2019年末頃から世界を震撼させた新型コロナウイルス感染症。当時は未知の病気として、各地域の医療現場に大きな混乱を引き起こした。
札幌市は2020年4月末ごろ、医療機関や福祉施設で大規模なクラスターが発生したことで、全国でも早い時期からコロナ禍に突入したとされる。医療現場は、感染した疑いのある市民の検査や、入院対応に追われることとなった。
そうしたコロナ禍の混乱のなか、札幌市保健所システム担当課は、チーム結成からシステム稼働まで2週間という短期間で「COVID-19対策事務支援ツール」を開発、業務の効率化を実現した。
類を見ない速度で新型コロナ対策システムを稼働させた、札幌市保健所 医療対策室 システム担当課の主要メンバー、小澤 秀弘さん、千葉 匡さん、岩間 雅己さんに話を聞いた。
千葉 匡(ちば ただし)さん プロフィール1978年生まれ、札幌市出身。2002年4月、札幌市役所入庁。総務局情報システム部で、保健福祉総合情報システムの運用保守を4年間担当し、基幹系情報システムの再構築プロジェクトに7年間携わった。基幹系情報システムの再構築では、住民記録システムの開発を担当後、統括品質管理としてプロジェクト全体の作業プロセスや成果物の整備などを実施した。その後、2020年4月に札幌市保健所への応援職員となり、同10月から札幌市保健所に配属され現職。
小澤 秀弘(おざわ ひでひろ)さん プロフィール
1967年生まれ、札幌市出身。1991年1月、札幌市役所入庁。総務局情報システム部で住民記録システムの運用保守を3年、保健福祉総合情報システムの開発を6年、市役所内のIT投資管理体制の整備などを3年担当した後、基幹系情報システムの再構築プロジェクトに8年間携わった。基幹系情報システムの再構築では、住民記録システムの開発を担当後、千葉さん、岩間さんとともに PMOチームとしてプロジェクト全体のマネジメントを担当した。その後、2020年4月に札幌市保健所への応援職員となり、同8月から札幌市保健所に配属され現職。
岩間 雅己(いわま まさみ)さん プロフィール
1974年生まれ、札幌市出身。1994年4月、札幌市役所入庁。保健福祉局総務部で、保健福祉総合情報システムの開発を5年間担当。総務局情報システム部で、保健福祉総合情報システムの運用保守を3年、基幹系情報システムの再構築プロジェクトに8年間携わった。基幹系情報システムの再構築では、基盤システムの開発、インフラ環境の導入などを担当した。その後、2020年4月に札幌市保健所への応援職員となり、同10月から札幌市保健所に配属され現職。
「重大な事故を起こしかねない」事態の深刻さが浮き彫りに
2020年2月、さっぽろ雪まつりで新型コロナの感染者が出たことをきっかけに、札幌市内の感染者は爆発的に増加。さらに、2020年4月に高齢者施設でクラスターが発生し、札幌市は全国で最も早く感染爆発に突入した。
未曾有の緊急事態に対応する現場を救うべく、札幌市保健福祉局 保健所感染症総合対策課は、医療対策室内にシステム担当課を編成。過去に基幹系情報システムの再構築プロジェクトを経験している小澤さん、千葉さん、岩間さんら7名を招集した。
当初、伝えられていた応援期間は1か月。システム開発をするとは言われていなかった。しかし、何をすればいいのか、何を作らなくてはいけないのかを確認するため、各業務の洗い出しをして行くうちに、だんだん事態の深刻さが浮き彫りになっていった。
小澤「当時、PCR検査数は1日数十件くらいの規模でしたが、それでも Excel での管理に苦労していました。また、検査結果、陽性確定者、濃厚接触者、入院状況まで、すべてそれぞれの Excelファイルで管理されており、データの一元管理ができていませんでした。そのため、発熱者からの相談の段階で名前を確認しているのにもかかわらず、その後の検査や隔離のプロセスの際に、また名前から聞き取るような状態でした。Excelファイルに同じ人が複数登録されていることもありました」
千葉さんは、「このような管理体制を続けていれば、いずれ重大な事故を起こしかねない」と感じていた。
千葉「ほかの自治体で報道されたケースですが、実際の検査結果は陽性だったにも関わらず、誤って陰性だと伝え、対象者を自宅に帰してしまったという問題が発生しました。これは検体の取り違えから起きたことですが、札幌市でも Excel での管理方法を続けていては、いずれ同じようなことが起きるかもしれないと感じました。それで、局長より検査や患者のデータを管理できるシステムを用意するよう指示を受け、『COVID-19対策事務支援ツール』の開発に着手することになりました」
短期間での開発を実現。開発者の苦労とは
