千葉県船橋市立船橋高校には、「演奏すると必ず点が入る」と言われる神曲『市船soul』が受け継がれている。在学中にこの曲を作った吹奏楽部の浅野大義(あさのたいぎ)さんは、病により20歳の若さでこの世を去った。
今年5月、大義さんの青春と闘病生活を描いた映画『20歳のソウル』が公開。SNSの口コミで広まり、ロングラン上映を記録した。10回以上観た人や、映画館に上映延長の要望を出した人も少なくないという。
今作の監督である秋山純さんは、大義さんの生き方を1人でも多くの人に伝えようとTwitterで積極的に発信。開放しているDMには、観た人から「生き方が変わった」などの言葉が続々届いている。秋山監督に、映画化の経緯や大義さんへの思いを語っていただいた。
秋山 純(あきやま じゅん)さん プロフィール
1963年生まれ。ドラマ演出家・プロデューサー・脚本家。テレビ朝日に33年間務め、スポーツ・報道・ドキュメンタリー・ドラマ監督・映画プロデュースと多岐に渡り活躍。30作品以上のドラマ制作に携わり、監督として多くのヒット作を手掛けた。2018年に独立し、テレビマンとしてのキャリアを生かし映像制作会社JACOを設立。アーティストのプロモーションビデオや企業CMを手掛け、舞台や映画をプロデュース・監督する。2022年5月に『20歳のソウル』が全国公開。
なぜか、「彼の物語は僕が撮らなければ」と感じた
――『20歳のソウル』は実話ですが、秋山監督はどのようなきっかけで浅野大義さんと出会ったのでしょうか?
2017年の4月、朝日新聞のコラムを読んだんです。それは、「『市船soul』を作曲した浅野大義くんが20歳で亡くなり、その告別式に164人の仲間が参列して同曲を演奏した」という内容でした。
興味を惹かれて調べたら、YouTubeで実際の告別式の映像を見つけました。吹奏楽部の顧問だった高橋健一先生が「大義の作った歌だ、明るく大義を送ってやろう! 行くぞ!」と指揮されて、164人の方が演奏して……。それを見た瞬間、「これは佐藤浩市さんだ!」と思いました。浩市さんとは何度もお仕事をさせてもらってるのですが、高橋先生の姿に浩市さんが重なったんです。
このとき、いろんなメディアが浅野大義くんのご遺族に作品化のオファーをするであろうことは想像がつきました。でも、彼の物語は僕が撮らなければいけない。なぜか、使命感のようなものを抱きましたね。
――それで、映画化に向けて動き出したのでしょうか?
いえ、すぐに映画化しようと思ったわけではありません。
前提として、僕は当時テレビ局員だったんですが、その何年か前に『ママが生きた証』というドラマを撮ったんですね。抗がん剤治療をしながら子どもを産み、その後亡くなった方の実話です。そのときご遺族の方に取材した経験から、「ご遺族の心の柔らかい部分に土足で踏み込むのはダメだ」と実感していました。
だけど僕はテレビ局の人間なので、僕が話を聞きに行くことで、ご遺族を傷つけてしまうかもしれない。そこで、一緒に仕事をしていた若手脚本家の中井由梨子さんに託しました。
――関係者への取材はどのようにおこなったのでしょう?
