前回、「本を出したいなら、まずはインターネットで書きたいことを書いてみるのがいちばんいいよ! 書いてるうちに、たぶん誰か見つけてくれるよ!」という話を書いた。
前回の記事:私が本を出版できた理由。きっかけは小さな書店 – さくマガ
……が、これ、意外と無責任な発言ですよね。知ってる。
当たり前の話だが、自分の文章を誰かが見つけてくれる保証はどこにもない。ただ書いてるだけでは、たくさんの人に読んでもらう機会はなかなかやって来ない。
こんなにもたくさんの人がインターネットで目立とうとしている現代。はたして、「自分の文章をインターネットで目立たせる方法」なんてものはあるのだろうか?
前回は「とにかくインターネットにものを書くといい」という話をしたので、今回は、「じゃあどうしたら、その文章をたくさんの人に読んでもらえるんだろう?」と私が考えた話を書いてみたい。
私は意外とせっかちな性格なので、まずは結論からお伝えしたい。
文章をたくさんの人に読んでもらう方法。
それは、「型」を見つけて、「修正」をたくさんすることなのではないか。と今の私は思っている。
だれにでも自分に合う「型」はある
読まれる文章を書くのに必要なのは、型と修正じゃあ! なんて、いきなりスポ根風味連載になってしまったかもしれない。いや、ちがうんだ。私としては、「今のところ書く仕事ってこれが大切だと思うんですが、みなさん、どう思います!?」くらいのテンションで話したいだけなのだ。
もちろん今から言うことが100パーセント正しいとは思ってない。それに、明日には考えも変わってるかもしれない。けど! 今の私は、とりあえず今「書く仕事」について大切だと思ってることを共有したいのである! というわけで、突然なるスポ根連載になってしまうのも構わず、続けてみたい。
まずは「型」の部分。
だれにでも自分に合う「型」は存在するし、それは試行錯誤しないと見つからない。――ということを、私は文章を書いてみるまで知らなかった。
たとえば今の私は、書評の分野でお仕事をもらうことが多いのだけど。そもそも書評が自分の得意分野だなんて、書いてみるまで、わからなかったのだ。自分にとって、苦労なく書けて、そしていろんな人に読んでもらえやすいジャンル。そんなものが存在するなんて、実際に見つけてみないと分からないもんである。
「これならいける」とわかる瞬間
この「型」のことを考えるたび、オードリーの若林さんという方がラジオで言ってたことを思い出す(いきなり書く仕事の話から遠ざかったけれど、ちゃんと戻ってくるから安心してください!)。
お笑い芸人のオードリーと聞けば、私たちはまず「ピンクのベストを着て、七三分けにした春日さんが胸を張っている」という図を思い浮かべる。だけどこの「ピンクのベストを着た春日さん」を発明するのに、ふたりは10年かかったらしい。
驚きませんか。10年ですよ。でもいろんな漫才や見た目を変えて、試して、そしてようやく見つけたいまの漫才を世の中に出したとき、ふたりは爆発的に売れたのだという。
「売れる『型』を見つけることは、黒ひげ危機一髪のゲームを続けることだ」と若林さんは表現していた。
「黒ひげ危機一髪」のゲームをやったことのある人なら分かるだろう。あのゲームは、いつか絶対、当たりが出る。黒ひげがぴょこんと飛び跳ねる時が来る。だけど実際に飛び跳ねる時がくるまで、ひたすら、空の穴に刀を刺し続けるしかない。
10年間はずれの穴に刀を刺し続けて、ようやく黒ひげが跳ねた結果が、あの年の漫才だった、とラジオでは振り返っていた。
この話をラジオで聞いた時、おこがましいのだけど「わかる」と呟いてしまった。
もちろん自分はまだまだ道半ばの人間なんだけど。でもやっぱり自分の人生にとって、「黒ひげが飛び跳ねた瞬間」は、たしかにあった。
前回の連載で書いた、書籍化のきっかけになった記事がバズったときもそうだった。本一冊書けるだけのフォーマットを見つけたときも、そうだった。
「あ、これならいける、飛べる」と分かる”型”が見つかる瞬間。そして実際、今までよりも飛距離の長い文章ができあがる。今までよりたくさんの人に読んでもらえる。結果がついてくる。
