「昔から毎日日記をつけるのが習慣で~」
「エッ、今もですか!?」
「今も毎日、日記書いてます! デジタルですけど」
「毎日何字くらい……?」
「2000字くらい……いやそれより少ない日も多い日もあるので毎日違うんですが」
「それけっこう三宅さんの仕事術じゃないですか!? 日記つけてる人珍しくないですか!?」
「えっそうなんですか!? 日記、仕事術ですか!?」
……という会話を、先日、トークイベント中におこなった。
そうなのである。日記、つけているのである。毎日、いまだに。
自分では仕事のためというつもりはなかったのだが、人に話しているうちに「日記、仕事に役立ってるかも!?」という気になってきたので、仕事について語るこちらの連載で考えてみようと思う。ずばり、「日記をつける習慣ははたして書評家業に役立っているのか」。
はじまりは受験勉強の記録
日記をつけ始めたのがはたしていつのことだったのか。はっきりと「毎日書き始めた」のは受験生になった高校3年生の頃だった。しかしそれが日記の習慣の始まりかといわれると、ちょっと首を捻る。
というのも、それまでも「ノートに思っていることや考えていることを書く」行為は、私自身好きだったのである。毎日つけているわけではないけれど、その時考えていることを、誰にも見せないノートに吐き出す。そんな習慣は小学生の頃からずっとあった。ちなみに当時のノートはすぐさま捨てていたので残っていない……。いやしかし残っていたら黒歴史確定だっただろうから、残さなくて正解である。
中学、高校と学年が上がるにつれて、インターネットが自分の身近な存在になった。そこでやっていたのが読書ブログである。ああ、ありし日の「JUGEMブログ」。ここで「なつかしい~」と声を上げた人はきっと同世代である。2000年代後半、インターネットで気軽にブログをはじめようと思ったらJUGEMブログが楽だったのである。
当時、少し年上のお姉さんが更新していた読書ブログが好きだった。東京に住んでいて、女子高に通っていて、テスト期間になったらブログ更新を止めるような真面目なお姉さんで、メフィスト賞受賞作を読破しているような読書家の読書記録。彼女の読書ブログがなかったら、私は幾人の作家に出会わなかったのだろうといまだに思う。あのブログが閉鎖されてしまったことに、いまだに胸の奥が引っ掻かれたような切なさを覚えてしまう。
私もいつからか彼女を真似して、中高時代は読書ブログをちびちび更新していた。読んだ本と、その評価と、感想を書いた。唐突だが、今この記事を書くためにものすごく久しぶりに「中高時代の自分のブログを読む」という恐怖体験をおこなったのだが……2008年から2010年まで毎月10記事以上は更新している。暇だったのか? 己の(忙しかったと記憶している)中高時代の記憶を差し替えたくなってくる。
しかし結局、自分も勉強と部活が忙しくなって、高校二年生の11月に更新をやめている。
そのかわり日常に入ってきたのが、受験勉強の記録を記した、毎日書く手書きの日記だった。これが私の「はじめての日記習慣」である。
高校3年生にあがる時、4月はじまりの「ほぼ日手帳」を親に買ってもらった。「えっ、値段高くない!?」と引かれたのだが、受験勉強に必要なのだと謎の説得をした記憶がある。よく買ってくれたよな、親……。まあ当時1日1ページの手帳って珍しかったから、他の手帳では代用しづらかったのはたしかに本当なのである。
その手帳は、1日1ページまるまる書く場所がある。なので、今日のタスクと、勉強時間と、覚えづらいもののまとめと、雑感(?)を毎日記していた。それまでも勉強のタスクを手帳で管理する習慣は高校1年生くらいからあったのだが、まるまる1日ページを使って書くのはさすがにはじめてだった。当時流行っていた『ドラゴン桜』の漫画に、手帳に受験勉強の記録をつけたらよい、という記述があったのでそれを鵜呑みにしたのである。まあ今考えると、ほとんど勉強日記だ。
かくして「ほぼ日手帳」で毎日1ページなにか書く習慣ができた私は、大学に入ってからも、せっせと「ほぼ日手帳」に毎日日記を書いた。日記とともに、なにか読んだり観たりしたときはいつも感想を書いているので、やっぱり私の日記とは基本は感想とともにあるらしい。
そういえば大学に入って仲良くなった同じ学部の子も、まったく同じ習慣をもっていた。彼女もほぼ日手帳に日記を書いていたのである。彼女は今も日記をつけているだろうか。
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デジタルに移行
結局、「ほぼ日手帳」で日記を書く習慣は大学3回生に至るまで順調に続いた。すると高校時代と合わせると「ほぼ日手帳」は4年間ぶん溜まってしまった。そして私は手帳になんでもかんでも貼って記録する癖があった。映画の半券やら美術館のチケット。そうすると手帳の分厚さは膨れ上がる。こうなると困るのが、置き場所だ。分厚い文庫本×4冊。しかも誰にも見られたくない。が、捨てるのもしのびない。
私は、日記をデジタルに移行することに決めた。非公開のはてなブログを作成し、毎日せっせと更新することにした。タイトルに日付も入れられるし、本文には写真を載せ放題だ。
結果的にいまだにこの「非公開ブログ」日記が続いているのだから、自分の性分に合っているのだろう。
「非公開ブログ」形式の日記の何が良いか! それは検索が容易なことである。「あの本の感想って日記に書いてたっけ?」と思ったらその瞬間、ブログ内検索で探せば一発だ。あるいは日付ごとにカテゴリを勝手に作ってくれているので、「なんとなく2018年のころの日記を読む」なんてこともできる。スマホで撮った写真や、好きなアイドルの画像、面白かった記事のURLも載せやすい。そしてなにより、場所も取らず、いつだってこのブログは消せるんだと思えると、気楽になんでも書けるというものである。
……2015年から現在に至るまで、毎日非公開ブログを更新しているという事実。ふと立ち止まって考えてみるとちょっと怖い。
日記は「日々の生活の感想」
さて、私の日記遍歴をたどってみると、「感想の記録が好きなんだね……?」と思うほかない。自分で考え直してみると、物心ついて以来、ずっとなにかの感想を書いているという事実にぶち当たる。怖い。
日記というのは私にとってはつまり、「日々の生活の感想」なのだ。本を読んでは感想を書き、仕事をしては感想を書き、友達と会っては感想を書く。そういう自分の感想を書く場所が、日記なのである。
私は書評家という仕事をしているが、「本の感想を書くことにあんまり困らない」という特性は、日記を書く習慣から来ているのかもしれない。と、この記事を書いてみて思った。何をしてても、感想を持つ。それを日記で、言葉にする。他人にはあんまり言わない。まずは自分で考えてみる。そういう習慣がしみついているから、書評家の仕事をやってられるのかもしれない。
あとは「なんとなく日記でぼんやり考えていること」が、本のネタになることも、あるにはある。昨年刊行した『女の子の謎を解く』は「本やドラマや漫画のヒロイン像をとおして現代を読み解く」主旨の本なのだが、ここに出てきた仮説は、ほとんど日記でぼんやり考えていたことが起点になっている。うーん、やっぱり仕事の役にたっているのかも、日記。
しかし日記はもはや私にとって仕事の役に立つとか立たないとかの範疇を越えて、日々書かないと気が済まないものになっているのだ。いつまで書くのか私にも分からなくて怖いっちゃ怖いが、「もう日記書かなくてもいいや~!」と思う日まで書こうと思っている。いや、日記書かなくていいやと思うということは、人に言える感想しか持たないようになるってことなので、私の仕事大丈夫か!? とちょっと心配にはなるけれど。
■三宅さんの前回の記事はこちら