学生時代は英語に没頭した。大学卒業後は同時通訳をしていた。しかし「進むべき道は英語ではない」同時通訳の師匠の言葉で一転、医師を目指す。予備校に行かず独学で医学部を目指した。苦学の末、28歳で千葉大学医学部に合格。
東日本大震災での医療支援を経て、青森県八戸市で在宅医療のクリニックを開業。患者に寄り添い、オンラインコミュニケーションツールを駆使しつつ、圧倒的なスピード感で診療を進めていく。いやしのもりクリニックの院長先生、上田亮さんに同行取材した。
上田 亮(うえだ あきら)さん プロフィール
1964年生まれ。京都府出身。同志社大学入学直前の18歳の時、同時通訳の第一人者である松本道弘さんを知る。在学中は英語の勉強に没頭し同時通訳を学ぶ。ボクシングにも傾倒し、プロボクサーになることも考えたが網膜剥離により断念する。その後、独学で28歳で医学部に進学。千葉大学医学部卒業。医療法人康仁会西の京病院や気仙沼市立本吉病院勤務、やわたクリニック院長を経て、2018年12月に青森県八戸市に在宅医療をおこなう「いやしのもりクリニック」を開業。医師、いやしのもりクリニック院長(現職)
英語の同時通訳から医師の道へ
1冊の本がその後の人生を導いた。英語の同時通訳の第一人者、松本道弘さんの著書だ。柔道の猛練習をしながら一度も海外留学せず、同時通訳になった師匠の姿に憧れた。学生時代、英語の勉強に没頭しながら、ボクシングにものめり込んだ。プロボクサーを目指したが、2度にわたる網膜剥離で涙を呑んで断念する。同時通訳として過ごしていた20代に国境なき医師団の存在を知った。
同時通訳の師匠の松本さんは、独自の英語道を提唱していた。「英語を使う人間は、英語の世界にいるべきでない。英語だけの人間になるな」この考えに心酔した。「医師の道に進むことが自分にとって『松本英語道』の実現だ」。遅いスタートながら、医学部への進学を目指す。26歳のときだった。
数学がまったくできなかったが、予備校に行かず独学で勉強しようと覚悟を決めた。網膜剥離の入院時、同室だった瓦職人の親方のもとで日雇いをした。日銭を稼ぎ、同時通訳のアルバイトもしながら猛勉強を重ねる。努力が実を結び、28歳で千葉大学医学部に合格。
医学部の3年時、阪神大震災が起こる。テスト期間中だったが教授に頼み込み、正義感に燃えて駆けつけた。しかし現場で空回りし、何の役にも立たなかったという。
「正義感を振りかざし、張り切ってやると続かないのです。独善的になって自分が正しいと思ってしまう。周囲から浮いてしまい、逆に迷惑になるのです」自分の思いとは裏腹に挫折感を味わった。
東日本大震災のときは石巻の避難所で医療支援をおこなった。
「このときは『持続できる活動をせなあかん』そう思いました。エリートの先生が支援にくる。でも1か月たつと交代で、また別の医師が派遣されてくる。現場の看護師さんは指示には従いますが、1か月ごとに方針が変わったら現場は大混乱です。看護師さんも一方では被災者なのです。医師というのは周囲の人たちとうまくやることが大切なのです」
青森で在宅医療の道へ
石巻での支援活動後、1年半ほど気仙沼で活動した。そろそろ帰ろうと思ったが、せっかく東北にきたからには残らなくては。そう思ってやって来たのが八戸だ。勤務医で雇われ院長をしていたとき、患者が80人から150人に増えた。これがきっかけで2018年の12月に在宅医療をおこなう「いやしのもりクリニック」を開業した。
当時は1人ですべてを抱えていた。患者を診療し、カルテを書き、夜遅くまで処方せんを発行。往診の車も自分で運転していた。
診療中は保険薬局(処方せんにもとづく医療用医薬品を扱い、健康保険を利用できる薬局)の薬剤師から「疑義照会」が何度もあった。疑義照会とは、法律で決められている薬剤師の義務だ。薬品の数や投与日数は正しいのか、飲み合わせに問題はないかなど、投薬リスクを未然に防ぐ。
「処方せん中に疑わしい点(疑義)がある場合は、発行した医師等に問い合わせて確かめること (照会)ができるまで調剤してはならない」と薬剤師法で決められている。疑義照会があると、診療が中断する。一方、薬剤師も医師への照会が完了しないと、待っている患者に薬をお渡しできない。
処方せんの発行は負担が大きく苦労した。
「雇われ勤務医のときは、自分で発行していなかったので、その大変さがわかりませんでした。開業して自分でやると、それはもう大変でしたね。夜中の22時、23時まで何時間もかかって。ヘトヘトになりながら『もうアカン』そう思っていました」
