「タカちゃん、再来月から給与明細がもらえなくなるんだとよ」
元刑事のマルさんからこんな内線電話がかかってきました。
ここは国内でも有数の規模を誇る都市型公園の管理センター。職員の大半は定年退職後の再雇用組で、僕もその一人です。
マルさんの話だけではなんのことやらチンプンカンプンだったので後刻、総務に問い合わせると、紙ベースの給与明細が会社のサイトで閲覧、プリントもしくはPDFでダウンロードする方式に変わるとのこと。
そうです、ついにわれわれ定年退職者のジジババ集団にもDXの波が到達したんです。
カオスな職場研修
マルさんの電話から半月ほどして「事務手続きの電子化に伴う説明会」なるものが開かれました。
会議室には神妙な面持ちのシニア職員が30人近く集まっています。みんな、入り口で手渡された分厚い両面印刷の説明書をパラパラとめくっています。
「えー、本日は職場のDXに伴う…」
硬い表情のマネージャーが口を開いた途端にざわめきが起こりました。
「でーえっくす? なんだ、そりゃ?」
初っ端からつまずいたせいか、心なしか血の気の失せたマネージャーが慌てて説明を始めました。
「DXとはですね、Digital Transformation、つまりデジタル変革といった意味の略語でして」
「あ”? ならDTじゃねぇか!」
しゃがれ声のマルさんが大きな体を揺すりながら水を差します。
「えーとですね、英語圏ではTransで始まる単語をXと略す習慣がありまして」
話があらぬ彼方に脱線していきます。
それでもなんとか態勢を立て直したマネージャーの説明によれば、DX(デジタルトランスフォーメーション)なるもので変わるのは次のようなことでした。
- 給与明細がペーパーレスになる。今後の給与明細は、自前のスマホやパソコンで確認・印刷する。閲覧・印刷は退職後も可能
- 年末調整などの面倒な書類の記入がラクチン
- 再雇用契約書の締結手続きはオンラインでおこなう
- 振込口座の変更や転居、介護休業申出書などの各種申請はオンラインでおこなう
正社員のみなさんは、加えて産前・産後の休業届や育休の申出書、赴任届などもオンライン申請に移行するようです。時たま飛び出すトンチンカンな質問に話の腰を折られながらも一通りの説明を終えたマネージャーは、額に滲み出た脂汗をハンカチで拭きながらみんなの顔を見渡しました。
したり顔でウンウンと頷きながらマニュアルとにらめっこをする面々。今後の申請はサイトに置かれたフォームにスマホかパソコンで入力し、必要な書類はダウンロード&プリントする等々、最低限は理解できたらしいと安堵したマネージャーでしたが、腕時計を見て悲痛な声を上げました。
「今日はご自身のスマホでマイページまでは作っていただきたかったんですが、予定をかなりオーバーしてしまいました。マニュアルをご覧になりながら一週間以内にマイページを立ち上げておいてください」
「マイページって?」
やにわに拡がるざわめきから逃れるように、マネージャーは書類の束をかき集めると逃げるように会議室を立ち去ってしまいました。
薄ぼんやりと何が変わるのかは分かったものの、自分達がおこなうべき具体的な作業については分厚いマニュアル以外に頼るものがない。
そんな放置プレイ下にわれわれジジババ集団は置かれることになったのでした。
行列のできる入力相談所
その後、数日は何事もなかったかのような日が続いたのですが、マイページ作成の期限を翌日に控えた職場は突如、蜂の巣をつついたような騒ぎになりました。
「明日までに何かはしなきゃならんのだが、一体全体、何をすればいいのかが分からん」
今にしてみればマニュアルを丁寧に読めば分かったのかもしれませんが、焦ると字面を追うばかりで内容がさっぱり理解できなくなるのもマニュアルというものです。
こういう漠然とした不安にシニアが陥った時の選択肢はひとつしかありません。
「分かる奴に聞け。あわよくば、そいつにやらせろ」
直ちに生贄に選ばれたのは、元SEで新人職員のタクマくんでした。
「おい、タクマ。ちっと顔貸せや」
事務室にマルさんの太いしゃがれ声が響き渡りました。