「COVID-19対策事務支援ツール」の開発に着手することになったものの、本来、システム開発をするうえで重要な要件定義をするためのヒアリングができない状況だった。イレギュラーな状態のなか、自分たちの足を使って求められているものを探すことからのスタートだった、と小澤さんは振り返る。
小澤「何を作ることが期待されているのかを特定するところからはじめました。『何に困っているのか』『どういったものを作るか』『何から解決するのか』『どう優先順位をつけるのか』。それを探り当てることがスタートでした」
岩間「現場で作業をしている職員は、目の前の対応に追われている状況で、業務全体を整理できていませんでした。そのため、システム担当課のメンバーが、それぞれ『現場ではどんな作業があるのか』、『現場では何に困っているのか』を調査しました」
誰も経験したことのない緊急事態。「保健所以外の部署の職員が、急に応援職員として配属され、短期間で入れ替わる状況だったため、応援職員は場当たり的に対応するしかない状況でした」と千葉さんは続ける。
千葉「現場でヒアリングをできないだけでなく、業務フローを示すようなマニュアルも無い状況でした。課題設定や課題解決のアプローチを繰り返し実践した経験から、『COVID-19対策事務支援ツール』として準備するものを検討しました。結果としては、現場に適合できるものを提供できたと思っています」
小澤「Excel と違って、同時にアクセスできるデータベースで管理して、検査依頼などの際に必要になるリストを作れるように定義しました。また、提供時期を考えるとオンプレミス環境を構築していては間に合わないことから、最初からクラウドを利用することを考えていました」
岩間「自治体としては、業務システムにクラウドを利用する先進事例だったと思います。ただ、基幹系情報システムの再構築プロジェクトで、開発環境にクラウドを利用した経験があったんです。システム担当課にセキュリティに精通しているメンバーもいたので、懸念はありませんでした」
以前から、札幌市の情報システムに関する専門委員として関係のあった企業の手助けもあり、2020年4月26日にシステム開発へ本格的に移行した。AWS を活用してわずか1週間で「COVID-19対策事務支援ツール」のプロトタイプをリリースし、検査データ、患者データの一元化を実現。同年4月30日にプロトタイプの稼働を開始した。
その後、厚生労働省より HER-SYS(ハーシス:新型コロナウイルス感染者等情報把握・管理支援システム)が発表されたが、このシステムもクラウドベースで開発されている。国としてもクラウドを利用する流れができつつある中、札幌市はいち早くクラウドを有効活用していた。
短期間でのシステム開発にあたって、当時の苦労について聞いてみると「システム開発自体はそこまで大変だとは感じなかった」という意外な答えが返ってきた。
小澤「過去に大規模なシステム開発に携わったときは、毎日深夜まで仕事をすることが数年続いたこともありましたから、システム開発自体が特別に大変とは感じませんでした。今回はある程度終わりが見えていたので、気は楽でした」
千葉「要件のヒアリングができず、参考資料もほとんどなく、自分たちで情報収集して、課題の解決策を検討していくのが一番大変でした。ただ、基幹系情報システムの再構築プロジェクトに一緒に取り組んだ勝手知ったるメンバーだったので、阿吽の呼吸ですぐにパフォーマンスを発揮することができました」
岩間「私たち情報システム部門の人間と、医療関係者の方々では考え方が違うので、そこは大変だったかなと思います。私たちは、課題解決策としてデジタル技術を活用した効率化が必要だと考えましたが、医療関係者は、目の前にいる一人ひとりの命を守りたい。そこに効率化という発想はないんです。これは、どちらが良い悪いという話ではないですし、命を守りつつ最大の効率化を図るためのバランスを取るのが難しかったですね。
また、現場でのヒアリングが十分にできていなかったので、現場で本当に使えるシステムになっているのかという不安は少しありました。せっかく作っても活用されなくては意味がありません。でも、結果的には現場の方々に喜んでもらえたし、しっかりと活用してもらえたのでよかったです」
ワクチン接種データと住民票を紐づけ正確なデータを取得
「COVID-19対策事務支援ツール」は、医師など外部の専門家からも高く評価された。その理由は、新型コロナに関わるデータ分析を実現したことにある。
小澤「一番評価していただいたのは、『COVID-19対策事務支援ツール』のデータと、ワクチンの接種データが連結して、データ分析に活用できる点です。それぞれのデータが、住民票の誰なのかが区別できるように設計しました。こういったデータ分析ができることが、医師の方に評価していただけました」
