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寺子屋とは? 現代の学校との違いや歴史、意味について解説

寺子屋とは? 現代の学校との違いや歴史、意味について解説

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 みなさんは「寺子屋」という言葉を教科書などで目にしたことがあるのではないでしょうか? 

さくらインターネットでは社内の取り組みに「さくらの寺子屋」という認定社内講師による学びの場があります。

寺子屋は江戸時代の教育機関として、広く庶民に開かれた存在でした。学校教育の理想形といわれることもある寺子屋は、独自のカリキュラムや学び方を持っていました。現代の日本人の教育意識の高さにもつながる寺子屋の教育とは、いったいどのようなものだったのでしょうか。

寺子屋の特徴や歴史、仕組みを紹介し、そのすごさを紹介していきます。

寺子屋とはどんなもの?

 寺子屋とは、江戸時代に日本の全国各地に存在した庶民の教育施設です。多くは町民が寺子屋の師匠となり、子どもたちに文字の読み書き、そろばんなどを教えていました。

医者や僧侶、裕福な農民などが運営した「慈善事業的な意味合いのもの」、組織や共同体の出資による「協同事業」、生計を立てるために運営されたものなどがありましたが、いずれの場合も師匠は高額の収入を得ていたわけではありません。金額について明確な定めがあったわけではありませんが、入門料や授業料といった金銭の他に、食料品や物品などを納めることもあったようです。

寺子屋の教師を師匠(手習師匠)と呼び、生徒は寺子と呼ばれていました。寺子屋の師匠は、今の戸籍に当たる「人別帳」に知的職業である「手蹟指南」として登録されるなど、知識人として尊敬の対象になっていたため、ほぼボランティアのような形で務める人が多かったようです。

元土佐藩主の長宗我部盛親も、関ケ原の戦いで敗れて領地を没収され、浪人生活を送っていた14年の間に京都で寺子屋の師匠をしていたといわれています。

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寺子屋の教育は実用的

 寺子屋の教育は庶民の日常生活に必要な実用的なものを重視していました。多くの寺子屋で教えられていたのが、江戸時代の町人に必要だったそろばんや読み書きです。学習は、まず「いろは」や数字などから始め、師匠の「手本」を見ながら書き習う形式でした。

学習が進むと「往来物(おうらいもの)」と呼ばれる教科書を用いるようになります。その種類は、室町時代以降、貴族や武士、僧侶の子どもの教育に使われていた「庭訓往来(ていきんおうらい)」や漢字の学習に用いた「小野篁歌字尽(おののたかむらうたじづくし)」、算術の入門には「塵劫記(じんこうき)」など、7000種類以上に及ぶといわれています。

往来物には、手紙や日常用語を集めた実用的なもの、「東海道往来」など地理関係のもの、道徳的な意味合いが大きい教訓的往来物もありました。 寺子屋で教える師匠の多くは男性でしたが、都市部では女性の師匠もいたといいます。

生徒は男子が多く、女子の教育は家庭内でおこなわれることがほとんどでしたが、幕末期には寺子屋に通う女子も増加しました。ただし、女子が学ぶ内容は「裁縫」「茶の湯」「生け花」などで、男子とは異なっていました。寺子屋は特に江戸時代の天保期に増加し、幕末には1万以上の寺子屋が存在していたといわれています。(※寺子屋の数によっては諸説あり)

江戸時代の日本の総人口は今よりはるかに少なかったにもかかわらずです。平成27年の全国の公立小学校数は2万302校なので、それと比べてもいかに寺子屋が普及していたかが分かります。

起源は室町時代! 長い寺子屋の歴史

起源は室町時代! 長い寺子屋の歴史

 寺子屋の歴史は室町時代後期にまで遡ることができるといわれており、「寺子屋」の名は、寺院でおこなわれていた師弟教育から始まったことに由来しています。当時は寺に寝泊まりする形で勉強していました。寺子屋が庶民の間で一般的になり、最も盛んにおこなわれていたのは江戸時代です。

戦乱の世が終わり、平和で安定した社会が到来すると、文字や計算を学ぶことの必要性が庶民の間にも広がるようになりました。出版事業が京都から江戸に伝わり、活字に触れる機会が増えたことも関係していると考えられます。

