ワールドカップに出場するような日本サッカー界のエリート選手は、現役を終えた後にどうやって暮らしているのか。関西には異色の道に進んだ元選手がいる。カフェで働いている加地亮だ。
出場機会を求めてJ2リーグに移籍し、やっとJ1リーグに戻ってきても出場機会が少なかったころに代表選出。そこからワールドカップに出場し、キャリアの最後はアメリカとJ2リーグでプレーした。波瀾万丈なサッカー人生と、妻とともに働く現状について、飾ることなく語ってもらった。
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加地亮が初めて日本代表に選ばれた当時の心境を語る
僕が初めて日本代表に入ったのは2003年の後半ですね。ナビスコカップの準決勝と日本代表の日程が重なってて、他の選手が出場できなかったからだと思うんですよ。でも、それで僕って、意外でしたね(笑)。最初は「え? 僕でいいの?」みたいな感じです。たぶん他のチームのJリーガーからも「え?」みたいな感じやったと思うんです。サプライズ的な。
1998年にJ1のセレッソ大阪に入って、2000年からJ2の大分トリニータに期限付移籍して、そこから2002年にJ1のFC東京に来て、という経歴でしたから、まさかという感じですよ。しかも東京の1年目は出たり出なかったりで、2年目も徳永悠平が強化指定で来て、またいつも出場するというわけじゃなかったですから、それでよく選ばれたなという感じがしましたね。
1999年ワールドユースではメンバーに選ばれて準優勝はしてるんですけど、ユースと代表は完全に別物ですからね。他のワールドユースのメンバーは順調に成長して代表に入って、順風満帆じゃないですか。でも僕はJ2に行ってJ1に来て、J1でも常には出られずにいたら日本代表に入ったという。
J2にいたときはみんなと同じレベルにはなってなかったですからね。それに大分では試合に出てましたけど、その前のセレッソのときから、ワールドユースの他のメンバーとは同じ立ち位置じゃなかったです。
小野伸二、高原直泰、遠藤保仁とか、全然そういうレベルじゃなかったから、自分はずっと下だと思ってたんです。「ゴールデンエイジ」と言われてる人たちは別格だから、自分はもっと頑張らないと無理だなと。だから僕の場合はワールドユースの後、代表に入るまで3年もかかってますよ。3年間プロ生活してたら、そこで契約切られる可能性もありますからね。
日本代表の大変さ
代表選手ってホント大変だなって、入ってみてよくわかったというか。重圧もありますし、責任もありますし。Jリーグに帰ってきたら「日本代表」って言われるじゃないですか。だから下手なプレーってできないし、パフォーマンスも常に高いレベルを安定して求められるんで。
代表にいるときってメディアの人から何か質問されるのって、あんまり好きじゃなかったです。答える責任もあると感じてたし。だから回答を拒否したことはなかったですね。メディアの人と選手を分けている柵の遠くを通って、質問されないようにシレっと帰っていくというのはありましたけど(笑)。
ジーコ監督からは、どうプレーしろとあまり言われなかったんですよ。「自分のよさを出せ」ということだけで。ジーコのお兄さんのエドゥコーチはすごく細かく言ってましたけどね。
言われてたのは攻撃のことでしたね。クロスのことだったりパスのことだったり。僕はサイドバックだったのに守備のことじゃないんですよ。ブラジル人だからやっぱり攻撃のことなんです。クロスについては、「クロスじゃなくてパスだと思って上げたほうがいいよ」とか。エドゥコーチもサイドバックだったから、そういうのもあって細かく教えてくれたんだと思います。
不安定な時期を過ごしたことも
呼ばれたタイミングもよかったし、周りの助けてもらってたコーチとかも良かったから、たぶんうまく事が運んだというか。ただ代表に来たとき、メディアの人からは「大丈夫?」って思われてた感じだったと思うんですよ。自分自身も「やってやる」というより、自分のことで精一杯で、必死で、とりあえずいいところを出そうという感じしかなかったですね。