「これでは続かない、つぶれてしまう」。苦しまぎれに生み出したのがオンライン薬剤師の仕組みだった。
Twitterで協力を呼びかけ、Clubhouseで話しているうちに手をあげてくれたのが、東京の薬剤師、橋川さんだ。病態生理(人が病気になったとき、身体機能がどのような状態なのか、異常の原因はなにか)がわかる病院の薬局勤務に加え、薬の種類や数について詳しい保険薬局での経験がある。さらに在宅医療の薬剤師の経験もある。まさに求めていた薬剤師だった。
在宅医療での薬剤師は通常、保険薬局勤務の薬剤師のことを指す。しかし、いやしのもりクリニックではクリニックの職員として専属の薬剤師がオンラインで勤務している。
「地方だと人を雇うことは大変なのです。しかし、オンラインなら全国から経験豊富で優秀な薬剤師を募ることができる。東京には女性の薬剤師も多く、在宅で子育てしながらオンラインで仕事ができます」
橋川さんは、いやしのもりクリニックの職員でありながら、一度も八戸に行ったことがないという。
薬剤師の役割
薬剤師の役割について橋川さんはスマホの画面を通して話してくれた。
「主な仕事は医師の先生と一緒に患者さんを診ることです。そして先生の指示に基づき処方せんを作成します。例えば、患者さんの「痛い」という訴えに対して、先生が薬を選びます。
思いつかれる薬が2、3種類としたら、薬剤師は5種類とか6種類に候補を増やすお手伝いをします。患者さんの状態によって最適な薬の処方提案もします。『この患者さんは肝臓が悪いので、こちらの薬のほうがおすすめですよ』患者さんにとって最適な薬の選択肢を増やすことが役割です」
オンライン薬剤師の利点を聞いた。目の前のパソコンで検索することで、正しい情報をリアルタイムで得られることだ。薬や病気に関する情報はどんどん進化している。記憶に頼るのではなく、いま正しい情報を追える。
橋川さんは、医師と違う視点で患者さんを診ることも大切だと話す。
「例えば『むくみ』という症状に対して医師は新しい病気を考えます。一方、薬剤師は病気の可能性も考えつつ、薬の副作用を考えます。病気の検査をしたが異常はない。投薬を止める選択で『むくみ』が消えた。これは患者さんにとっても利点になります」
オンライン薬剤師の仕組み
オンライン薬剤師のプラットフォームはセコム社によるクラウドの電子カルテとオンラインコミュニケーションツール(以下ツール)の活用だ。オンラインで利用できる電子カルテは、東京の橋川さんも、移動中の非常勤の医師も新幹線の中からアクセスできる。
診療ではリアルタイムで映像と音声を共有できるツールを活用。いやしのもりクリニックの医師、薬剤師、看護師は同じ「場」にいることで、迅速で的確な対応が可能だ。
患者の状態の確認ポイントは事前にまとめ、チーム全員に配布する。往診前に施設にもファックスする。施設の担当者が事前に確認しておけば、往診時にすぐに状況がわかる。
「往診の医師に言われてから、そこではじめて患者さんの状態を確認する必要がありません。お互いの時間を短縮できます。確認に手間取る無駄な時間は極限まで減らさないと、診療時間が延びてしまう」上田さんはそう話す。
上田さんは、実況中継さながらに診察していく。にこやかに患者さんの顔色や表情を確認し、タブレットで患部を映す。映像と音声がリアルタイムでオンライン薬剤師の橋川さんにも共有される。
テレビの実況レポーターを意識しているのにはわけがある。同時通訳をしていたときのことだ。
「私が通訳するときは誰も寝ませんでした。他の同時通訳者は、日本語から英語にした時点がゴールだったので聴衆は寝てしまうのです。私は医師兼同時通訳者なので、通訳しながら聴衆に『なるほど』と内容を理解してもらうことがゴールでした。その空間にいる人を意識し、オンラインでも伝わるように診察しています」
「Aさん、こんにちは。五木ひろし好きなんやね。五木ひろしの歌、聞いてる?」
「具合はどうですか?」
「ちょっとむくみがあるね」
上田さんが声をかけながら、患者の状態を確認し患部を診ていく。同時にスマホのスピーカーから薬剤師の橋川さんの声が聞こえる。投薬履歴と服薬状況がリアルタイムで報告され、薬の処方提案がされていく。看護師さんから足りない薬品の処方の要請が入る。
あたかも薬剤師の橋川さんも同行しているような臨場感だ。同時に橋川さんは東京の自宅でパソコンを叩く。クラウドの電子カルテを記載し、薬について調べながら処方せんを作成しているのだ。八戸と東京、650kmもの距離を飛び越える。タイムラグがなく、圧倒的なスピード感で診療が進んでいく。
