりたいこと”

今一番やりたいことは、それはもちろんJ2で優勝してJ1に上がることですけどね、後は別にないです。

……特にないな。車買い替えちゃったばっかりだし。家族を旅行に連れて行きたいっていうのも、オフにハワイに行ってきたし。もう1回海外挑戦したいというのは……ないね。得点王は、そりゃあ取れればいいけど、もう3回取ったしそこまで固執はしてなくて。

……。うーん……ないですね。MVPは……そんなに取りたいとも思わないし。レフェリーになりたいとか、そういうのは無理無理。キツそうやもん。走るのが。もし自分がレフェリーだったら選手は何も文句言ってこないからいいかもしれないですけどね。自分に何か文句言ってきたらすぐ退場させちゃいそうだと思うだろうし。

……いやマジないな。柿谷曜一朗は「家を買いたい」だったんですか? 自分は車も買ったし家もあるし、旅行にも連れていったし……。

あ、そうだ! 子どもがプロになるのを見たい!  それは見たい。そこですね。今、子どもは14歳、10歳、8歳と2歳の4人いるんですけど、どの子でもいいからプロになるところを見たいです。もし4人ともプロになったら最高です。それが一番の楽しみですね。

そのためには……自分が国見高校でやっていた思いを子どもにさせたいですね。いろいろ自分のためになったから。礼儀だったり、全てのことに対してよかったから。キツかったですけどね。でもそのキツいのが大人になるにつれて、すごくためになったんで。

だから子どもにも経験させたいです。子どもには「長崎に行けよ」って言ったんですよ。子どもは「自分はプロになれる」と思ってるから、「調子に乗るな」って。プロになってほしいけど、なれるかどうかわかんないです。もし、うちの子が、プロになったらインタビューしてくださいね。

それから、今2歳の子に自分がプロサッカー選手だったという姿を覚えてほしいですね。そこまで現役をやりたいから、あと4、5年は続けたいですね。

 

(写真:松田杏子)

大久保 嘉人(おおくぼ よしと)
1982年生まれ。福岡県出身。サッカーJ2 東京ヴェルディ所属。背番号13。ポジションは主にフォワード。Jリーグ初の3年連続得点王、J1通算最多得点記録保持者。日本代表としても通算62試合出場(2020年現在)

 

森さんが書いた過去の記事はこちら

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中西哲生「自分で自分のリミッターを切れる人間に」

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中西哲生はいつも「自分はうまい選手でも代表選手でもなかった」という。だが、そんな中西にメディアの仕事は途切れない。仕事をともにした人たちは魅了され、また次の仕事を依頼してくる。

 

その人気を得る秘訣は何か。またどんな努力をいつから始めたことで、スムーズにセカンドキャリアに移行することが出来たのか。プロサッカー選手が陰で重ねていた努力と、現在の「やりたいこと」を聞いた。

中西哲生さん「プロになる前からメディアの道に進もうと思っていた」

現役プロサッカー選手をやめたのは2000年です。所属していた川崎フロンターレがJ2に落ちたシーズンで、そこからメディアの道に進みましたが、選手になる前からその道に進もうと考えていました。つまり引退後に進路を決めたわけではなく、現役生活を始める前からそう決めていたんです。

 

ただ、サッカー選手になる前は普通に会社に就職するという選択肢も考えたことがありました。20歳だった同志社大学2年生の時に、卒業後の進路をある程度決めなければいけない時期があったのです。

ちょうどその頃にJリーグが発足すると発表されました。僕は1992年に大学を卒業しましたが、1993年にJリーグが立ち上がり、地元に名古屋グランパスエイト(現名古屋グランパス)ができて参加することが決まり、そこでプレーしたいという気持ちが生まれていたのです。

 

でも一方で、サッカー選手になるのを諦めようとも考えてもました。アンダーカテゴリーの日本代表に一度も入っていないし、ユニバーシアード代表にも入ってなかった。

なので、プロサッカー選手としてやっていけるだけの実力があるのか、自分でもわかっていなかったのです。そういったこともあり、「サッカーはもう辞めたほうがいいかな」とも思っていました。

両親からのアドバイス

実家に帰ったとき母に「大学卒業したらどうするの?」と聞かれて、「たぶん商社か広告代理店に入る。中学のときアメリカに住んでいたから多少英語も話せるし、英語をブラッシュアップして、海外と仕事できるようなところがいいかな」と話していたんです。

そうしたら、その話を母から聞いて父から手紙が来たんです。「せっかくここまでサッカーをやってきて、ある程度の実力もあるわけだから、プロになるのを諦めるのはもったいないんじゃないか」と。

 

それで自分も思い直して、「ちょうど卒業したタイミングでJリーグができるのだから、そこまで全力でやってみて、ダメだったら仕方ない。その後の事はそれから考えればいい。だからJリーガーを目指そう」と大学2年生の冬に決めたんです。

「やれることは全部やってみよう」と。大学生なんでもちろん学業が本分なんですけど、サッカーも2年間一生懸命取り組んで、なんとかプロサッカー選手になれました。ただなれたんですが、いつクビになるかわからないし、いつ自分のサッカー人生が終わるか分からなかったんです。

 

そうしたら、また父に「プロになれたけど、辞めたときのことまで考えたほうがいいんじゃないか」とアドバイスをもらいました。「始める時から出口戦略まで考えて」ということだと思うんです。

それで辞めたらどうするか思いを巡らせたときに、やっぱりサッカーに関わる仕事がしたいと思ったんです。自分が得意なのは話すことだったし、教えることも好きなので、その2つを両立するにはどうすればいいだろうと考えていました。

中西哲生さん「現役を終えたあとの準備をしながら生きてた」

そこからは現役のプロサッカー選手をしながら、サッカーをメディアで伝えるための準備を始めました。グランパスで5年、フロンターレで4年、合計9年間の現役生活があったんですが、そのほとんどの時間を現役を終えたあとの準備を意識しながら生きていました。

特に川崎に来てからは強く意識していて、最後の3年は様々な準備をしていました。というのも、当時の僕には時間がありました。午前中は練習しますが、午後はないか、あっても週に1回か2回、遠征のときのホテルでも空き時間はあるのです。

 

その空いた時間に本を読んだり、ブログを書いてました。あの頃、つまり98年頃はブログを書いてる選手は、Jリーグ全体を見渡しても5人もいませんでした。しかも内容はチームのサイト、つまりフロンターレのオフィシャルサイトで試合のことを書いてたんです。

「今日のゲームプランはこうで結果こうなった」ということを書いていて、今なら完全にNGな内容でした(笑)。それを、今で言うモバイルみたいなことで当時からやってました。

試合からの帰りの新幹線の中で原稿書いて、モバイル端末を使って携帯電話で9600bpsで原稿を送っていたんです。チームメイトはみんな不思議がってました。そんなことをやっているサッカー選手は誰もいなかったので、「何やってるんですか?」って(笑)。

有名じゃない自分が勝負をするためにやったこと

自分は有名な選手じゃなかったし、日本代表でもなかった。その自分が勝負していくためには論理的な解説が必要だということは分かっていました。それも父から言われてたんです。

父はプロ野球の中継を見ながら、ピッチャーの配球についていつも解説してくれていたんです。でもテレビのプロ野球の解説者は「今のは素晴らしかったですね」とか、そういった話しかしません。父はいつも「これは解説ではなくて感想だ」と言っていたんです。

 

ただ同じことを言っても、現役時代すごかった選手であれば、もちろんその話には説得力があります。僕はすごい選手ではなかったから、そういう訳にはいかない。ラモス瑠偉さんや木村和司さんが「すごいですね」と言えば説得力はあるけれども、僕はそうじゃないんです。

木村和司、初のオンライン取材 「もう一回監督をやらないけん」

 

そこで「すごい」ということが伝わる方法は何なのか、意識し始めました。その時、論理的に話すために1番重要なのは書くことだと教わったんです。それを教えてくれたのは、雑誌「Number」の編集部の方と、幻冬舎の専務取締役の舘野晴彦さんです。

