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生成AI時代に問われる、ITと人間の“新たな関係”とは~「NoMaps2024」イベントレポート

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北海道のクリエイティブコンベンション「NoMaps2024」において、さくらインターネットは「生成AI時代に問われる、ITと人間の“新たな関係”とは」と題したセッションを2024年9月12日に開催しました。セッションにはさくらインターネット 代表取締役社長 田中 邦裕と、産業僧として活躍される松本 紹圭さんが登壇。生成AIの登場で社会の価値基準が大きく変化するなかで問われる人間性、そしてAI時代において私たちが取り入れるべき新たな考え方などについて語り合いました。本記事では、その一部をレポートします。

AI時代到来による社会の価値基準の本質的な変化

田中

AI時代が到来したことで、どのような変化が起きているのでしょうか。また、このような時代をわれわれはどのように捉えればいいでしょう。

松本

まず人間の特徴の1つに、「私たちは特別ですごい存在だと思いたがる」ということがあると思います。それはAI時代であれなにであれ変わらないと思うのですよ。ですから、人間の存在意義はわれわれ自身が人間をどう定義するかで変わってきます。では、そもそも人間はどう“すごい”のでしょうか。

ビフォーAIにおいては、「言葉があり、理性がある。他者と会話し、文明を作り、科学を発展させることもできる。こんなことができるのは人間だけで、だから人間は動物とは違うのだ」ということでした。しかし皮肉なことに、人間が文明や科学を発展させたがゆえに生成AIが生まれました。その生成AIが、人間が人間たる根拠であった言葉や理性の世界を席巻し、侵食しはじめている。「人間をAIからどう差別化するか」という問題点が浮かび上がってきたわけです。

そこであらためて「そうだ、そもそも私たちは動物だったのだ」ということに気づきました。感性も感情もあって、先祖や家族がいて、思い出と共に生きている。そして、絶えず呼吸をして、他の命をいただきながら、生まれては死んでゆく循環する「いのち」である。そのような動物性、背景やストーリーがあるということが、AIと違って“すごい”ところなのだと思っています。

田中

Humanity(人間性)の定義が変わってくるんですね。AIが進化し続けると、人間の脳を模倣したようなAIや、本当に人間を超えるものが出てくるかもしれませんが、あまりそこに対して議論がされてないのは気になるところです。テクノロジーを抑制する仕組みはまだ日本にはないし、世界でもあまりない。案外Humanityとは? なんて議論をしてる間に、人間を超えるAIが作られるかもしれません。

松本

そうですね。テクノロジーの進歩は止められないので、どうやって共存、共生していくかが大事です。

たとえば、陸上競技の砲丸投げでは砲丸を一番遠くまで飛ばした人が勝ちとなりますが、砲丸をできるだけ遠くに投げるというタスクにおいては、そもそも大砲があればいいわけです。でも競技は、「体格などに違いがある人間」という制約のなかでやっているから成立するコンテンツです。同じように、文章やグラフィックというアウトプットだけを見て、「人間が作ったものと変わらない」「むしろAIが作ったほうがクオリティが高い」ということになっても、私たち人間自身の体験や経験の価値、そこから生まれるドラマやそのドラマへの共感がなくなるわけではないのです。アウトプットだけを切り取ってでAIと人間を比べるのではなく、そこに至るストーリーやまとう熱量、方向性も含めて見ていくという流れが出てきていると思います。

ビジネスにおいても、「なにをやるか」よりも「誰がやるか」、つまりプロダクトそのものよりもブランディング。さらにプロダクトブランディングよりもコーポレートブランディングが重要になりつつありますね。商品そのものの機能ではなく、機能が生まれた背景、企業の思想や姿勢、全部をひっくるめて商品を見て、その背景に投票する。いまは、そうやって商品購入につながるようになっている気がします。

田中

意味づけの仕方によってAIによる変化は危ないものにも安全なものにもなる、ということなのでしょうね。

たとえば将棋の世界においても、さくらインターネットのインフラを利用していただいていた「Ponanza(ポナンザ)」という、人間に勝った将棋AIがあります。Ponanzaは、人間を負かしたことで、世界史に残るようなストーリーを作りました。さらにおもしろいのは、その後、藤井聡太さんがAIを使って将棋を学び、現在の地位へのぼっていったことです。これは「AIによってもっと新しい将棋が生まれた」ということになりますよね。AIが将棋の世界を淘汰することはなかったんです。このようにAIが人間に置き換わる存在ではなく、人間をエクステンドする存在になれば、とてもいいですよね。