千葉「ほかの自治体や保健所では、名乗った人を名簿に登録するだけで、住民票の中の誰なのかまでは確認していないと思います。そのため、ワクチンの接種情報とは連結できていない。札幌市では、住民票の中の誰なのかを特定することで、データ上でも1人の個人として扱えるようになり、再陽性者や再感染者を判別できる状況になっていました」
小澤「ワクチンの接種情報と連結できていたため、陽性者と陰性者それぞれがワクチンを接種していたかどうかも分析することができました。この点も医師に評価していただけましたね。『ワクチンに本当に効果があるのか』と言われていましたが、札幌市では、ワクチンを打った人のほうが、打たなかった人よりも陽性になる割合が明確に少なかった。これをデータを根拠として数字として出せたことで、札幌市としてワクチンを積極的に活用する方針を取ることができました。こういったデータ活用ができたことは、大きな成果だったと思います」
今後、また感染症が流行したら「個人の特定は必須」
新型コロナは、感染症法上の位置づけを5類に移行することが決まっている。現在、札幌市医療対策室 システム担当課のメンバーは、プロジェクトチームの解散に向け、クロージング作業中だ。今回のプロジェクトについて、改めて振り返ってもらった。
岩間「状況が日々変化する中で、意思決定をするために必要なさまざまなデータ分析をおこなってきました。データを有効に活用するノウハウを得ることができて、スキルアップに繋がったと思います。大量のデータを利用するため、必要に迫られて新たなツールを使ったり、これまでと違うアプローチで開発したりしましたので、良い経験になりました」
千葉「新しい要件分析を体験できましたね。以前は現場のユーザーに対してヒアリングなどを実施して要件定義をしてました。でも、今回おこなったのは現場のユーザーに作業プロセスを聞くのではなく、システム担当部署が業務で扱うデータを分析して、データ構造から主たる要件を解釈するというやり方です。今回得られた知見は、今後に活かせるのではないかと思います」
小澤「今回は、要件定義の際に現場で働いている人から話を聞く時間が取れなかったんです。苦肉の策として、データを分析して概念データモデルから業務を俯瞰して見ることで業務要件を見つけようとしました。そうすることで、むしろ要件定義がうまくいきましたね。さらに、短期間の開発の中、要件の変更対応に時間が取れなくても、 今回の要件定義の方法のおかげで、業務内容に一部変更があってもブレない、コアな業務要件を定義することに注力できたと思います。これが非常に良い方向へ作用したと感じました。データを分析し、概念データモデルから業務要件を定義するという今回の考え方は、今後同じケースでも参考にできるのではないかと思います」
最後に、今後、新たな感染症が発生した場合、どのような対策が必要だと思うか聞いた。
千葉「感染症対策業務は、感染症の毒性の強さや感染状況によって、業務プロセスが随時変化していくということはわかりました。そのため、業務プロセスを縛るようなシステムを用意してしまうと、『業務を変更できない』『システムを大幅に変更しなければならない』といった悪影響が発生するでしょう。こういった業務では、データの構造を整理して、必要なデータが整備されるよう、結果登録型のシステムを準備することが重要だと思います。
また、データを手入力するという行為が、さまざまなボトルネックを生み出す原因になっていることを実感しました。この部分こそ ICT を活用して手入力せずに済むような構造にするのが大切だと思います」
岩間「検査結果やワクチン接種情報、疫学調査などの情報がデータとして紐づけされて、国、自治体、医療機関で共有できる仕組みが必要だと感じました。国からは HER-SYS が提供されていますが、個人を特定するキーが存在しないんです。同一人物の情報もデータ上は別人物となっており、陽性者数の把握に誤差があったり、個人の状況を一元的に管理できなかったりしていました。マイナンバーカードのような個人が特定できる仕組みを最大限活用することで、正確な情報の共有ができ、効率的に対応できるのではないかと思います」
小澤「『昔からFAXで情報共有していたから、次もFAXでいい』といったように、プロセス重視の方法に捕らわれてはいけないと思います。重要なのは、業務の中で扱うデータを中心にした業務分析をおこなうことで、より効率的に、業務手順を簡略化していくこと。同時に、データの品質を上げて感染対策のためのデータ分析を可能にする仕組みを構築することです」