中井さんがSNSで高橋先生にメッセージを送ったところ、しばらく経ってから「今日だったら会えます」と返事が来たんです。吹奏楽部の合宿中なので、学校に来てくれたら会えると。
けれどその日は、中井さんがずっと勤めていた職場を辞めて、彼女の送別会が開かれる日でした。お偉いさんも集まるような貸切のパーティーです。けれど中井さんは送別会をキャンセルし、高橋先生のところへ行きました。翌日だったらもうダメだったと思います。
――その日、中井さんが高橋先生に会いに行ったからこそ生まれた作品なんですね。
音楽室で、中井さんはずっと練習を観ていたそうです。それで4時間くらい経ったとき、高橋先生が「あれ、君はなにしに来たんだっけ?」と(笑)。そこで中井さんが「私は大義くんのことをもっと知りたくて来ました」と答えたことから、交流が始まりました。中井さんはとても誠実な方で、その人柄ゆえに、高橋先生や大義くんのお母さんとも信頼関係を築いていったんです。
そして、中井さんの作・演出で『JASMINE(ジャスミン) -神様からのおくりもの-』という舞台公演をおこないました。舞台は映画とは内容が違い、大義くんと恋人と親友の3人の物語で、高橋先生やお母さんは登場しません。
僕は公演の前に大義くんのお母さんにお会いし、ご挨拶しました。高橋先生とも、舞台を見に来てくれたときにお会いして。それ以来ずっと、ものすごい頻度で会っています。
関係者のみなさんと密にコミュニケーション
――舞台化のあと、映画化までの経緯をお聞かせください。
まず、『20歳のソウル』の小説が出版されることになりました。小説ではさまざまな人物の視点から大義くんを描くため、中井さんがさらに関係者1人ひとりから深く話を聞いて。
僕も中井さんと一緒に、関係者のみなさんから大義くんとの思い出をたくさん聞かせてもらいました。それでみんなと仲良くなって、大義くんの彼女のバースデーパーティーもみんなで一緒にやりましたね。
――関係者のみなさんとの間に絆を構築したんですね。
高橋先生や大義くんのお母さんとも密にコミュニケーションを取っていて、小説の執筆は逐一「こういうふうに書きます」と報告していました。ほとんど「お任せします」としか言われないんですけどね。
だけど1つだけ、高橋先生が中井さんに書いてほしいと言ったシーンがあるんです。先生が最後に大義くんと会ったとき、お互い病気の話は一切せず、音楽の話だけして別れたそうなんです。それを書いてほしいと言われた。高橋先生にとって大切な思い出なんだろうな、と思いました。
――浅野大義さんにとっても、高橋先生の存在は大きいでしょうね。
大義くんが最期まで自分の命と向き合えたのは、高橋先生の教えもあったと思います。「高校時代は1回しかないから、その1回に吹奏楽部を選んだのなら完全燃焼しなさい」というのが市船の高橋イズム。いまというかけがえのない一瞬を大切にすることを教えられてきたのは、大義くんにとって大きかったんじゃないかな。
――そうして書かれた小説『20歳のソウル』は大ヒットしました。
幻冬舎の見城社長が人間ドラマとしての『20歳のソウル』に深く共鳴してくださり、幻冬舎で文庫化された小説は10万部を超えるベストセラーとなりました。見城社長のお力添えなしには、この映画は成立しなかったと思います。
小説がヒットして、いくつかの映画会社から映画化の話が来ました。だけど、話がスムーズに進んだわけじゃありません。
なぜかと言うと、「ラブストーリーにしたい」という要望が多かったんですよ。だけど僕は、大義くんの物語をラブストーリーにはしたくなかった。彼の生きた証は恋愛だけじゃないので……。そこは譲れませんでした。
コロナで撮影危機が起きるも、大義くんが守ってくれた
――浅野大義さん役に神尾楓珠(かみお ふうじゅ)さんを起用した理由は?