僕は現役時代に幻冬舎から「魂の叫び―J2聖戦記」という本を出版させて頂きました。そのとき舘野さんに「とにかく書かないと話にならない。書かなきゃダメだ」と言われたんです。

 

本を出す段階で将来この仕事をしたいというのを伝えてあったので、そのためには何が必要かということもいろいろ教えてもらいました。そして舘野さんは僕に会うたびに、毎回15冊の本を課題図書として持ってきてくれたんです。

他の出版社の本だったんで、おそらく自分で買って持ってきてくれていたんだと思います。そして今もやらせて頂いていますが、まだ現役だった2000年7月15日から「Webマガジン幻冬舎」で「買い物ワールドカップ」という連載を始めさせて頂きました。

 

現役を終えたあとの準備をしながら生きてた

中西哲生さん「サッカーを知らない人にサッカーを伝える」

その当時、幻冬舎は唐沢寿明さんと山口智子さんの「ふたり」や、郷ひろみさん、五木寛之さん、村上龍さんのミリオンセラーの本を何冊も出していました。舘野さんは、そういった方々を順番に僕に会わせてくれたんです。

唐沢さんと山口さん、そして友人の岸谷五朗さんには、舞台前など一緒にトレーニングをさせてもらっていました。村上龍さんとも何度も食事させてもらっていましたし、今考えたら、とんでもないことをさせてもらっていました。

 

その当時はよく周りの方々に、「お前のことなんてサッカー界以外のひとは知らないんだから、お前という人間を好きになってもらわない限りは未来はない」と言われていたんです。

「現役のときはプロサッカー選手だから寄ってくる人がほとんどだけど、辞めたら誰も寄ってこないぞ」とも言われてましたし、また「ちやほやされて、そこで満足してるようじゃ話にならない。お前が引退後にやらなければいけないことは、誰もサッカーのことを知らないところで、サッカーの事を分かりやすく伝えること。そのときにお前のパーソナリティーが認められてない限り、お前の話は誰も聞かない」とも言われていました。

 

本当に厳しい言葉なんですが、僕の人生において絶対に必要な言葉でした。1人の人間として信頼してもらえる、興味を持ってもらえるということが、いかに重要かを学びました。

実際すごい方々に会うと分かるんですが、みんな全く偉ぶってもいないし、本当にその場にいる方を楽しませようとサービス精神も旺盛です。逆にこちらが楽しませてもらっている状況だったので、「こういう人たちみたいにならなきゃダメなんだ」と毎回しみじみ感じていました。

 

こういったことに気づき、それを行動に移し始めると、「サッカー好きじゃないけど、お前が出ている試合を見るのは面白そうだから見に行くよ」と言われることも増えてきたんです。こういったことを現役時代に感じられたのは、とてつもなく大きかったです。

中西哲生さん「一流の人に会わないと一流にならない」

ありとあらゆる人に会って色々なことを学び、そして大切なことを頂いていました。それをしっかり受け止めながら、現役時代から自分はどうあるべきか、と深く考えさせられました。

それが今の僕が存在している理由です。それを考えると、引退までの時間がいかに重要であったか気づかされます。また交友関係は、意図的にサッカー界とは違うところと意識していました。サッカー界の人たちだけに会っていても、自分の成長はないと考えていたんです。また一流の人に会わないと一流にはなれない、とも思っていました。一流の人に会って、そこから何を学べるのか。それが大切だとも考えていました。

 

昔から、普通に生きてたら普通の人間にしかならない。いかに厳しい局面、ストレスがかかる状況に身を置けるかも重要視していました。現役のときは練習が終わった後に、自分にストレスがかかること、例えば本を読むとか、英会話の勉強をするとか、必ずやっていました。

現役のサッカー選手のうちにそういう準備をしておけば、リスタートを切るときに明らかな差をつけられます。なぜ、そういった考えになったのか。それはサッカーに関しても、同じ考えを持ってやっていたからです。

 

自分は技術が高いわけでもないし、得点を取る選手でもなかった。だからピッチに立つまでに、いかに相手との差を詰めておけるか。何もしないままピッチに立ったら、相手に差をつけられてしまう。

そこをピッチに立つまでに、どこまで詰められるかと考えていました。サッカーで詰められない差は他のところで詰めるしかない。筋力トレーニングや食事や睡眠、ひとより何倍も気をつかって現役時代は生活していました。

引退後も変わらない考え

それと同じように引退した後、メディアで働くことを考えた時、そちらの方々と事前に価値観が合わせておくことが大切だと考え、準備をしていました。

つまり「一般の方々の価値観の中で、自分がどれだけサッカーの魅力を伝えられるのか」にフォーカスしたのです。

 

もう「人生は100年」の時代ですから、一つの仕事だけで人生を終えるひとは少ないでしょう。どこかで必ず今の仕事と次の仕事、つまり「のりしろ」の部分が生まれます。

僕だったら引退した直後のところですが、そこを先に準備しておいて「のりしろ」なくさないと、その後の仕事はキツくなる、そればかりずっと考えていました。

 

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中西哲生さん「批判ではなくて提言として話す」

ある時期から90分間の試合の解説は辞めました。自分はそういう仕事ではなく、新しいサッカーの場所をつくるというのが役割だと感じたからです。そしてもし自分がその場所を確保できて、誰か代わりの人がいれば、僕はまた新しい場所をつくるべきだと考えていました。

格好付けて言うと、サッカーをやっていた人が働く場所を1つでも多くつくることが、自分がやるべき仕事です。社会の中でサッカーやスポーツって、新聞の一般紙でいうと40面の中で3面あればいいほうです。その3面しかないスポーツがどうやって社会的地位を向上していくかを考えると、もっとたくさんのところでサッカーやスポーツの話ができる場所を確保することが重要だと思います。

 

そういったところでサッカーの話をしていくと、どうしても批判的なことを話さなければいけない局面もあります。そんなときは単なる「批判」ではなくて「提言」として話すことを意識してます。自分が「提言」を用意した上での「批判」ですね。

「試合に負けたから森保一監督は辞めろ」とか、「五輪代表もフル代表をもどっちつかずになっているからどっちかに専念しろ」ではなく、どうやったらうまくいくのかという方法論を示すことです。

 

また「サンデーモーニング」のような番組だと、自分が何を話すべきかというのを、まさにサッカーと同じように考えなければなりません。僕は決してストライカーではありませんし、ゴールキーパーでもありませんから。

中西哲生さん「完璧だと思ったことは一度もない」

要するに自分は爪痕を残すタイプのコメンテーターではないので、その中で現役時代と同じようなことをやろうといつもしています。

相手のパスコース消したり、味方の選手がボールを取れるようにコースを限定したり、ボールを取ったら自分がいいパスを出そうとするんではなく、ボールを持って活躍できる選手をパスを出すとか。

 

自分がいいプレーをするというよりは、いいプレーのできる人たちに対してどんなサポートができるかということを攻守両面で考えていました。なので、素晴らしいコメントをするわけではありませんが、その時に必要なコメントは何なんだろう、ということをいつも考えながら話しています。

でも終わった後に反省しかなくて、完璧だと思ったことは一度もありません。ただ自分が言葉を発するときに気をつけているのは、「決して他人ごとにならない」ということです。

また聞いている人たちがポジティブに物事を考えられるようになったり、自分の人生が少し変わっていくようになる、「そういった見方もあるんだ」という気持ちを持ってもらえればと思っています。

 

溜飲を下げない

中西哲生さん「溜飲を下げない」

サッカー選手をやっている時は、一生懸命やることは当たり前でした。どんなことがあっても最後まで諦めないのも当たり前のことでした。けれど、当たり前のことがちゃんとできないと人の心は動かないんです。

 

僕がやっていたのはカバーが100回必要だったらちゃんと100回行くというプレーでした。1回でも行かなくて、それが失点に繋がったら後悔しかないわけです。

それは今やってることと変わってないし、今もやってることはサッカー選手の時と同じだと思います。 両親のアドバイスのバランスにも助けられました。父は自分に提言を与えてくれるタイプだったし、母は後押ししてくれるタイプでした。両親には本当に感謝しています。母は僕に会うと必ず「謙虚に生きなさい」しか言わないですね。今でも。