「い、今ですか!?」
助けてくれとばかりに周囲を見渡すタクマくんでしたが、先輩職員は黙々と自分の仕事を続けています。
「あの、なんだよ。DXとかいうやつの設定をチャチャっと教えてほしいだけだ。時間はとらせん」
「? 僕、金儲けの仕方とか全然、知らないんですけど」
「あ”、なに言ってるんだ? 給与明細の出し方を教えてほしいだけなんだよ、俺っちは」
「…もしかしてDXのことですか」
「だから最初っからそう言ってるじゃねぇか」
かくしてタクマくんは拉致されたのでした。
離れの休憩室に監禁されたタクマくんが仰せつかったのは、マイページ作成手順のレクチャーだったのですが、数人のジジババに囲まれて不安と恐怖に怯える様は、まるで刑事ドラマの取り調べシーンです。
「まず聞くが、マイページとは何ぞや?」
超ビギナー級の質問に少し安心したタクマくんは、サイトを仮想現実上の社屋、マイページを各々に与えられた執務室になぞらえて答えました。
「おー、なんとなく便利そうなことだけは分かった。そのマイページを作れってことなんだろうが、俺たちにもカンタンに作れるんか?」
「あ、はい。IDとパスワードを設定することで作れます」
ようやく具体的な作業の入り口が見えてきました。
「大体のことは分かったから、設定の仕方を教えてくれ」
せっかちなマルさんが急かします。タクマくんの指示で、みんながスマホを取り出してマニュアルのQRコードを読み取り、ログイン画面を表示。
あれあれ、みなさん難なく作業をこなします。一般にデジタル音痴と思われているジジババですが、調味料やお菓子の懸賞応募、オーブンレンジのレシピなど、お手軽にサイトを表示できるQRコードは平素から当たり前のように使っているんです。
問題はこの後でした。英数の入り混じったIDとパスワードの入力で、すんなりと作業を終わらせる人がいた一方で、何度やっても再入力を求められる人が発生したんです。
「入力した文字を何度も確認してるのに何だよ(怒)」
「あー、それはですね。たぶん半角で入力すべきところが全角になってるんだと思います」
タクマくんの死にものぐるいの説明で、文字の縦と横の比が1対1なのが全角、2対1なのが半角であるという知識はなんとかクリア。ところが英数入力に切り替えて半角のみで入力する「実習」が上手くいきません。教える側のタクマくんはiPhoneなのに対し、ジジババの大半はAndroid。
しかもAndroidのキーボードは多種多彩で、これに不慣れなタクマくんは機種ごとに違う全角・半角の切り替えに追われて、容赦なく舞い込む質問に答える余裕などありません。
「理屈は分かったから今日のところは代わりに入力してよ。お願い♪」
待ちくたびれた清掃歴30年のサトミさんが、ついに禁じ手を発動しました。
「あのぉ、僕がやったんじゃ意味ないと…」
と、精一杯の勇気を振り絞って抗議するタクマくんでしたが、待ってましたとばかりにサトミさんの後にみんなが並びます。
「最初っからこういうつもりだったんですよね。ええ、きっとそうに決まってます」
呪詛の言葉をブツブツと並べながら、淡々と他人様のIDとパスワードを入力するタクマくんでした。
阿鼻叫喚のうっかりタップ
パスワードを第三者が代理で入力するという管理者が聞いたら気絶しそうなプロセスを経たものの、こうしてシニア職員のマイページ作りは目出度く終了したのでした。と言いたいのですが、ジジババたちの苦難が終わったわけではありません。
あの日以降、すっかり面倒見の悪くなったタクマくん(当たり前か)に代わる人身御供が見つからぬまま、次なる試練というべき年末調整の申請をおこなう羽目に陥ったのです。もう誰にも頼れません(自業自得)。こうなったら自力で窮状を突破する以外にないっ。
文殊の知恵に倣ってマルさんと元証券マンのイシさん、それに僕。ジイさん3人は職場近くのカフェに集まり、それぞれのスマホで申請作業を始めたのでした。
その結果は、文殊菩薩の知恵に勝るどころか、単に阿呆が3倍になっただけでした。入力ミスの大半が全角・半角の混在であることを知っていたことで、入力時にワケが分からなくなることはありませんでしたが、「あれぇ?」とか、「えー、何でだよ!」という怒声が度々、カフェに響き渡ることになったのです。
