「香りを言語化する」。極めて曖昧な感覚をテクノロジーを活用し、1人ひとりにパーソナライズされた言葉にする。香りとIT、AI、UX(ユーザーエクスペリエンス:顧客体験)を掛け算しブルーオーシャンに望む起業家に取材した。人々の美意識が変化し、香りに関わるマーケットが拡大している中、新たな価値を創造するSCENTMATIC株式会社 代表取締役社長 栗栖 俊治さんに話を聞いた。
栗栖 俊治(くりす としはる)さん プロフィール
1979年生まれ。東京都出身。慶應義塾大学大学院修了。2005年株式会社NTTドコモ入社。以後10年間にわたり携帯電話やスマートフォン向けの位置情報サービス、音声認識機能、GPS機能のプロジェクトをリード。「イマドコサーチ」「しゃべってコンシェル」は大ヒットした。2015年より米国シリコンバレーのDOCOMO Innovations, Incに出向。AIに関わる数々のスタートアップビジネスを発掘し、NTTドコモ本社との協業や出資に成功。2017年に帰国後、SCENTMATIC株式会社(読み:セントマティック)を設立。AIで香りを言語化する「KAORIUM(カオリウム)」を開発。SCENTMATIC株式会社 代表取締役社長・CEO(現職)
豊かさとは「ゼロをプラスにすること」
大学は文系に進むつもりだったが、進路提出直前に考え直して理系に丸をつけた。PC好きの兄の影響で「PCを使って新しい価値を作れたら面白そうだ」そう思い、情報工学科に進んだ。当時インターネットと携帯電話がつながり始めていた。位置情報の研究をしながら、新しいビジネスが生まれる可能性にワクワクしていた。
2005年に株式会社NTTドコモに入社、位置情報サービス企画に配属。ドコモの携帯に初めてGPSが搭載されようとしていた時期だ。母親が子どもを探すための位置情報検索サービス「イマドコサーチ」の主幹として活躍した。
2010年から音声認識サービスのプロジェクトをリードする。当時、音声認識の技術は暗黒時代だった。認識性能が低いうえに、ユーザー調査では「携帯に向かって1人で話すなんて頭がおかしくなった」「気持ち悪い」とまで言われる始末。
しかし、最先端のプロトタイプができて音声の認識性能がグッと上がった。「これなら使えます!」ユーザーからのフィードバックがガラッと変わった瞬間だった。「体感的な感動がニーズを生み出す」経験はSCENTMATIC設立の原点になった。
2012年には「しゃべってコンシェル」というアプリ、いわゆるAppleのSiri のようなサービスをヒットさせた。ここで利用された言語解析機能の知見は、SCENTMATICが開発した「KAORIUM」の自然言語処理にもつながっていく。
2015年に米国・シリコンバレーのDOCOMO Innovations, Inc. に出向。数多くのスタートアップ企業と関わる中で価値創造について考える機会に恵まれる。2018年に日本に戻り、自分が作ってきた価値について考えた。
サービスの価値は一言でいうと「利便性」だ。たとえば母親が子どもを探すとき、歩きまわると10分かかる。しかしGPSを利用した「イマドコサーチ」なら1分だ。子どもを探す10分間が1分間に短縮され、9分間が浮く。心配しながら子どもを探すネガティブな9分間がニュートラルな時間になる。ネガティブでマイナスな時間がゼロに近づくのだ。
マイナスをゼロに近づける利便性にも価値はある。しかし栗栖さんはモヤモヤしていた。自分が作っていることは豊かさなのか。シリコンバレー滞在中に、人生を楽しむさまざまな人たちと関わり、カリフォルニアの大自然の中でキャンプもした。位置情報サービスや音声認識で便利になることは、はたして豊かさなのだろうか。
「うれしいとか楽しいとか、ポジティブな瞬間が多いことが豊かなこと。利便性とは異なる軸だと気づきました。豊かさとは『ゼロをプラスにすること』だと」