 

この1月で現在の仕事を始めて20年目です。でも「20年やってよかったな、がんばったな」と満足したらその瞬間に終わるんで、いつも謙虚でいなきゃと思うんです。

そんな時に母からまた「謙虚に」と言われて、自分で「謙虚よりも謙虚な言葉って何だろう」と考えたとき「溜飲を下げない」という言葉が頭に思い浮かびました。 満足するために生きてるわけじゃないし、自分の欲を満たすために生きてる訳じゃないですから。

人生100年時代のこれから

「人生100年」だとしたら今50歳なので、あと残りの人生が50年はあるらしいです(笑)。そう考えたとき、あと50年自分が生きていくための設計図を考えなきゃいけない。

20歳のときは父親がいろいろ言ってくれたので自分のここまでの設計図を描けました。31歳で引退して予想以上にやってこられましたけど、今、溜飲を下げるんじゃなくて、さらにここからどうしていくかを考えなきゃいけない。

 

今までよりもさらに1ランク、2ランク上げていかないと、世の中に貢献できるような仕事はできません。立ち止まらず、さらに「シンカ」させる。僕の場合は「進化」と「深化」の両方が重要だと考えています。

今、自分がやりたいことは、「積み上げてきたサッカーの技術的なメソッドをどうやって日本中に伝えるか」ということです。それを全国の子供たちに伝えたくて、どうやったらうまく伝わるかを日々、試行錯誤しています。 

中西哲生さん「自分で自分のリミッターを切る」

もちろんサッカー以外の仕事もやっていかなければならないし、自分もやるべきだと思います。しかし、日本サッカーがさらに進化していくためには、ここからが本当に重要な局面です。

この9年間、長友佑都選手から始まって永里優季選手、久保建英選手など、様々なサッカー選手のパーソナルコーチをやらせて頂きました。久保選手がレアル・マドリーに行ってくれたおかげで、日本人が必要な技術、18歳までにやらなければならないこと、色々なことが分かりました。

 

彼はまだ高校3年生であるにも拘わらずスペインリーグ1部の試合にスタメン出場し、現地のメディアにもインパクトを与えています。その久保選手に伝えてきたこと、彼から学んだことを伝えることが僕のミッションです。

またレアルの下部組織に所属する高校1年生、中井卓大選手のコーチもやらせて頂いていますが、ピピ(中井選手)もたくさんの子供たちの憧れの的になりつつある。そういった選手たちがどうしてああなったのかということを、子供たちやその親御さんに説明する必要があるのです。

 

まず、もし「なりたい」と願うなら、「自分はできる」と信じることです。自分で自分のリミッターを切る。「『やりたいこと』を『できる』に変える」ためには、自分で自分のやる気を削がないことです。

自分でやりたいと思ったのなら、まず自分で自分のリミッターを切れる人間にならないといけない。しっかりと準備をしてる人は、リミッターを切れないわけがない。そうじゃないということは、準備ができてないということです。どんなに準備しても自信がないということは、その準備の方法が間違っているということです。

不安は悪いことじゃない

ただ不安は悪いとは思ってなくて。自分が常に不安だというところに身を置くようにしています。溜飲を下げて安息の地にいたら自分は「シンカ」しないのです。不安で不安定で、常にストレスがかかっている状態にしようと考えています。

同時に何かしようと決めたのであれば、それに対しての準備をしっかりするため、自分で自分なりにリミッターを切ります。「自分にできるかな?」と思った瞬間にできなくなると思うんで。

 

僕は日本がワールドカップに優勝できると思って生きていて、優勝できる方法を探す人生を歩んでいます。できない言い訳を探すんじゃなくて。そのためには準備をしっかりすることと、リミッターを切ることだと思っています。

磨いてきたものは生きるし、しかも磨き続けてるものは曇らない。ただ少しでも磨くのをやめると曇るし、磨き続けないと自分自身も技術も曇る。そうなると自分自身がやろうとしていることに対して自信を持てない。磨き続けることの重要さを、パーソナルコーチとして接した選手たちから学びました。

 

新しいトレーニングメニューを考えると、そのメニューに対してとてつもない回数の努力を彼らは重ねてきます。1回やることを10回、10回やることを100回、1000回と当たり前のようにやってくる選手たちなんです。

その単純作業を何回も続けるというのは、地味だし根気がいります。そんなメンタリティとは何か、どういう人が成功するのか、そして成功するためのメソッドとはどういうものなのか。

技術的なメソッドは、長友選手や久保選手が成功してくれたおかげで、これだと言いきれるものができました。それをこれからたくさんの世の中の人たちに、丁寧に伝えていきたいです。 

 

自分で自分のリミッターを切る

(撮影:浦正弘)

 

 

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柿谷曜一朗(セレッソ大阪)「ミスは誰にでもあるしミスをしてはいけない人はいない」

ミスは誰にでもあるしミスをしてはいけない人はいない

日本代表で初出場した選手がミスをして失点した。ハーフタイムにベンチから飛び出した柿谷曜一朗は一目散にその選手に駆け寄り声をかけた。

 

日本代表で初出場した別の選手がパスをミスした。味方はその後10分以上パスを回さない。すると途中出場した柿谷は無理矢理その選手のサイドにボールを動かしパスを出した。

ヤンチャな面が目立つ柿谷だが、その実、人の心を繊細に読む。そんな「さくら」色のチームのエースに、過去の自分を振り返り、現在の夢を語ってもらった。

柿谷曜一朗が語る代表戦

慰めに行ったとか、パスを出したとか、ちゃんとは覚えてないですけどね(笑)。でも今でもそういうシーンがあれば、そういうことやりたい気持ちがありますね。いつも「もし自分自身が反対の立場ならば」という気持ちはあるんで。

もちろん、そういう落ち込んでいる人を蹴落としてでも残っていかなければいけないのが代表チームやから、いろいろ意見があると思うんですよ。「いや、そんなヤツは放っておけ」と言う人もおるやろうし。別に自分が優しいからとか、そういう気持ちは全然なくて。自分も、代表とかじゃなくても、セレッソ大阪に入ってから、ミスしたあと誰にも声かけられなくて辛かったとか、やっぱりあるし。

 

ま、代表チームのチームメイトですから、他に何も考えずにやったと思いますけど。もし逆の立場、もし自分がそうやったら誰かに声かけてもらいたいなぁっていうのがあるから。誰しもそうじゃないかもしれないですけど。あのときは、見るからにアイツのミスで、っていうのがあったから。特に代表でね、初めて出て、みんな見てるところで。

しかも失点になったときの選手って、急に代表に入ったじゃないですか。みんなが「どういうもんやねん」っていうのもあるし、アイツの中でも「オレは代表で出来るのかな」っていろいろあったと思うし。

 

でも、そんなん関係ないしね。別にミスろうが、あそこで吉田麻也がミスるのと何が違うのかって。ミスは誰にでもあるし、ミスしてはいけない人間というのはいないと思うから。それはセレッソ大阪でも一緒ですけどね。

才能があるからこそ失敗できないプレッシャー

僕は「天才キャラ」みたいに言われることもありますけど、逆に、だからこそ「失敗できない」っていうプレッシャーも自分の中であったり。うまくいってないときに、自分でこう……立ち直れない部分というのがあるんですね。

そういうときに人の力であったり、仲間の声であったり、信頼できる人のアドバイスだったりというのが、やっぱりすごく大事で。サッカーって個人スポーツじゃないし。別に自分がいつも声かけるよ、っていうわけじゃなくて、チームの中でそういうことを気にかける選手が1人いてもいいかなと思うし。

 

もちろん人に言う前に自分がやらないといけないけど、そんな漫画みたいな話ってなかなか難しいので。やっぱり自分も助けてもらわなあかんから、味方にも優しくしたいし。もちろん、ただ優しくするだけじゃないけど。

 