周りの選手たちはメジャーだし経験もあるし、Jリーグでも海外でも活躍してる選手ばっかりやったから、その中でどうやっていくかって思ってました。山田暢久さんがいて僕はずっとサブだったんですが、いつの間にか、気付いたら自分がスタメンになってたんです。
でも、じゃあそれから代表で順調やったというわけじゃなくて、パフォーマンスが安定しなくて。チームと代表のどっちでも不安定な時期を過ごしましたよ。自分としては全然納得いかなかったし、そもそも納得できた試合というのは全然なかったですね。
ただ、それがよかったのかもしれないですね。ずっと「また日本代表に呼んでもらえた」という気持ちでいられたから。「自分はまだまだやらなければ」という気持ちでいられたんで、それがなかったらたぶんすぐ呼ばれなくなってましたね。
加地亮が語る2006年 ドイツワールドカップ
それで2006年ドイツワールドカップのメンバーに入ったんですけど、本大会前のトレーニングマッチでドイツとやって。それまですごく順調に仕上がってたんですよ。本大会でもいいプレーできるんじゃないかと思ってたし。
でもそのゲームでバスティアン・シュバインシュタイガーから削られて。まさかそこでケガすると思わなかったですね。たぶん日本に押し込まれてイライラしてたんでしょうね。あれが向こうの人の傾向なんですよね。日本じゃそんなに削らないじゃないですか。大会前にケガさせちゃいけないという判断もあるだろうし。
初戦 オーストラリア戦
そこでケガしてしまったんで、初戦のオーストラリア戦には間に合わなかったんです。それでベンチから見てたんですけど、26分に先制点取って「おお、これはいける」みたいな感じはありました。ところが後半、日本代表はすっかり疲れてて。
相手のオーストラリア人ってガタイも高さもスピードもあるじゃないですか。それに耐えられなかったですね。試合会場だったカイザースラウテルンはカラっとしてて湿気がないんですけど、日差しが強かったのはすごい覚えてます。
それで日本は体力的にガクッと落ちたというのがあったし、1点取って勝ってるというのもあって、精神的にちょっと守りに入ってるというのが分かりましたね。ワールドカップの緊張感も、大会前に田中誠さんがケガで帰ってスタメンも変わったという緊張感もあったんでしょうね。
そんな中に高さと強さとキープ力とがあるティム・ケーヒルが交代出場で入ってきて、2点取られて逆転されて、さらに終了間際にジョン・アロイージに最後のトドメを刺されたという感じの1-3の敗戦でしたね。
2戦目 クロアチア戦
次のクロアチア戦では、僕がシュートを打ったんですよ。クロスじゃなくてシュートです。そのボールがたまたまヤナギ(柳沢敦)さんのところに行って、ヤナギさんがとっさのことに反応できなかったら、そのあとヤナギさんがすごく叩かれて。
あれ、ヤナギさんがかわいそうでした。もし僕のシュートが入っていれば、その後がいろいろ変わったんでしょうけどね。
3戦目 ブラジル戦
それで3戦目のブラジル戦を迎えるんですけど、そのとき、2点差以上付けてブラジルに勝てば決勝トーナメントに進出できる可能性は残ってたんです。すると34分に玉田圭司が先制点を決めたんですよ。ゴールを挙げたことで少しだけ光は見えました。
ところが日本が1点決めたことで逆にブラジルに火を付けちゃって、よけいに相手の強さが出てきましたね。81分までに1-4と大差をつけられて。ブラジルは代表引退するっていうベテランのGKを交代出場させたりして、お祭りでしたよ。
ドイツワールドカップを振り返る
ドイツ大会は日本にとって難しいワールカップになりました。すぐ終わった大会でした。なんででしょうね。日本代表は名前や経歴、実績はすごい人ばっかり揃ってました。でも、「個」が強すぎましたね。
技術的な「個」も強いけど、内面的な「個」も強くて、おのおのサッカー観というのもあって、チームとしてまとまりきれなかったというか。チーム作りってホントに難しいですね。いい選手がいてもチームとしてまとまらなかったら、勝てないですから。