将来職に就く際に必要な知識の習得や、生きていくために学ぶ必要がある教育は、本来家庭内でおこなわれていましたが、仕事で多忙のため十分な教育を行えなくなった親が、子の教育を外部委託する形で寺子屋が広まっていきました。

その結果、大都市だけでなく農村部にも寺子屋が増え、嘉永年間の就学率は70%以上という大変高いものでした。実は「寺子屋」という名称は上方(関西)で使われていたもので、江戸では「筆書所」と呼ばれており、全国各地で呼び名は異なっていたといわれています。

江戸時代が終わると、明治政府は「学制」を施行し、小学校を建設することになりました。学制の施行と共に寺子屋は姿を消しましたが、小学校ではかつての寺子屋の師匠たちが教鞭をとり、同じように子どもたちを指導しました。

現代の学校とどう違う? 寺子屋の仕組みとは

寺子屋と現代の学校との違いを図解

 寺子屋の仕組みは、今の小学校にとても似ています。義務教育ではありませんし、同じ教室で授業を受ける子どもたちの年齢は、さまざまでした。早い子では5歳ごろ、通常は7、8歳で通い始め、平均して6年程度で卒業するなど共通点も多いです。

19世紀になると江戸など大都市では生徒数が200~300人という寺子屋もざらにありました。登校時間は午前8時ごろ、下校は午後2時ごろが一般的で、子どもたちは、下校後に農作業などの家業を手伝っていました。

ちなみに午後2時は昔の呼び方で「八ツ時」です。寺子屋から帰宅して空腹の子どもたちが食べる「御八ツ」が「おやつ」の起源になったともいわれています。

寺子屋に通うには学費が必要な場合もあります。金額について明確な定めがあったわけではありませんが、学費には「束脩(そくしゅう)」とよばれる入学金や、「謝儀(しゃぎ)」とよばれる授業料、畳の新調費として年に1度支払う「畳料」、手を温めるために年に1度徴収する「炭料」などがありました。特に「謝儀」は一律ではなく、家庭の経済状況を鑑みて払える額を支払っていたようです。

江戸時代には「藩校」や「私塾」と呼ばれる教育機関もありましたが、これらは一般庶民を広く対象にしたものではありませんでした。藩校は、藩士などを生徒に兵法や武芸、儒学、蘭学、医学などを教えていて、藩が運営していました。

 私塾は、蘭学者や儒学者が開いたものが多く、オランダ語や数学技術など高度な内容を教えていました。寺子屋は身分を問わず広く庶民の教育に寄与し、生きるために必要な実用的な内容を教えた点で特徴的なのです。

今の教育も学ぶべき! 寺子屋のすごさとは

 寺子屋のすごさは、今でいう「個別教育」がおこなわれていたところです。当時は子どもが親の職業を継ぐことが多かったことから、親の職業や本人の希望を元にした個別のカリキュラムが師匠によって組まれていました。農民の子どもには「百姓往来」、商人の子どもには「商人往来」、職人の子どもには「番匠往来」など、それぞれに合わせた教科書「往来物」が用意されていました。

また、現代の学習指導要領でも触れられている、主体的、対話的な学び方「アクティブ・ラーニング」は、寺子屋の教育そのものです。一方的に教師の授業を聞くのではなく、同じ教室にいる仲間たちに教えてもらったり、教えたりしながら生徒たちは主体的に学んでいました。

こうした学びが明治維新以降に優れたリーダーを排出したり、西洋から入ってきた文化を理解したりすることに役立ったといえるでしょう。寺子屋で読み書きの基礎を習っていたため、江戸府内の人々の識字率は50%を超えていたともいわれます。幕末の頃には成人男性の識字率は70%を超えましたが、同時代のロンドンの識字率は20%、パリは10%未満ということを考えると寺子屋のすごさが分かるのではないでしょうか。

今の教育にも通じる寺子屋の重要性

 寺子屋でおこなわれていた教育は、現代の教育に全く引けを取らない実用的で主体的なものです。江戸時代、一般庶民を含めた国民の教養の高さでは、日本が世界をリードしていたといっても過言ではないでしょう。

現代の学校教育だけでなく、企業の新人教育や研修の場でも、寺子屋の教育方針や学びのスタイルから多くのことを学べるのではないでしょうか。

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執筆・編集

さくマガ編集部

さくらインターネット株式会社が運営するオウンドメディア「さくマガ」の編集部。

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