16歳でセレッソ大阪とプロ契約

16歳でセレッソ大阪とプロ契約

16歳でセレッソ大阪とプロ契約して、今やったら若い子らがたくさん出てきてるからあんまり騒がれないかもしれないけど、あの当時は森本貴幸さんがいたけど、クラブでは僕ぐらいしかいなくて。もちろん注目はありましたけど、注目されるためにサッカーやってる部分もあったし。ただそれが僕の場合は、その……簡単に言えば調子に乗ってたというか。それまで失敗というのがなかったから。

 

それがプロに入って、自分1人の力でチームを勝たすというのは、正直、ほぼほぼ無理で。リオネル・メッシもルイス・スアレスがおるからあれだけ輝けるし、パスを出す選手がおるから輝けるし。

やっぱり1人だけじゃどうしてもサッカーできないんやけど、そういうことがまったくわからずにプロになったんで。当時はホンマに、自分さえボールを握っていればいいやろっていうプレーヤーで。それに尽きますね。

 

そういうの捨てないとチームとして1年間戦えないというのがあったんですよ。そうじゃないとチームで助け合うことは出来ないし。2009年に徳島へ期限付き移籍で行ったときもそういうのがわかって。もちろん、その中で自分が輝きたいというのは捨てないですけど。

柿谷曜一朗を救った人物

だから1回セレッソ大阪でプロになって徳島に行くまでの4年間にすごいこう……ただ自分が悪いんですけど、そういう人間に……なんと言うんやろ……人間に対する言葉のかけ方って……僕がこう声をかけてほしかったという気持ちってあるじゃないですか。

そんときの気持ちがあるから、たぶん今の若い選手にもそうやし、人に対して「こう思ってるん違うかな」って思って言葉をかけたいというか。もちろんそれが全然違うこともあると思いますけど。

 

サッカー選手って、やっぱり気にするんですよ。1個のミスとかでハマったりするじゃないですか。で、僕も無茶苦茶そのタイプで。それを救ってくれてたのが、今、J2の鹿児島にいる酒本憲幸選手。

 

セレッソって大阪のチームなんで、人のミスをマジに捉えないというか、全部それで笑かしに来るというか。それがすごい、僕、楽で。自分としては「やばい、これは絶望的なミスや」って思ってるとこを、うーん、例えるの難しいですけど……冗談みたいな感じで「お前みたいなうまいヤツでもミスすんねんな、おい」とか。

 

セレッソ大阪の話をしてくれる柿谷選手

 

それがマジな感じじゃなくて。「それやったらオレのほうがあそこでボールもらうの、うまいわ」とかっていう。真剣な口調じゃなくて。で、そういうのが僕にはすごい効いて。でもそれは嫌みじゃなくて、「お前、期待してるから」というか、そういう気持ちで言われてて。「別にミスったって誰もお前を責めへんから、そのかわり次はミスらんようにやれ」っていう、リラックスしてやればできるんやからっていう意味もあったと思うんですよ。

 

僕も今、いつもそういうつもりで周りに言ってて。うーん、そういうところは、このチームで、というか、サケさん(酒本選手)にはホンマに教えられたとこで。そういう人間性の人に出会って「あ、失敗してもいいんや」っていう。とりあえず気にしすぎでしたね。周りからの見られ方というか。自分がその……「アイツはすごい」って、別にプロで何もしてないのに、16歳でプロになったからすごいっていう自分の思い込みと周りの期待に、まったく合ってなくて。

 

まぁチヤホヤというか、そういう状態のまま「周りのこととかチームのこととか、人のことを何も考えず」という感じやったから。もうそれはそれでいいと思うんですけど、何というか、ちょっと厳しいことを言われたらすぐ逃げたり。「なんでわかってくれへんねん」という。それで逃げる。それに対して自分の意見をもう1回言って、相手の意見を飲み込んでから自分の意見を言ってれば、もうちょっと変わったんじゃないかなって思うんですよ。

僕にとっては助かる言葉だった

その当時は遅刻とか結構してたんです。遅刻癖というか。それは社会人としてはありえないじゃないですか、普通で考えたら。でも、それを、それこそサケさんとかは、「お前、気ぃ失ってたんちゃうか? そら間に合わんやろ。そら無理やわ。監督に言ってこい」って。「目覚まし鳴ったけど気付かんかった」ってよう言うじゃないですか。

でも「気付かんかったんじゃなくて、お前は気を失ってるから練習に間に合わん。だから契約書に書いてこい。10回まではセーフって」とかいう感じで言ってくれてて。

 

「遅刻してもうたから周りにどう思われてるやろ」みたいなのがすごく軽くなったんですよ。遅刻ってホンマはよくないというか、あり得ないじゃないですか。でもオレ、そういうの効いて。「やばい、遅刻してもうた」って思ってて、そこで直さなあかんのですよ。もちろん重く思わないといけないし、サケさんが言ってることは絶対正解じゃないと思うんですけど、僕にとってはすごい助かって。

 

でもサケさんも「遅刻していいよ」って言ってるわけじゃなくて、そのときにいつも「次やったらもう知らんで」って、ちゃんと厳しい感じもあるし。そのバランスというのはサケさんだけじゃなくて、そのときに一緒にいた先輩っていうのは見てくれてたから。

 

ただね、当時は正直全然気にしなかったし。やっぱりプレーのところ、つながるって言いがちじゃないですか。「遅刻してるからプレーが良くない」とか「だらけてるからプレーが良くない」とか「気持ちが入ってない」とか。

 

そういうのって関係あると思いがちですけど、自分の中では全然なくて。試合の3時間前から準備して試合に出るのと、10分前まで寝てて試合に出るのと、やっぱり聞こえは「3時間前から準備したからこういうプレーが出来るよね」ってあると思うんですけど、自分の中じゃ全然関係ないんですよ。

柿谷曜一朗「今はお手本にならんといかん」

別にギリギリまで寝てようが、きっちりやればその前のことなんて関係ない。試合でやったことのほうが美談になるんやから。っていう考えなんですよ。でも、今はお手本にならんといかんから、やっぱり10分前まで寝てたとは言われへんし、昔はそういう選手がいたといいますもんね。ブラジル人なんてそんな感じの選手いましたから。

 

苦しかったときの話

柿谷曜一朗「ここ2,3年は苦しかった」 

自分にとって苦しかった頃って……今苦しいですけどね。ここ2年、3年はちょっと。移籍の話とか監督との話とか出たけど、自分は何でセレッソ大阪でサッカーやってるんやろって考えたり、そんなん考えたことなかったのに。ただ好きやからここで優勝したいとか、純粋にその気持ちだけやったのが、やっぱりいろいろ自分でも欲があって。

 

「このチームをまとめ上げたい」だったり「もっといいチームにしたい」とか「もっとこうしたい」と思うけど、思うだけやっぱり選手の間って実行はできへんし。それがプレーで結果を出してるから言えるのかっていうとそれも違うと思うし。

チームメイトの移籍

そういうのがある中で、去年、(山口)蛍とか(杉本)健勇がいなくなって、自分が信用してた仲間が、次のステップ、違うクラブに挑戦しに行って、なんかこう寂しさじゃないけど。

セレッソ大阪としては若い時というか20代前半で抱いてた夢というのが遠のいてるんじゃないかなというのがあって。そういうところの自分への葛藤というのがすごいある中で、もうホンマに苦しい時期はあったんです。

西澤明訓さんに助けられた

けど、それこそサケさんとか、アキ(西澤明訓)さんには本当に助けられてて。アキさんって、あの人だけが僕を甘やかさないんですよ。僕、甘やかしてくれる人が好きなんで、珍しいというか。

 

でもアキさんの言うことだけ、「刺さる」と言ったらちょっと違うけど、なんやろ、たぶん、宗教みたいなところがあるんですよ。自分にとっての人生というか。この人が言ってることは間違いないなって思えるというか。逆らわれへんというか。

もちろんプレーに関することを褒めてはくれますけど、厳しいこと言われることが多いし。

 

人のことを怖いって思わない


僕って基本的に人のことを怖いって思わないんですよ。年上の人であろうが。「この人にこういうこと言ったら気を遣うかな」ってあるじゃないですか。もちろんあるんですけど、あんまりそういうことは思わないんですよ。