何が発生したかというと、入力中に突然、意図しない画面に変わってしまうという怪奇現象が頻発したんです。
これに焦ってブラウザの「戻る」や「再読み込み」のボタンを押した結果、入力途中のデータを消してしまうんです。これは、スクロールバーや「ページトップに戻る」などの内部リンク、説明のポップアップなどを期せずして触ってしまうという凡ミスによるものなんですが、当の本人にとっては、ついさっきまで食べていた肉まんが忽然と手元から消え去ったぐらいの驚きがあるんです。
理由は分からないが、それまでの努力が泡と消えた。その事実だけは残るので腹はたつやら悔しいやら。
また、スマホの画面で入力する際に、先に入力した内容を参照する必要があるような質問も高齢者にとって意外に高いハードル。「質問1でアを、質問2でウを選んだ方へうかがいます」なんてケースですね。
僕も自分がそうなるまで分からなかったことなんですが、歳をとると認知症とまではいかなくとも直近の記憶があやふやになることが少なからずあります。「さっき、なんて回答したっけ?」と。
画面をスクロールすれば済むことなんですが、これがタップミスを呼び込んじゃうことが少なからずあるんです。
意外に高いデジタルへの関心
「そんなイカれた人材への考慮など必要なし!」
ここまで読んでいただいたところで、そんな感想をお持ちになった方がいても不思議ではありませんね。でも、ちょいとお待ちを。
野村総研のグループ会社であるWRI社会情報システム(株)が2021年3月におこなったアンケート調査があります。
全国の50〜79歳の男女3,000人を対象としておこなったものなんですが、結果は社会のデジタル化に対してシニアがどんなイメージを抱いているかを浮き彫りにしています。
これによると、ネガティブな印象を抱いているシニアは32.7%で、「非常に期待している」と「多少期待している」を合わせると57.9%ものシニアが行政サービスの電子化やオンライン医療などへの期待を寄せていることが分かります。
さらに興味深いのは、デジタル化に期待しないと回答したシニアの理由です。
「新しい技術や機器を使いこなせる自信がない」と答えたのは29.6%(複数回答)に過ぎませんでした。
「個人情報が漏洩されるリスクが高くなる」が49.6%(同)
「監視社会になることへの不安」が31.7%(同)
デジタル化に対する深い理解があってこその回答であることが分かります。
DXとユニバーサルデザイン
SNSの利用がシニア世代に着実に普及している現状が数字となっているのも見逃せません。実際、僕の職場が直面したDX狂騒曲も、一人ひとりが抱えたトラブルを曲がりなりにも乗り越えられたのは、マニュアルでもなければインストラクターでもなく、SNSによる情報交換のおかげでした。
津波のように押し寄せるDX。
ジジババは、これの足を引っ張るのでしょうか?
老害なんぞという言葉の流行りと相まって広まりつつあるステレオタイプですが、現役のジイさんとして、僕はこれを笑い飛ばしたいと思っています。
そんなことより、歳とか世代とかの既成概念にどっぷり浸っていると、日本は正真正銘、絶賛停滞中の国になっちゃうんじゃないかと。
職場のダイバーシティやDXを推進するのに必要なのは、技術革新もさることながら、デジタルのユニバーサルデザインといった人臭い部分が鍵となるように思えるのは素人考えというものでしょうか?
≫ 【導入事例やサービス紹介も】さくらインターネット お役立ち資料ダウンロードページ

執筆
高岡涼太
昭和の高度経済成長期に生まれ、ゲバ棒世代からシラケ世代への変遷期に育つ。大学を中途退学した後はバブル経済に乗ってアゲアゲな転職を繰り返し、氷河期に突入してからは介護業界で働く妻のおかげで餓死を免れる。今はシルバーな公園の管理人。「失敗のデパート」を自称。
※『さくマガ』に掲載の記事内容・情報は執筆時点のものです。
- SHARE