大義くんは、自他ともに認めていますが、少しチャラいところが魅力で(笑)。ファッションや髪型にもこだわりが深い人なんですよ。だから、国宝級イケメンの神尾楓珠くんなら、大義くんも納得してくれるだろうと。初めて楓珠くんに会ったとき、彼の目を見て「あぁ、自分のやりたいことをしっかり持ってる子だな」と感じ、即決しました。
また、大義くんの親友・斗真役にはAぇ! groupの佐野晶哉くんをキャスティングしました。当時の彼は、ドラム、ピアノ、作曲をこなす現役音大生。深夜番組で「暴走少年」なんて呼ばれてめちゃくちゃやってたんですけど、暴走したあとにスッと素に戻る瞬間があるんです。そのときの繊細そうな表情が斗真の印象にぴったりで、彼しかいないと思いました。
――撮影が始まってからのお話をお聞かせください。
高橋先生が市船の先生である間に撮影を終えたいと考えていました。というのも、撮影した3月で高橋先生が定年を迎えたからです。
しかし、コロナ禍で撮影ができない期間があり、無事に撮り終えられるか不安でした。この映画は、学校をお借りしたり、エキストラのみなさんにご参加いただいたりと、市船の協力あってこその撮影です。そのため1回でも撮影が中止になると、再度手配するのがかなり大変で……。
でも、3月の「これがラストチャンス」という日に緊急事態宣言が解除され、700人以上のエキストラが出演するシーンを撮影することができました。1人の感染者も出すことなく無事に撮影できたのは、大義くんが守ってくれたとしか思えません。
Twitterで積極的にファンと交流する理由
――映画公開後の反響についてお聞かせください。
熱心なファンの方に愛されている映画で、「10回観ました」と言ってくれた方が100人以上います。僕がTwitterで「今日は〇〇の映画館にいます」と発信すると、わざわざ来てくださった方も。
Twitterのダイレクトメールを解放して「意見や感想があったらください」と募ったんですが、僕のほうが泣きそうになるくらい、感謝の言葉をたくさんいただきました。そのすべてに返信しています。
――すべてに返信するのは大変じゃないですか?
リプライを含めると何万人もの方とやり取りをしたので、時間はかかりました。でも、大義くんの関係者のみなさんからこの物語を預かっている以上、僕にはこの映画を広める責任がある。だから、それまでしたことがなかったエゴサーチも積極的にして、『20歳のソウル』についてのツイートにはすべて「いいね」をつけています。最初の頃は、「いいね」をつけるだけで6時間くらいかかりました(笑)。
映画は制作と宣伝が明確に分けられています。しかしこの作品は、エンタメとしての一面より、実話を元にした大義くんの物語であることがもっとも大きい。自分の企画である以上は責任があるので、中井さんとも「最後の最後までかかわっていこう」と話していました。
――映画を観た人からの感想で、印象に残っているものはありますか?
映画館で声をかけていただいて、「うつ病で外に出られなかったけど、この映画に勇気をもらって復職しました」と言われたことです。その方は4回映画を観てくださったそうで、「大義くんの姿を見ると、僕も生きようと思うんです」と涙ながらに語ってくださいました。
それは一例で、他にも、親御さんやお子さんを亡くされたり、さまざまな困難を経験された方からメッセージをいただきました。観てくださった方の人生を少しでも変えられたなら、大義くんも喜んでくれると思います。
これからも「命」を撮りつづけたい
――次はどのような作品を作るのでしょう?
まだ言えないんですけど、次にやる大きな映画も、やっぱり命を題材にしています。僕は「命」を人生のテーマにしているんですよ。
――それはなぜでしょう?
僕は小学校2年生のときに父を亡くしているので、早くから「死」というものを意識せざるを得なかったんです。
たとえば、ゲームってすぐにキャラが死ぬじゃないですか。ゲームのキャラは再起動すれば生き返るけど、現実の人間は、死んだらどうしたって戻らない。その「戻らなさ」を、強く実感して生きてきましたね。
テレビ局にいたとき、シナリオ大賞の審査員をやっていたんですけど、人の死を軽く扱っている脚本には厳しい審査コメントを付けていました。物語に起伏をつけるためだけに登場人物を死なせる人がいるけど、僕はそれが嫌いです。人ひとりの命の重さに、正面から向き合いつづけたい。
「いま」は二度と来ない
――さいごに、読者へのメッセージをお願いします。
映画の中で、「高校時代は一度しかない」というフレーズが出てきます。だけど、高校時代に限定する必要はありません。何歳であっても「いま」は二度と来ないので、大切にしないともったいないと思います。
「今日1日は神様からのギフト」という大義くんの言葉があります。すべての人に、1日1日を大切に生きてほしい。いまを大切にするって難しいけど、それを意識するだけでも変わってくると思います。
(撮影:ナカムラヨシノーブ)