誰にでもフラットに懐に入り込みたいんで。それがときには失礼に当たることも多々あったんです。それでもやっぱり自分はそういうタイプというか。年齢に関係なく冗談を言い合えるっていう関係になりたいと思ってるんです。でもアキさんにはいっつも一線を引いてるというか。

 

「お前のプレーに関しては正直何も言うことがない。でもお前、男としての部分、生き方とかそれでいいんか?」って。「ダサいことはするな」っていう、そういう感じで言われたんが今まで無かったし。

アキさんに言われて「確かにオレが今言ってることはダサかった」って思うことってメッチャあって。だから「あ、そうですよね」ってなることがよくあるんですよね。

困ったときに頼る人

なんかホンマに最後困ったときにはいつもアキさんに頼ってるんで。最初らへんでちょっと困ってるときはサケさんに電話して、ふざけて返されてちょっと気が楽になって、1回頑張って。でも、それでも無理なときはアキさんに、っていうのはありますね。

僕、ハマ(濱田武)ちゃんとかもそうですけど、そういう先輩がおらんかったら絶対サッカーやってないし。ホンマに、絶対やってないと思います。

 

徳島ヴォルティスのときも倉貫(一毅)さんとか三木(隆司)さんとか羽地(登志晃)さんとか、僕が20歳ぐらいで30歳ぐらいかな、あの人たちがいなかったらどうなってたやろうって思いますね。

……いなかったら何してたやろ。感謝するところとか尊敬するところは1人ずつ違いますけど、でも1人ひとりすごい勉強になる人が多かったから。スタッフもそうですし。そういった人たちがいなかったら、自分は今サッカーやってなかったやろうなぁって思いますね。

 

やってたとしても、もっと別のカテゴリーやったかもしれないし。いつも思いますね。 あのころは自分1人で生きていけると思ってたから。やっぱり絶対無理やし、人に助けてもらわないと生きていけないというか、それをめちゃくちゃ感じてるんで。

 

チャンピオンズリーグに出るべきや

柿谷曜一朗が語る海外への移籍

2013年の東アジア選手権(現・E-1選手権)で活躍して、2014年ブラジルワールドカップに行って。あそこは苦しかったというか、2014年にセレッソ大阪がJ2に落ちたじゃないですか。

あのときって、2014年にディエゴ・フォルランが来て、異常やったんですよ、フォルランの人気というか。何も変わってないつもりやったんですけど、やっぱり監督も代わったし。

 

僕の正直な意見やけど、フォルランが悪いとかクラブが悪いじゃなくて、フォルランが来たらもう絶対フォルランは試合に出るじゃないですか。セレッソ大阪ってそういうチームじゃないと思ってたんです。

キヨ(清武弘嗣)、香川(真司)、乾(貴士)がおるから、そこらが中心で、そこにもう1人外国籍選手がいてっていうイメージやったんですよ。

 

でもフォルランがいて、もう確立されてる選手で、それに誰がどう合わせるかっていうチームになったんです。そこにはすごい違和感があって。当時のランコ・ポポビッチ監督もすごい頭が痛かったと思うんです。

チャンピオンズリーグに出れるクラブを選んだ

で、そういうのとワールドカップが重なって、海外でやってみたいというのがあって。それに自分が思ってるセレッソ大阪の歩み方というか、見てきたセレッソ大阪じゃないなと思って。で、チャンピオンズリーグに出たいって。それもアキさんが言ってくれて。「やっぱりチャンピオンズリーグに出るべきや」って。

 

話は移籍したバーゼル以外にもう2チームぐらいあったんですけど、そっちはチャンピオンズリーグに出てなかったんで。金額的にもそっちのほうがよかったんですけど、バーゼルにして。

でもどうしても日本のモヤモヤを持ったままバーゼルに行ってたんですよ。すっきりして行ってないんです。言い訳ですけどね。実際うまくいかなかったし。でも向こうの環境に馴染めてきたころにケガもして。

柿谷曜一朗がセレッソ大阪に戻った理由

それでいろいろあったんですけど、J2から上がれないセレッソ大阪を見て、まだこのモヤモヤがあるなら、その気持ちがあるうちに戻ろう、やっぱり自分は帰ろうって。

セレッソ大阪ってこういうクラブやで、っていう先頭に立とうって。 そう思って帰ってきたんですけど、3カ月でまたケガして。しかも初めて手術するような大きなケガして。すごい苦しかったんです。

 

そうした後の、2017年にJ1に上がってからの2年間ですかね、いろいろあった中で、試合にコンスタントに出続けられない状態がずっと続いているから。それが今一番苦しいところです。

 

途中交代されて満足する選手はおらんと思うし、嘘でもいいから監督と握手してニコニコして、とかみんな言うけど、オレはそういうのがめちゃくちゃ嫌いで。「だって嘘やん!」ってなるし、「誰を気にしてプレーしてんの?」って。 自分がいいプレーしてると思ってるのに交代させられて、「なんで『ありがとう』って言わなあかんの?」っていう気持ちがもちろんあるんですよ。

 

これって普通に考えたら、「サブで準備してくれてる選手もおるし、監督が決めることやのに、独りよがりの自分のワガママじゃないの?」って言われることですよね。

だったら交代させられないように結果を出すしかないなって思ってたんです。で、結果を出すことだけ考えてやってたら、それでも交代させられて辛いと。求められてるところがそこじゃなかったのかなってのがあったし、いろいろ難しい部分が正直あったんですけど……。

セレッソ大阪で優勝したい

やっぱりセレッソ大阪というか、チームメイト、仲間と今まで信頼してきたやつらとリーグで絶対優勝したいから、その思いだけでやってきたんです。

クラブがあっての選手で、別にオレたちが口出すところじゃないのがいろいろあると思うけど、やっぱり違和感があったところに、関係ないところに気持ちを持っていってた部分があって、すごい苦しくて。誰にも言われへんし、言っても伝わらへんし。

 

だから…………すごい……この何年ですかね。今、乗り越えようとしている途中なんで。

 

輝いている姿を娘に見せたい

柿谷曜一朗「輝いている姿を娘に見せたい」

そうしたら、これからもう1回苦しいのを乗り越えようというこのタイミングで、娘がもうだいぶ大きくなってきて1歳になって。ラグビー見てても「パパ」って言うんですよ。緑のピッチが出てきたら全部「パパ」って言って、めっちゃかわいくて。これもうヤバいじゃないですか、サッカーやってるのすぐわかるようになる。

 

そうなったらね、これはオレの勝手ですけど、途中から出てきてるとか途中で交代するとか、そんな姿じゃなくてピッチで90分間輝いてる姿を見せたいから。これから時間はないなって、自分の中でプレッシャーをかけて。

 

まぁ日本代表のことは一旦横に置いて、チームで、チームでというか、まずもう1回自分という存在を、もちろん娘だけじゃなくて、今の若い子らも含め、サッカーを楽しそうにやってる姿を見せたいという気持ちがずっとあって。

一生懸命やってる姿とか走ってる姿とかは当たり前でしょ。でもそれだけじゃオレじゃないから。

話題になるようなプレーが理想

この前サッカースクールに行ったときに子どもたちに質問されたんですよ。「どういうプレーが好きですか?」って。で、言ったのが「別にプレーというよりは、試合が終わって、見に来てくれた人たちが帰り道で1個でも『柿谷のあのプレーってなんやったんや?!』って、僕の名前を話題にしてくれたらいい。話題になるようなプレーがしたい。それが自分の理想やな」って。

 

そういうプレーが1つでも2つでもあれば僕は幸せや、っていう話をしたんですよ。子供たちにどう伝わったかわからんけど、僕って子供のころからそうなんですよ。「すげぇ!」って言われたい。

現実的にそういうプレーを披露するには、そういうプレーだけやっててもダメじゃないですか。それをわかってるんですけど、どうしてもそっちに、自分の自信と可能性に頼りがち。

 

でも、もう僕はそういうサッカー人生を歩んできたから、別に誰かに否定されても変わることなく、まっすぐ進むだけかなと思うんで。まぁオレのことはめっちゃ好きか、メッチャ嫌いかじゃないですか(笑)。そういう人生やと思います。