いろんなものを書いて、試して、あんまりぴんとこなかったり、ぴんときたり、ということを繰り返していると、どこかで自分に合った「型」が見つかる瞬間がやってくる。いけるじゃん! と思えるときが。
「型」が大切なのは、文章に限った話ではないだろう。たとえば漫画家の東村アキコ先生は、最初は少女漫画を描いていたけれど、家族を題材にしたエッセイ漫画を描き始めたとたん、いきなりヒット作を連発した。東村先生には、エッセイ漫画って「型」が合っていたんだろう(まあ、東村先生はその後少女漫画でもヒットを生むんですが。きっかけの話です)。
あるいは明治の大作家・夏目漱石ですら、最初は漢詩や俳句をつくっていたのだ。そのまま正岡子規の横で夏目漱石が俳句しかつくらなかったら、時代はどうなっていたのだろう? 小説って「型」を試してくれてありがとな! と心から思う。
試行錯誤するのは、まったく悪いことじゃない。
いろいろ書いていくうちに、「お、これは自分に合った『型』だぞ」と思えるものが見つかる。文体だったり、あつかう題材だったり、ジャンルだったり。
とにかく自分に合った「型」を見つけると、不思議と、いつもより強く弓を引くことができるのだ。
「型」を見つけたら「修正」あるのみ
……と、「型」について熱弁したところで。
しかし型を見つけただけでは、人生は終わらない。原稿もできあがらない。残念ながら、面白い文章を書くために必要なのは、「型」だけではない。
自分に合った「型」をようやく見つけたとする。実際に書いてみたら、いつもより反響が大きかった。この路線でしばらく続けてみよう。
そう決めたところで大切にするべきは、「修正」なんだよ!
と、最近骨身にしみて思っている。
よくある新人漫画家さんエピソードに、「編集者にたくさんボツをくらった」という話がある。漫画家を主人公にした物語でも出てくるかもしれない。あなたも一回くらい聞いたことがあるんじゃないだろうか。
私は実際に自分が書く仕事をしてみるまで、あれが何をしているシーンなのか、いまいちよくわかってなかった。ボツって、結局、なに? と首をかしげていた。
でも、今なら分かる。
あれは「もっと修正しろ!」と言われている場面なのだ。
以前、小説家の森見登美彦さんが「新人はとにかく修正が足りないから、まずはたくさん修正したほうがいい」って雑誌のインタビューで答えていたのだけど。プロとアマチュアの境目は、もしかしたらアイデアのセンスとか文才とかそういうものより、修正の数なんじゃないか……? と思うくらい、修正は文章の面白さを左右する。
自分ではできあがったと思う文章を、とにかく直す。直して、もっと伝わりやすくする。
なぜ修正が大切かといえば、「これくらいのクオリティになれば、読者には伝わるやろ」というラインまで、なかなか一回書いただけじゃ辿り着かないからだ。
文章の始め方。言葉の言い回し。結論をどこで言うか。――ただの書きたいことが、読者にとってわかりやすい話になるまでの距離は、意外と遠い。
もちろん締め切りは無常にやってくるし、修正してる時間をとれないときも多々ある。だけど「うーんこのへんのラインまでくれば、まあ、伝わるかな」というクオリティまで持っていく作業は絶対に必要なのだ。
ってなんでこんなこと言ってるかって、最近、やっぱり修正をさぼっちゃいけないよな~と反省したからです……。やっぱり、修正をあまり重ねずに書いた文章を読み返してみると、「ああああ直したい」と頭を抱えるのです。
結局、直せるときに直しておいたほうが自分の幸福度として高い。写真を撮られる時は、きちんと化粧しておきましょう、という話と同じだ。
修正しなかった原稿たち、ごめんな。もっときれいに化粧してあげたらよかったよ。
というわけで、書きたいと思える「型」を見つけて、書いたものに「修正」を重ねる。
これを繰り返すことが、私にとって書くことなんだなあ、と最近しみじみ思っている。
私はこの試行錯誤が嫌いじゃなくて、というか、好きなので、楽しんでやれているのだけど。
あなたはどうですかね? 型、大切じゃないですかね? ぜひ聞かせてくださいな。