「豊かさの価値創造をしたい」栗栖さんは考えた。しかしNTTドコモは「人と人をつなぐ」コミュニケーションの企業。「ゼロをプラスにする」価値はドコモではできないと考え、辞める決断をした。
なぜ香りなのか
身近にありながら暮らしを豊かにしてくれるもの。それが香り。アロマの香りはなくても眠れるが、あれば睡眠を豊かにしてくれる。無臭よりも良い香りの洗剤のほうが、皿洗いの時間を少しだけ豊かにしてくれる。
香りにITやAI、UXなど今まで培った経験を組み合わせたら、新しい価値を生み出せそうだ。そう考えて2018年6月から香りを言語化する「KAORIUM」のプロジェクトを始動した。
「『KAORIUM』はデジタルを使った課題解決のアプローチとは異なります。ITを使ってゼロをプラスにし、人々の暮らしをいかに豊かにできるかがポイントです」栗栖さんはそう話す。
香りと言葉がつながる
香りは極めて曖昧な存在だ。人によって感じ方が違う。それをどのようにして言語化するのか。栗栖さんはそれを「香りと言葉の融合体験」と説明する。
「言葉は『何かを定義するもの』でもありますが、同じ言葉でも人によって定義がぶれています。”その人”にとっての定義なんですね。そのため、1人ひとりの中で実体化させるためのツールが言葉なのだと思います」
栗栖さんが具体的に説明してくれた。
「言葉があることで、抽象的なモヤモヤがクリアになります。たとえば美術館での絵画鑑賞を想像してみてください。絵を見ているときの感覚は曖昧で抽象的です。一方、漫画は絵画に言葉を融合させています。セリフによって、主人公が言いたいことがクリアに伝わります。もし漫画にセリフがなかったらモヤモヤの連続ですよね。
音楽も同様で、クラシック音楽を聴いているとき、抽象的だけどなんかいい気持ち。一方、ポップスには歌詞という言葉があるので、泣ける歌では泣ける。言葉は五感が与える体験を増幅してくれるのです」
香りは曖昧な感覚だ。たとえば「なんとなく好き、なんとなく嫌い」という感覚に言葉が融合すると、今までにない新しい体験ができる。それが「KAORIUM」だ。
「香りを単純に嗅いだ時は右脳だけが活性化します。でも、どんな香りかを意識しながら嗅ぐと、言語をつかさどる左脳も活性化します。たとえば『スッキリ』した香り。KAORIUMでは言葉を見ながら香りを感じられます。自分の中の『スッキリ』と香りを脳内で紐づけようとします。
『なんかいい香りだな、でもモヤモヤしている』。自分の中で言語化できないものを、KAORIUMのパネル上で言葉を表示してくれます。『スッキリ』だけでなく『爽やか』という言葉も表示され、どんな香りなのか、モヤモヤをクリアにしてくれる。言葉と紐づける体験です」
とあるKAORIUMのユーザーの体験談だ。最初「この香り、嫌い」と言っていた人が、言葉とつながった香りを感じた時に「大好きです!」と快不快の感覚が逆転した。言葉の力、おそるべしだ。
KAORIUMの仕組み
クラウド上で実現されたKAORIUMはAIを活用している。香りは人それぞれの感じ方が違うため、その香りに対して「多くの人がどう感じているのか」という言葉のデータをベースに作られている。さらにインターネット上の膨大な文学表現も大量に学習し、AIに流し込んでいる。それによってわかりやすい言葉で表現したり、情景的な表現もできる。ユーザーは自分が選んだ香りに関連する言葉や情景表現を、KAORIUMのパネル上で確認できる。
KAORIUMは日本語対応だけでない。今年の2022年、6月29日から7月1日まで米国のマイアミで開催された2022 World Perfumery Congressに出展。英語版で出展されたKAORIUMの評判は高かった。アンケートでは満足度の平均が10点満点中9.4。NPS(ネットプロモータースコア)という総合的な満足度指標評価が75と出た。言語表現のネックを気にしていたが、「これで海外にも進出できる」と栗栖さんは思った。