 

柿谷曜一朗の「やりたいこと」

 

柿谷曜一朗の「やりたいこと」

今やりたいことですか……うーん……何でもいいんですか? やりたいこと……なんやろ……うーん……サッカーはもうやってるし、やりたいというか……もちろんリーグでは優勝したいですけど……どうしよう? やりたいこと……。家買いたいですね。

 

マイホームを建てたい。そう思って今、お金を貯めてます(大笑い)。相場がわからないんですけど、大阪ってホンマに土地ないんですよ。自分が引退して何するってしたときに、引退をまず考えてないからあれですけど、欲しいのはでっかい一戸建てっすね。屋上にフットサルコートがあって、みたいな。だから稼がんといかんですよね。全然足りないですよね。

 

もっと頑張らんと。1点につきいくらかもらえるようにしてもらって、3年ぐらい20点ずつ取れば、1点10万円やとしても、600万円か……全然足りへんやん。なら1点100万円の契約にしたら……もうシュートしか打たないですよ(笑)。

 

柿谷曜一朗選手

(撮影:齊藤友也)

柿谷曜一朗(かきたに よういちろう)
1990年1月3日大阪府生まれ。C大阪(セレッソ大阪)下部組織出身のフォワード。高校2年生、16歳でプロ契約を結ぶ。2009年に徳島ヴォルティスに期限付き移籍。2012年にC大阪へ復帰し、その年にJリーグ優秀選手賞を受賞。2014年にスイス1部リーグのバーゼルへ移籍。2016年に古巣のC大阪へ復帰した。日本代表では国際Aマッチに18試合出場し、5得点をあげている。

 

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水沼貴史「監督業には覚悟が必要」現在は解説者として活躍中

監督業には覚悟が必要

 

あなたは過去の実績が認められ管理職になった

自分の上司はカリスマで数々の業績をあげている

そんな人物の下で若手を伸ばそうとしていたとき あなたは社長に呼び出された

社長はカリスマ上司が辞めると明かした

そしてあなたに部門全体を指揮しろと言う

次のビジネスチャンスまで時間がない 部署に戻ると部下は不安そうにあなたを見る

そんな経験をしたのが水沼貴史だ

コーチから監督になり、またコーチに戻るまで 水沼はどんな思いを抱いていたのか

そして今の「やりたいこと」は何か

水沼貴史(みずぬま たかし)
1960年5月28日埼玉県生まれ。 浦和南高校から法政大学に進学し、1979年、日本で開催されたワールドユース選手権(現U-20ワールドカップ)では日本で唯一のゴールを挙げた。1983年に日産自動車へ入団。1984年からは日本代表としても活躍して、1995年に現役引退。引退後は解説者として多数のテレビ番組に出演。指導者としても法政大学コーチ、横浜F・マリノスの監督、コーチなどを歴任した。

水沼貴史が半年間の監督生活を振り返る

僕の監督時代は短いんですよ。横浜F・マリノスで半年間、2006年に初めてJリーグのチームのコーチになったんですけど、その年の途中に監督になって、シーズンの終わりまでですから。自分の前は岡田武史監督ですね。岡田監督は2003年に就任してその年と翌年優勝して、2005年は9位でした。

僕は2005年に、Jリーグの監督を務めるのに必要なS級ライセンスを取りました。もともと取る気はなかったし現場に行く気もなかったんですけど。でも、現役を辞めてからテレビで試合の解説などの仕事をしてちょうど10年経ったときに、それまでである程度、キャリアを引退した後に何ができるかっていう道を作れたと思ったんですよ。

 

サッカーを知らない人たちに、Jリーグや選手とは何かを知ってもらう。それをメディアでどう伝えるかって、いろんなことをやってみましたが、10年で一区切りがついたかなと思ったんですね。そのとき、このままテレビの仕事を続けようという気持ち以外に、現場に戻ろうか、という考えの変化が自分の中で出てきたんです......。

 

現場に戻るなら、S級ライセンスは取りに行かなきゃいけない。それでテレビの仕事をしながら2004年から研修に行って、2005年に取れたんです。研修では国内と海外のクラブに行くんですが、国内はマリノス、海外は「バルセロナ」でした。

バルセロナで研修したエピソード

バルセロナは、知り合い経由で話をしてもらったんです。そうしたら受け入れてくれるということにはなったんですが、もちろん自分は相手からしたら全然知らない人間。だから、ロッカールームとか本当の中までは入れないんです。コーチとして入るのではないから見学みたいな感じですけどね。でも、トップ以外はピッチに入って見ていいって言われて。

 

そのころはホームスタジアムの「カンプ・ノウ」の隣に練習グラウンドがあって、そこでカンテラからトップまでトレーニングしていました。その練習をピッチレベルで見られたのはラッキーでしたね。多分今は難しいんじゃないですかね。練習場も変わったみたいだし。 研修は約2週間。毎朝練習場に行ってトップの練習を見て、午後になるとその練習場に小さい子から順番に来るんです。

 

当時はライカールト監督で、ロナウジーニョとかエトオとかデコとかプジョルがいましたね。イニエスタやシャビがまだ若くて、メッシは子どもでした。 メッシはからかわれている感じでした。ボール回しのときにメッシが中に入ってやられていたりとか、みんなでワーワーキャーキャーやっているところを間近で見てましたね。スゲェなぁって思いながら。

水沼貴史がバルセロナで感じた「いい選手」

そのときのバルサにもいろんな選手がいたんですけど、僕が1番「こういう選手がいい」と思ってたのは「ジュリ」です。うまい選手は見ていれば「うまい」ってわかるんです。でもジュリって他の選手と比べるとそんなにうまくない。ただフランスから来てバルサに入ったという事は、やっぱり何かを持っている。

 

ジュリの何が凄かったかと言うと「フリーになる」ところなんですよ簡単にフリーになって味方選手からのパスを受ける人がいるから、ポジショニングに「深み」とか「幅」ができるんです。そうするとバルサの選手たちのテクニックがいきてくる。それを見たかったんですよ。

 

ポゼッションは当然なんだけど、そのために何が必要かと言うと、いいポジショニングとか、スペースを作る、あるいは使うという部分なんです。それが出来ていれば、選手が先天的に持っているアイデアがいきてくる。

あとはコンビネーションが大事で、そういう阿吽(あうん)の呼吸にはトレーニングで培われる部分と感性が相まみえる部分があるんです。その相まみえる部分に脇役的な、ジュリみたいなプレーヤーがいると、深みと幅とかができるのを見たかったんですよね。だから、あのときのバルサに行けたのは本当に良かったですね。

 

S級ライセンスを取得した話を聞かせてくれた

S級ライセンスを取得

2005年にライセンスがおりました。当時は月曜から金曜までがS級ライセンスの研修で、土日が「スーパーサッカー」や解説の仕事、みたいな生活でしたね。S級を取るためにはどこかのチームを指導してないとダメだから、自分の出身である法政大学に教えに行ってました。

今もそうだけど、S級ライセンスを取るのは結構しんどいです。でも、そうやってライセンスを取るというのは、単に指導者になるためだけじゃなくて、人としての自分の幅とか深みとか、そういうのがサッカーを通じてできるかなぁって思いますね。

 

ライセンスを持っているからってすぐに「監督をしないか?」ってどこかから声がかかるかというと、僕にはそれまでの実績がないからなかなか来ないんですよ。法政を見ているといっても、2年ぐらいだったし。自分でも当然難しいだろうとは思ってました。

それから、やっぱり自分はマリノスに縁があったから、現場に戻るならマリノスからと思っていたし、マリノスに入ったとしたら長くいたいと思ってた。ある程度自分の中での計画は立てながら、声がかかったときに入ろうって。 そうしたら2006年に声をかけてもらったんです。ただ、当時のマリノスは中心選手も次第に年齢が上がってきていて、すごく難しいときだったと思います。それはわかっていました。