それに日本の敗退は1戦目でもう決まってたんじゃないかなって。あそこで逆転されたっていうことで、もう流れとしてワールドカップが終わったかもしれないって感じがしました。オーストラリア戦で最低でも引き分けられれば良かったんですけどね。
初戦が大事だと分かってましたけど、あれを引き分けに持っていけなかったというのが痛かったかなって。ダメ押し点を取られてさらに痛い、なかなか立ち直れないっていう負け方で、あとの2戦が余計に難しくなりましたね。
あのワールドカップの思い出は辛いですし、2年間苦しいワールドカップ予選を戦ってきて、それであの10日間で本大会が終わって、何か儚(はかな)いなって。自分の中で「もっとやれば」「遠慮しすぎた」「もっとできた」っていう後悔がありましたね。サッカーで後悔したのは初めてです。
ワールドカップを終えてから、どう乗り越えたか
それをどうやって乗り越えたかというと……うーん、そのあと代表って続くじゃないですか。新しくイビチャ・オシム監督が就任して、また招集されて、でも自分の中で切り替えがなかなかできなかったですね。
代表には行くんですけど、何か「もう終わった」というか、燃え尽き症候群じゃないですけど、次に切り替えられなかったですね。ドイツワールドカップの後、何とか2年ぐらいはやりましたけど、その中でイマイチ自分のパフォーマンスも上がってこないというか、何とかやってるという感じだったんですよ。
それで岡田武史監督に代わったあとに代表を辞退したんです。その時期だったのは、ワールドカップの予選が始まる前に、ということで、ちょうどいいタイミングだと思って。オシム監督や岡田監督には申し訳なかったですけど。
そうしたら、僕と岡田監督とに何かあったとか、ウッチー(内田篤人)が出てきたので、代表引退に追いやられたという記事も出て。そっちのほうが記事的にはおもしろいですからね(笑)。
代表を辞退し、クラブチームに専念
そこからガンバ大阪だけに絞れたのがよかったかもしれないです。一つのことに集中できるという気持になれれたから、それで選手寿命が延びたかもしれないなって。
2014年、ガンバとの契約が終わって、そのころに考えてたのは「35歳になってサッカー人生も終わりも近づいてきたけど、ありきたりな人生はイヤやな」ということでしたね。頑張って40歳近くまでプレーするというキャリアが浮かんだんですけど、それはちょっとイヤやなって。
だから、アメリカのチーヴァスというチームに行ってプレーすることにしたんです。サッカー選手やったら海外も行けるチャンスがあるし、語学も勉強できたらいいなって。あっちで家族も一緒に住めたらいいなっていう夢があったのも確かですね。
アメリカでの思い出
それでアメリカに行ったら、これがまた苦労しました。半年でクラブがなくなったんですよ。入った当初は社長が「いい時期に入ってきたね」「来年スポンサーがつくから」って言ってたんです。
ところがスポンサーがついたはいいけど、そのスポンサーは「新しいチームを作る」っていう方針で、今在籍してる選手とスタッフは全員解雇して、本拠地も変えて新しいスタジアム建てて、そこにイチから作り直すと言うんですよ。
「えぇ? 話が違う!」と、まぁホントとんでもない目に遭いました。もう35歳で次雇ってくれるとこなんてアメリカじゃなくて。ドラフト制度があったんですけど、そこにもかからなかったんで。そもそもサイドバックで36歳になろうとする選手はなかなか取らないんで、自分でも、もうアメリカで次のチームはないって分かってましたけどね。
アメリカから帰ってきたときに引退を考えていた
そのときは「仕方ない」って引退しようと思ってました。で、ちょうど妻と家の近くの神社に散歩がてら行って、お参りしたときに言ったんですよ。「引退するわ」って。
そうしたら妻の顔がちょっと違ったんですよ。僕の見間違いだったかもしれないんですけど。でも僕には「もうちょっとやってほしい」「もうちょっと頑張ってほしい」みたいな感じに見えて。
妻は言葉では「いいんじゃない」と言ってたんですけど、なんかそういう感じじゃない顔をしてたから、ちょっと考えて踏みとどまって、もう一回頑張ってみようかってことで。