日本酒選びが楽しくなった
KAORIUMは飲食店での日本酒選びにも使われ始めている。今までの選択肢から一歩先の新しい楽しみ方を提供する。
お客さんが日本酒を楽しむ場合「美味しい!」だけの反応が多い。一方KAORIUMを利用して選択すると、「白ぶどうの味がする」「マスクメロンの風味がする」という反応もでてくる。さらに「同じような風味の日本酒はないかしら」となるそうだ。KAOIUMが「自分が好きな風味の軸、日本酒を選ぶ軸」を教えてくれ、購買体験、飲食体験を広げてくれる。KAORIUMの専用アプリを入れたタブレットは、導入準備中の店舗も含めるとすでに50店舗以上で導入されている。
「日本酒選びが楽しくなったというお客さまの声をいただきました。KAORIUMで選んだ日本酒が品切れだとガッカリしてしまうお客さまもいらっしゃる。今まではなんとなく銘柄で選んでいたものが、インプットされる情報が増え、期待値が上がった。飲みたいお酒がないと期待値とのギャップで、残念感が大きくなってしまうようです」
今まで売れていなかった日本酒も大きく売れ始めた。有名な銘柄はもちろん売れる。有名でなくとも、きちんと伝わるものがあると味わいで勝負できるようになった。栗栖さんが岡山県の酒造メーカー代表から聞いた言葉だ。
「よくぞKAORIUMを作ってくれた。私たちはおいしい日本酒をつくることしかできなかった。唎酒師(ききさけし)がいたとしても、人的稼働がネックとなりスケールできず、おいしさをより多くの人に伝えることが難しかったけれど、AIやITのサポートで伝える機会が広がりました」
KAORIUMは、お客さんに喜んでいただきながらトップラインという売り上げを高めるツールだと栗栖さんは話す。
KAORIUMをフレグランス(香水)で始めた時に、これだけだと日本国内の市場規模を鑑みると海外に進出するしかないなと思っていたそうだ。たまたま日本酒もいけるんじゃないかとアイデアが出た。
「風味もいける」となった時にターゲットとなるマーケットが広がった。ワインやウイスキーも、クラフトビールにチョコレート、そしてお茶もある。風味や香りのあるものは世の中にはたくさんある。
やりたいことを出来るに変える「香りはブルーオーシャン」
「嗅覚は科学が追いついていなかった分野といえます。嗅覚の仕組みを解明した米国人の科学者がノーベル医学生理学賞を受賞したのが2004年です。21世紀に入ってからなのです。たとえばラベンダーはリラックス効果があると大昔から言われています。しかし、ラベンダーに含まれるリナロールという成分が鎮静効果をもたらしているという論文が出たのは、最近の2018年です」
fMRI(脳の機能活動がどの部位で起きたかを画像化する仕組み)の広まりも背景にある。スピリチュアルと言われてもおかしくなかった領域に、やっとサイエンスが追いついてきたと栗栖さんは話す。
サイエンスの世界も含め、今までは視覚と聴覚が大半だった。視覚と聴覚に対するテクノロジーは人間の認知能力の上限を超えつつある。4K、8Kと解像度をこれ以上あげても見えかたに大差はない。一方、嗅覚の領域はブルーオーシャンだ。嗅覚というもう1つの次元を追加することによって体験・体感の奥行きが変わる。さらに、これからはパーソナライズされた香りの市場も大きくなる。
「私たちのビジョンは香りを通して豊かな暮らし、こころ豊かな瞬間が増えることです。これからの時代はQOL(Quality of Life) 、人生や生活の豊かさが大切になってきます。豊かさの実現のため香りや風味に対して、喜びを感じられる瞬間を作っていきたいですね」栗栖さんは穏やかながら熱く語ってくれた。