往診の移動の車中は大切な雑談と情報共有の場だ。
ツールを介して患者の情報、投薬の確認や疑義照会、施設の担当者変更まで、あらゆる情報が即時に全員に共有される。時折、関西人の上田さんのギャグが炸裂し、車内は笑いに包まれる。
「大幅なタイムラグがなくなりました。クリニックに戻ってからカルテ記載と処方せんの作成をしていたときは深夜まで残業でそれは大変でした。診察が中断していた薬の疑義照会も、いまではリアルタイムで完結します」上田さんはそう話す。
橋川さんが補足する。
「薬の処方せんには患者さんの病名の記載がありません。そのため保険薬局の薬剤師は病名を推測しながら調剤しています。はたして患者の状態に適した薬なのか、疑義照会が生じる可能性があります。
いやしのもりクリニックでは、クリニック職員である私たち薬剤師にも電子カルテが共有されています。そのため患者の病名がわかるんです。クリニックのオンライン薬剤師が保険薬局の薬剤師に患者の病名や状態を伝えることで、疑義照会が激減しました。一方、患者さんに投与した薬の残量確認も煩雑です。保険薬局の薬剤師が確認するとタイムラグが発生します。私たちが往診中に済ませることで保険薬局の負担も減らせます」
遅い時間に処方せんを受け取ったらそこから調剤が開始される。薬剤師の帰宅も遅くなる。医師の指示とはいえ、保険薬局の負担も大きい。
いやしのもりクリニックのチーム運営
オンライン薬剤師の仕組みによって圧倒的なスピードで診療を進めていく「チームいやしのもり」
その運営にはキーワードがあった。「怒らないこと」、「笑いと雑談の大切さ」だ。
「怒らないようにすること。施設も保険薬局も至らぬこともあります。しかし、怒ってしまうと現場は萎縮します。大切な情報が医師に上がってこなくなる。自分で判断をしなくなり、なんでもかんでも、夜中の2時だろうが全て医師に確認を求めてきます。当然、医師の判断が必要なときもありますが、毎日これでは身体が持ちません。
怒らず教え導いていくうちにできるようになっていく。最終責任は自分が担い、メンバーが自律的に動けるようになること。診療の現場はシリアスでもありますが、楽しくやらなくては。チームのメンバーがフラットにものが言えるためには、笑いと雑談が必要なんです。だから僕はギャグを飛ばして人を笑わすのです」上田先生はにこやかにそう話す。
転機となった出来事がある。以前施設長を勤めていた介護老人保健施設に、ソリの合わないベテラン看護師がいた。あるとき、
「上田先生、それは違うと思います。脱水症状だと思います」患者に対する見立てが違っていた。
一理あると、その看護師の意見を受け入れた。結果、看護師の見立てが正しく自分の診断が間違っていたことに気が付いた。これがターニングポイントになった。独善的にならず、フラットに意見を受け入れる大切さに気がついた。経験が長い人は、患者と現場を知っている。その看護師からは最後は辞めないでほしいと懇願されるほどになった。
いやしのもりクリニックには、スラック休暇と呼ばれるユニークな制度がある。スラックとは、たわみや緩みを意味する。ミツバチの世界では働いていないハチがいる。彼らはスズメバチが襲ってきて集団に危機がせまると働き出すという。勤続日数にもよるが、有給休暇以外で月に数日休める制度だ。
「例えば、職員の女性はお子さんが急に熱を出したとき、自由にこの休暇を使えます。旅行に行ってもよいです。たわみや緩みを持たせて、チーム全体が回るようにしています」
診療の現場に同行するうちに見えてきたこと。それを5つにまとめた。
- チームワークを大切にし、笑って楽しく仕事をする。怒らない
- チーム全員でフラットに情報の同時共有をおこなう
- 発生したイベントにはリアルタイムで対応し、タイムラグを発生させない
- 雑談は大切な時間
- 無駄な時間を極限まで削減し効率化する
「やりたいこと」を「できる」に変える。いやしのもりクリニックのこれから
これからやりたいことを上田さんに聞いた。
「いま、横浜に第2のクリニックを作ろうとしています。青森に医者を呼ぶことは大変です。持続的な運営をするために、横浜から青森に医師を派遣するスキームを作りたい。八戸の在宅医療をいやしのもりクリニックでカバーしていきたいですね」
診療後に10kmも泳ぐ時があるという。上田さんはエネルギッシュなドクターだ。上田さんは人を惹きつける魅力に溢れている。チームのメンバーとはフラットに接し、人の意見を受け入れる度量が大きい。チームいやしのもりが八戸の在宅医療を担い、青森の地域に貢献する日はもうすぐそこかもしれない。