松本

AIと人間の共生の一つの姿ですね。

AI時代において重要なリーダーシップとは

田中

AIが人間をエクステンドしていく世界においては、どのようなリーダーシップが世の中を変えていくとお考えでしょうか。

松本

AIは、「過去の集合知の総体」ともいえると思います。
たとえば会社でAIを導入したら、各社員の業務内容がAIにデータとして蓄積され、そのなかのベストプラクティスが集合知として共有される。とすると、今日この現場に立っている私たちが「昨日までに蓄積されたベストプラクティス」をどう凌駕できるか、がAI時代の仕事そのものであり、リーダーシップの発揮の仕方である、といってもいいのではないでしょうか。

田中

なるほど。しかし、昨日までの情報で勝負するのであれば、多くの仕事はAIに置き換えられる可能性はありますよね。

松本

そのとおりです。ですから“今日”の仕事というのは、会社のAIから提供されたベストプラクティスの上に、ほんの少しでいいから新しい情報を与えてあげること、小さなことでもいいからなにか工夫をすることだと思うのです。その工夫がよかったか悪かったか、その場で結論づけなくていい。上手くいかなかったことも含めて、やってみた工夫と経験に含まれる可能性をAIは粛々と見続けてくれるはずです。これが新しい価値になっていくと思います。

田中

AIのアウトプットにさらに価値を加えることができるのが人間の価値、というのはとてもポジティブなお話ですね。

一方で、人間の価値が「人間のほうが安く済む」ことになると、それはディストピアだと思うんですよね。飲食の配達業などはまさしくそういう世界だと思います。ロボットが配送するよりも人間が配送したほうが、トータルで安いわけですから。なので、「AIよりも創意工夫ができる」ことに人間の価値がある世界にならないといけません。

松本

じつは、AIが健康でいるために、人間はつねに新しい風を吹かせ続けてあげる必要があります。AIがインターネット上だけの情報で学習すると、自家中毒に陥って新しいものが生まれなくなり、その結果データ汚染が起きていく、ということが実際にあります。

田中

なるほど。多様性という言葉がありますが、日本でも1億2,000万の人がいて、相互に影響し合いながら、不確実なことを起こしながら、やっている。これが結果的によいのかもしれませんね。AIは人間がメンテナンスをしなければ続かないということが、1つの巨大なものを作らないための防波堤になっているのかもと思いました。

松本

オープンな情報はまだまだ限られていて、各社で外に出していない情報がたくさんありますよね。各企業にそれぞれのAI活用事例があって、日々経験を重ねながら、AIもAIを使って働く人もお互いに学び続けています。そうした膨大な経験を含んだ情報が分散的にあるわけですが、それらをどう健やかに保っていくかは、働く人間とAIとの関係性に依ると思います。

田中

たしかにそうですね。
ITが登場する以前は、手回し計算機や電卓を使って計算だけをする職業などがありましたが、いまはすべてなくなりました。ITはそれらの人の仕事を奪ったわけですが、人間は健やかに過ごせているし、昔よりも長い睡眠時間と短い労働時間で給与をもらえるようになっています。また、たとえば車が普及してドライバーという仕事も登場しましたし、車のメーカー、メンテナンス業、ガソリンスタンド、オイルプラントなど、さまざまな仕事が生まれました。AIの普及も、このような方向に進んでいくんだと思います。そんなに未来を懸念することもないのでしょう。

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これからの人間の価値

松本

懸念すべきは、AIが人間の仕事を奪うことよりも、暇になった人間はなにをするかということですね。人間全体の負荷が減り、週休3日や週休4日ということも議論されています。

僧侶として「いかに苦しみなく生きていくのか」は1つの理念としてもちろん大事にしていますが、では「苦」がネガティブなものかというとそうではないんですよ。仏教の「苦」というのは、サンスクリット語では「ドゥッカ」といって、「軸がずれている」というような意味なんです。車輪の軸がずれているとガタガタしてすわりが悪いでしょう。すわりが悪いとどうしますか。「もうちょっと居心地のいい方向に動こう」と、なんらかのアクションをしますよね。