まずは若手を見たいと思った

でも、いい若手がいたんですよ。だから、まず若手を見たいと思ったんです。上にはチャンピオンになっている選手がいて、経験もあるし、自信も持っている。そこから代がわりというか、マリノスの強さを継承していくためには、若い選手が出て来なければいけない。まずはそんな若手を自分に見させてほしかった。

マリノスユースの指導者になるというのも「あり」だったんですけど、プロの若い選手に言えることがあるんじゃないかと思って。「サッカーで上に行きたい」と思っている選手に、上に行ければいいだけじゃなくて、考え方とかプロとしての自立みたいなところを自分の経験を踏まえて話してあげたいと。

 

マリノスの環境は凄いけど、そこに満足しちゃダメだし、その環境からもっと上のステージに行くんだとか、プロってどういう心構えでないといけないのかとか、たぶん若手がわかっていない厳しさとかを伝えたくて。 自分の現役のころとは時代が違うんですけど、やっぱり若い時に上の選手たちを追い抜くのを目標にするとか、そういう心構えでいないと上に行けないんですよ。代がわりのときにスムーズに入れ替わっていかない。それをすごく言いたかったから、若手と一緒にやってみたかった。

 

トップチームにはほとんど帯同せず、試合日もトップから漏れた「居残り」の選手たちのトレーニングを見てからスタジアムに行っていました。岡田さんは僕が指導の現場でそんなに長いキャリアを持っていないのを知っているから、「何をやるんだろう」と思って見ていたと思います。

 

岡田監督に代わり監督に

マリノス 岡田監督の退任

そのうちに、チームがだんだんうまくいかない感じになってきた。岡田さんのやろうとしてることがうまく伝わらなくて。最終的には岡田さんが8月のホーム大宮戦を最後に辞めるんです。12位に低迷してたし、まずい雰囲気だというのは感じてました。

それで1-2で大宮の試合が終わって、クラブハウスに帰ってみんなシャワーを浴びてたときに、岡田さんが社長から呼ばれたのは何となくわかって。 しばらくして僕が風呂に入っていると岡田さんが風呂場に来て「辞めることになった」って言ったんです。聞かされて「うわー辞めるのかー」って。ショックでしたね。

 

じゃあ次はどうなるのかって考えて風呂から出たら、今度は僕が社長に呼ばれて。 で、「岡田さんが辞めることになった」という話を聞いて、それから「やってもらえるか?」って。まさか次の監督が自分だとは全然思ってなかったですよ。でも言われたのが8月23日で、27日にはもう次の試合があったんです。 だから「ノー」って言えないですよね。次の監督が決まるまでなるべく間隔をあけないようにしないと選手たちが戸惑うから。

 

だから「はい、わかりました」ってその場で返事をして。そのときの肩書は「監督代行」で、しばらくして正式に監督になったと思うんですけど、いつ「代行」が取れたか自分でも覚えてないです。

水沼貴史が当時を振り返る

監督をやりたかったかと言えば、正直まだやりたくなかったですよ。若い選手をちゃんと3年ぐらい指導して、自分の中でも自信をつけながら、次のステップに行こうと思ってたんで、そこからすると早すぎたんです。チームに来て半年ですからね。

ただね、そこから何カ月かして気付いたんですよ。監督に就任したんだけど、コーチ時代と待遇とか年俸は変わってなかったんです。それは社長に突っ込みました。「おかしくないですか?」って(笑)。

 

僕が監督になったとき、選手は「この監督で勝てるのか?」って思ったんじゃないですかね。だって中心がマツ(松田直樹・故人)とかで、久保竜彦、奥大介(故人)、上野良治とか、そういう個性的な面々がいるわけです。

他には河合竜二が台頭してきてて。坂田大輔、山瀬功治もいて。山瀬はその年ずっとヘルニアでかわいそうな時を過ごしてました。それから中西永輔、中澤祐二、那須大亮、ハーフナー・マイク、栗原勇蔵、田中隼磨とか、いい選手が多くて「スタメンをどうするんだ?」っていうぐらいの選手は揃ってましたから。

最初の相手は同級生で元チームメイト

監督になって最初の試合の相手は京都で、監督は同級生で元チームメイトのハシラ(柱谷幸一)でした。なんか縁ってあるんですね。中3日だからトレーニングではチームにそんなに変化を与えられないので「選手の考え方をちょっと変える」ことをやりましたね。

ミーティングで「選手一人ひとりの最大値を出してほしい」って言ったあとに、全選手の名前を呼んで、「君はこういうところがすごいんだから、これをやってくれ」って。僕なりに考えたことを「それをやってくれればいい」って伝えたんです。選手たちに「思いっきり自分を出していいよ」って言ったんですよ。

たとえば久保には「ダイナミックさとか、アクロバティックじゃないけど、ビックリするようなプレーをやって」と言ったんですよ。そうしたら試合中にオーバーヘッドして。それから、近くにわかり合える選手をおきたいと思って、久保をトップにして奥をトップ下にしたんです。そういうことをやって4-0で勝って、その試合は成功したということがあったんです。 

次の相手は大学の先輩

1か月後ぐらいにアウェイの福岡戦があって、相手の監督は川勝良一さんで、大学の先輩、後輩の関係なんです。これもまた縁がある気がしました。その試合では、久保が相手に頭突きして退場になったんですよ。1人少ない状況になったので誰かをトップに入れなきゃいけない。そこで奥を下げて坂田を入れたんです。「ワントップになるから行けるところは自分で行って、カウンターを狙ってくれ」って指示して。

 

そうしたらボールを受けて2人ぐらいかわして、すごいシュートを逆サイドのポストに当てて決めたんです。それで3-1で勝ったんですけど、坂田の良さが出たのと、あとは坂田の中で「自分がやらなきゃいけない」ってメラッっと燃えた部分が出たんですよね。坂田と最近一緒に食事をしたんですけど、僕がその試合のことを話したら、アイツもすごく覚えてました。

 

戦術について語る水沼貴史さん

水沼貴史 最後の試合

チームを引き継いだ後、最初は岡田さんのシステムを継承して3バックの3-5-2をやったんですけど、途中で4バックに変えたんです。選手の「個」が強いから3バックが出来てたんですけど、あるとき「見ている人は楽しくないんじゃないか」と思って。 決定的に「これは3バックをやめたほうがいい」と思ったのは、ビッグアーチでやった広島とのアウェイの試合で、結果は0-3でした。

 

試合後にその試合を映したスカウティングのビデオを1人で見たんですけど、スピードが感じられないんです。飛行機が近くを飛んでいるとすごく早く感じるじゃないですか。でも遠くを飛んでいるとすごく遅く感じますよね。ビッグアーチはトラックがあって観客席から遠いから、すごくスピードがないとゆっくりした、面白くないサッカーに見えたんです。

 

日産スタジアムだと遠いところもあるけど近い部分もあってそこまで感じてなかったんですけど、このビッグアーチの経験で、これは変えたほうがいいと。 それで4バックにしてコンパクトにして、どんどんハイプレッシャーをかけて、早く攻める形にしたんです。

最終節は、「イビチャ・オシム」監督の息子の「アマル・オシム」監督が率いていたジェフとの試合で、すごくいいサッカーができて2-0で勝ったんです。それが僕が指揮を執った最後の試合です。最後に何かその年を完結出来た気はしました。やっぱりこれだって。監督と選手はドライな関係じゃないといけないと思うけど、若い選手たちにアプローチしてたことが伝わってた気がして、すごくうれしかったですね。

 

当時若手だった選手が今、あのときにやってた練習や雰囲気がよかったみたいなことを言ってくれて、短時間だったけど、自分の中では間違ってなかったのかなって。 結局、僕の成績は7勝1分7敗のイーブンだったんです。前年と同じ9位でした。とりあえず責任は果たした気がします。勝ち越せれば良かったけど、さすがにそこまでは出来なかったですね。

延長オファーを断った理由

監督としての延長オファーもあったんですけどね。でも自分としてはいろいろな理由があって断ったんです。その一つは、コーチに戻ってもう一回若い選手を見させてほしいから。思ってもいなかったところから監督になったんですけど、それなりに成績を残したから、翌年も監督をやったら次は自分のやりたい形でチームを作れる、ゼロからもう一回スタートできる。そういう部分で、延長オファーの魅力はありました。