その当時の岡山の監督が長澤徹さんで、僕がFC東京のときにコーチとしてお世話になってた人だったんで。
それが2015年の1月に入ってたかどうかというころで、もうチーム構成が終わってて、岩政大樹が入ってそれでオッケーだったのに、「来てくれるんだったらほしい」って言ってもらったんです。
そこから岡山には3年いましたね。あっという間でした。J2の違う空気感で、若い選手とか伸び盛りの選手の中に最年長で入って。それがまた新鮮で「サッカーしてるな」っていう気持ちでしたね。純粋にサッカーしてる、サッカーを楽しんでいるという感覚になれたから3年間できたかなと思いますね。
「J1昇格」というしっかりした目標もあって、2年目の2016年には昇格プレーオフまで行って、このチームはさらなるステップアップができそうというのもあって、それでいつの間にか3年間プレーしてました。
加地亮がサッカー人生を振り返る
自分のサッカー人生を振り返ると、一番の修羅場というのは2000年にセレッソから大分に行った20歳のときかもしれないですね。プロ選手生活が終わるかもしれない瀬戸際に立ってると考えてましたからね。
当時の大分は練習環境が良くなかったですけど、その厳しい中でやれたのは自分のハングリーさにもなったし、石崎信弘監督という厳しい人から指導されたのも若い僕にとってはよかったですね。ここで試合に出られなかったらプロ生活終わりだという覚悟で行って、メンタル的にも鍛えることができたし。
ただ僕は行くところ全部、当たりました。行くところ全てで、ずっといい人に巡り会いましたからね。監督や環境もそうですし、試合出るとかどうか以上に、いいチームに巡り会えたというのがあります。だから僕の現役時代は幸せなサッカー人生でした。
加地亮の「やりたいこと」
自分のやりたいこと……って、現役終わった後の人生もそうだし、現役時代もそうなんですけど、基本的には一緒なんですよ。目標って特にないんです。一日をしっかり過ごせばその先に何かあるというのが僕の考え方で。
今はカフェをやってるんですけど、妻の店なんです。僕は本当にサポートで。ひたすら皿を洗って、ホールでお客さんの接客をするという役ですね。素晴らしい仕事ですよ。それをどれだけ正確にできるかです。
作ったのって2011年なんで、僕が30歳ぐらいですかね。引退して、このカフェがあってよかったと感じてます。経営し始めた当初は妻もそうでしたけど、メッチャ大変でしたけどね。
来たお客さんに自分の経験を話して来客を増やすというパターンは考えてないですね。そういう枠組みを考えると何か変かなって。来てもらったお客さんと話はするんですよ。サポーターの人やサッカー好きな人とも。その中で話をすればいいんじゃないって。全然決めてないというか、人生も先を決めてないです。
今までの人生、40年ぐらいですけど、一生懸命やってたら先があったんですよ。逆に言うと必死に生きてないと先がないんですよね。その日一日をどうやっていい日にするか、どう過ごすかを考えながら生きていくと先は自ずと見えてくる、という感じです。アバウトな感じで先を考えることはあるんですけど、絶対にこうするというのはないです。これ、答えになってますかね?
これって自分の性格なものかもしれないし、母親の影響かもしれないですね。母は1人で男三兄弟を育ててくれて。働きづめで頑張ってる母親の姿を見てたからかもしれないですね。僕はね、普通が一番なんですよ。目立ちすぎず、平々凡々と日々を過ごしていたいというタイプなんです。
(撮影:神山陽平/Backdrop)
加地 亮(かじ あきら)
1980年1月13日、兵庫県生まれ。滝川第二高校からセレッソ大阪に入団し、大分トリニータへの期限付移籍を経てFC東京へ。2006年に移籍したガンバ大阪で8年半プレーした後はチーヴァス(アメリカ)で半年、ファジアーノ岡山で3年活躍して現役を引退した。1999年ナイジェリアで開催されたワールドユースでは準優勝に輝き、2006年ドイツワールドカップでも2試合に出場した。