ですから痛みがない社会は、「なんのために生きているのか」と大いに問われますし、現代は、ひとり一人がその問いに向き合わなければいけない時代なのだと思います。そこに、働くことの意味の変化も現れてくるのではないでしょうか。

田中

おっしゃるとおりですね。
お金のために仕事をするというのは当たり前の話だと思いますが、苦もなくご飯が毎日食べられて、おもしろいテレビ番組でも見ながらそれで人生が終われればいいのかといわれると、どうもそうではなさそうですよね。起業して何十億と作っても、引退せず仕事をしている人もいます。

松本

ドラッカーの「ビジネスの本質は顧客の創造である」という言葉を再定義したほうがいいのではないかと思っています。ずれてはいませんが、もっと広がっているのではないでしょうか。

というのも、ステークホルダーキャピタリズムということで、顧客や株主だけでなく、従業員や、いままでプレーヤーとして考えられていなかった動物、植物、地球環境なども含めた大きな枠組みのなかで私たちはビジネスをしている、と社会が考えるようになっているんです。ビジネスの本質は「仲間の創造」になっていると思うんですよ。私は未来の会社のかたちは、いにしえの道場のようになっていくと考えています。

田中

道場ですか。

松本

たとえば永平寺という僧侶の修行道場がある寺があります。僧侶は、自分の成長のためにそこにいきます。給料をもらいにきているわけでも、誰かに評価してもらうためでもありません。なにかが早く達成できたからといってほめられるわけでもないし、生産性が追求されることもありません。

田中

そういうことだったら別に道場にいかなくても、家で修業をすればいいということにならないのでしょうか。

松本

そう思いますよね。でもブッタは、「修行は1人ではできない、必ず仲間とするものである」といっています。そして、よい修行をしてその完成を目指したいのであれば、一番の近道は「よい仲間と修行することである」と。

働き方や生き方が自由になっていく現代において、あえて会社で働く意味はなにかというと、「そこに仲間がいるから」だと思うんです。1人で仕事をしていても、修行ができないんですよ。

そして、このブッタの言葉の裏を読み取ると「互いに学びあえる仲間のところに身を置いて一緒に励むことが重要、それが自分を含む仲間の成長へと導く一番の近道」ということです。あらゆる企業にそれぞれの道場としての役割があり、会社に来てくれた社員の成長の器にどれだけなり得るかが、その企業の役割になっていくと思います。もし社員が大きく成長すれば、また同じように伸びるだろう人が来てくれるし、そうやって成長していった人が今度は師範としていろいろなかたちで支援してくれるでしょう。修行道場は同期を大事にしますし、この場で出会った人たちは人生を通じた仲間になっていくと思います。そういう価値の提供が、会社にとって重要なことになるのではないでしょうか。

田中

学校に学年がある背景には、青年発達段階という考え方があって、同じ発達レベルの人たちが切磋琢磨し、次の学年に上がったらまた切磋琢磨し合う、そのなかでどんどん自分を高めていくとう理想に基づいて整えられた仕組みと聞きます。会社には学年というものはないですから、いきなりハードなところに放り込まれたりしますが、その経験についても修行からくみ取れるものがありそうです。

では最後に、産業僧というお立場から、人間はどのようにこの社会と対面していくのかをまとめていただけますか。

松本

今回、私のふるさとの北海道に呼んでいただきました。自分がいろいろと旅してきたこれまでのストーリーを、ふるさとに持って帰ってシェアするような感覚があります。このようなストーリーがあることが、人間が人間たるゆえんではないでしょうか。自分自身のルーツや心の引っ掛かりなどの感覚を大事にしていけることが、この先ますます重要になると思います。ふるさとの地で皆さんと時間を分かち合いながら、そう感じました。ありがとうございました。

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編集

さくマガ編集部

さくらインターネット株式会社が運営するオウンドメディア「さくマガ」の編集部。

※『さくマガ』に掲載の記事内容・情報は執筆時点のものです。

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