 

でも、僕が現場に入った最初の理由は、マリノスの過渡期に若い選手たちを育ててスムーズに移行させるためだったし。3年ぐらい若手をちゃんと見て、そこからチャンスがあったら監督になりたい、という思いがあって。だからもう一回コーチに戻って、そこから自分なりに選手たちと付き合いながら成長していきたいって、そんな考えでいたんです。

 

ただ、2007年は2006年よりも難しかったですね。いろんな選手がチームを離れて、作り直しでしたから。練習場も戸塚から「みなとみらい」に移って、社長も代わって。 早野さんが監督になって「高橋真一郎」さんがコーチに入って、僕は若い選手を見るというイメージだったんですけど、ちょっと難しかったな……。

結局、その年の監督とコーチ陣は1年で終わりでしたから。さすがに「なんでだ?」って、不思議に思ってました。よくわからなかったですね。

 

乾貴士について話してくれました

乾貴士の感性

その年でよく覚えてるのは乾貴士ですね。練習終わってもよく話をしていました。乾はシュートもうまいしドリブルはあるし、ファーストタッチがうまいんです。けど、自分だけの感覚でプレーすることがあって、ボールロストすることが結構あったんですよ。

それを直したほうがいいか、乾の感性を生かしたほうがいいか。直しすぎると選手の特長を消しちゃうのでよくないんです。でもボールを失うというのはチームとしてデカいミスなんですよ。悩んだんですけど、もう少し精度を上げたほうがいいと思って、乾とはパスの練習を何回かやったんです。

 

その後の乾にいきたかどうかわからないですけど、感覚的な部分と精度を求める部分の折り合いをつけるというか、そういうのは僕にも乾にも勉強になったと思います。

いろんな選手をどう育てるかという練習はいっぱいやりましたね。小宮山尊信とはクロスの練習を繰り返したし、天野貴史とか田中裕介とか長谷川アーリアジャスールとかとずっと練習していました。

 

あるとき、トップに入っていない若い選手たち中心で香港に遠征したことがあって、そのとき僕が監督で行くということになったんです。乾を連れて行きたいと思ったんですけど、早野監督はトップで使いたいということで連れて行けなかったんですよね。

香港って結構熱いんですよ。応援とかね。あの遠征、一緒に行った選手たちはすごく覚えているようなので、乾にも経験させたかったですね……。

一番大切なのは「鈍感力」?

監督をもう一回やりたいという気持ちは当然あるし、それを持っていないとサッカーに対する熱はなくなってしまうと思います。ただ、監督ってキツいですよ。半年でも思いました。みんなすごいなって。

監督って、堂々としている部分がなきゃダメだし、何を言われても自分を律して、はねのけられる精神的な強さもいると思います。そして一番大切なのは「鈍感力」かなと思うんですよね。

なんだかんだ言われて、それを全部受け入れてしまっては、たぶんやっていけないですよ。だから監督をやってる人はすごいと本当に思います。

デリケートな人、センシティブな人は難しいと思うし、考え過ぎちゃったらとことん深みにはまると思うし。 S級ライセンスを取ったときの同期だった「ポイチ(森保一 日本代表監督)」は、「感じてるんだけど感じない」という能力を持ってると思うんです。

 

そうじゃないと代表監督は絶対無理ですよ。 岡田さんも今はワールドカップに初めて出た1998年ごろの話を普通にしているけど、あのときなんか、自宅にパトカーが24時間警備で付いていたんですからね。もし自分の家がそんなになったらと思うとゾッとしますよ。

監督という職業は魅力的ではあると思うけれど、覚悟が必要だと思いますね。自分だけじゃない、自分の家族も、選手も選手の家族も、チームに関わってるスタッフ、サポーターも、たくさんの人を自分の一つの采配で変えてしまうことになる。いいこともあれば悪いこともある。それをすべて覚悟してやる職業なんだと。

監督と選手との関係

それから、選手との「線」の引き方も考えなきゃいけないですからね。クラブもいろんな形が出てきて、どんどんJリーグは変わっていってると思いますし、時代も変わって、選手が自分をどう分析するかとか、インターネットでいろんなデータが見られるし人の意見も聞けるし。

今は選手以外の人が強くなったとも思います。選手を囲んでいる人たち。どのクラブもその影響力は相当大きい気がします。そしてクラブはそっちの人たちの声をすごく考えると思います。ステークホルダーって考え方は昔はあんまりなかったですからね。

 

だけど本当は、選手にとって大切なのって監督が指向しているサッカーや、勝つために必要なことをどれだけ遂行できるかってことなんですよ。そのためには監督と選手はちゃんとコミュニケーションとらなきゃダメだし、そういう人と人とのつながりの部分って昔から変わらないと思います。

だから僕はずっと話をしていきたいと思うし、選手たちにはしっかりコミュニケーションをとれる人であってほしい。何でも「ノー、話が違う」というのではなくて、話をしてみるとか、そういうのが必要だと思います。

 

水沼貴史さんのやりたいこと

 水沼貴史の「やりたいこと」

今やりたいことは、サッカーの環境をもっとよくしたいということですね。環境というのは選手たちの待遇面もそうだし、サッカーの質、日本代表の質を上げるということもです。もっと進化させていく、変えていくためにメディアは大事だと思います。

もっとサポーターの人たち、サッカーに関心がある人たちを増やしていかなければならないと思うし、そのためにはプレーを伝える側がどうメッセージを発信できるかというのが大事になってくると思うんです。

僕は今、そういう役割にいます。最初に10年メディアの仕事をやって、そこから現場をやって、またメディアの世界に戻ってきたというので、どうやればいいのかすごく考えてるんです。しかも、テレビだけじゃなくてネットでサッカーを見るとか、観戦の方法も変わってきているから。

 

今、僕は自分個人じゃないんですよね。クサいんですけど、自分が「何かになりたい」とか「何かをしたい」じゃなくて、今の日本のサッカーの状況をもっとよくするために自分は何ができるかを考えて、それをやることが自分のやりたいことになってるのかなって。

もう来年60歳なんで、普通だったら定年で再雇用されるという年齢になっています。そう考えると、今の立場は定年を自分で決められるし、永年勤続で仕事ができるという立場なので、そこは幸せなんですけど。

でも、視聴者の人たちに飽きられないように自分で進化しながらやらなければいけないと思うし、メディアの変化に対応しなければならないと思うし。そのために今は努力を続けています。

やりたいことを実現するためには健康が必須

「自分がやりたいこと」を実現するためにやっていることは「健康」の維持です。食事も大切ですけど、一番は体重管理です。体重の管理はずっと続けている簡単な健康法です。 まず体重計を買う。そして毎日乗る。太ったから乗る、太ったから知りたくない、じゃない。毎日乗る。出来れば同じ時間、食事前、お風呂入る前、とか。体重計は出しておく。隠さない。片付けない。

 

体重の変化があれば、そこには原因があると思うので、それが食べ過ぎたか、飲み過ぎたか、それを自分で考える。今日は太っていたんだけど、そんなに食べていないと思ったら、前の日とか、その前の1週間を振り返る。

そういう変化を自分で知ると、今日は何をしなければいけない、何を控えなければいけないかがわかってくるんです。そうすると体重が安定してくる。そして急に体重が減ったりしたら、どこかおかしいって自分でわかるんですよ。そういう何かしらの変化に気付くことができるかというのが一番大事だと思うんです。

 

だから僕は知り合いが結婚したとき、2組ぐらいに体重計を贈りました。旦那さんと奥さんと両方乗れって。お互いを大好きな気持ちを何十年もキープするには、まず体重をキープすることが第一だって。

奥さんは旦那さんがご飯をたくさん食べてくれるとうれしいだろうけど、太ってしまったらイヤじゃないですか。そんなときは旦那さんが運動して体重キープするとか。そういうのがいいんじゃないかなって。 毎日体重を量るっていうのは、すごく効果的だと思います。ぜひやってみてくださいね。

 

水沼貴史さんありがとうございました。

(撮影:浦正弘)

 

 

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