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休日に連絡してくる上司が絶滅するまであと数年
休日中の従業員に対して緊急連絡以外のLINEを送るのはヤメてくれませんか
わかった
このような会話が繰り広げられたあとで、高齢の影響か、電話とLINEは違うという認識からか、後期高齢者を含む高齢者への僕の配慮不足なのか、原因は不明だけれども、休日中会社上層部から従業員へ電話がかかり続けている。緊急なら仕方がない。しかしながら「火曜日のミーティングは何時だっけ?」「先日の会議の書記担当は誰だったっけ?」などなどの超どうでもいい内容の電話がかかってきて、会社上層部の間の抜けた声で休日気分は台無しになり、会社上層部へのヘイトが増大している。休日を上司の声に浸食されて、うれしい人間は少数派だろう。
それでも、会社や上司からの干渉で休日が台無しになる事態は少なくなっている。職場環境の改善や、ハラスメント対策によって抑制されているからだ。僕が働きはじめたころの社会に比べればずっと良くなっている。かつては、休日接待は普通であったし、上司に付き合わされてのゴルフもあった。断れるような雰囲気はなかった。そういう前時代の働き方が抜けていない人がいまの社会ではまだ少し残っているけれども、そういった方々はあと10年くらいで全員引退する年齢だと思われるので、しばしの辛抱である。
若いころの休日を後悔している。
僕は、約30年間ずっと会社員として働いてきた。いまとなっては手遅れだが、若いころの休日の過ごし方を後悔している。グダグダと浪費した時間は取り戻せない。若いころのグダグダも糧になる的な話は嘘である。グダグダはグダグダ以上でも以下でもない。ゴミだ。いまさら、「若いころにあれをやっておけばよかったチッキショー」と悔やんでもあとの祭り。当時のグダグダな休日の3分の1でも自分のために使っていたら僕の人生はかなり違ったものになっただろう。もっとも25年くらい前のグダグダ休日のなかでネチネチと日常の出来事をネット上に文章をアップしていたことが、令和時代の現在、このようにしてネットで文章を書く機会につながっているのだから、まったくの無駄であったわけではないけれども、それは結果論である。
なぜ、グダグダと休日を過ごしてしまったのだろう……。仕事が忙しく、日々消耗していたので、休日に心身を回復させる必要があった。また、厳しい上司やキツい仕事で仕事中は緊張しているため、休日は弛緩するだけ弛緩してバランスを取っていた面もある。自分なりにオンとオフのメリハリをつけていたともいえる。
いまよりも、その気になれば、オンオフをスパっと分けるのも容易だった。常時ネットに接続されているスマホをみんなが持っているいまのほうが会社や上司とつながりやすく、冒頭に紹介した会社上層部からのどうでもいい内容のコンタクトを受ける危険が付きまとう。当時はケータイが普及しはじめた時代である。「電波の届かない地点にいた」「電源が落ちていた」「自宅に置き忘れた」なーんていう言い訳を通すことができた。ケータイは現在のスマホほど生活に必要不可欠でもなかった。そのため、持ち歩いていない理由を偽ることができたのである。
また、若いころの僕がダラダラと休日を消費していたのは、いまほど他者と密接なつながりを持っていなかったからだ。積極性がなければ人とつながれない時代だった。いまは、特別な積極性は不要だ。スマホをぽちぽちやれば容易につながれる。当時はSNSで、楽しそうな他者の休日の過ごし方を見て「このままじゃいけない」と一念発起もしなかった。自分よりも酷い休日を送っている底辺同類人を見て「俺はまだ大丈夫だ」と安堵もしなかった。己を見直すきっかけ自体が少なかった。いまを生きるみなさまは、ネットを通じて世の中の充実した休日にアクセスして、「俺ヤバくね?」感を募らせ、休日を無駄に浪費しないようにしてもらいたい。
英気を養うのが休日なのか?
休日とは休む日である。仕事(学業/研究含む)に備えて、心身を休めておく日というのが一般的な休日というものだろう。間違っていない。休日に酒をがぶがぶ飲み続けてボロボロの状態になっていては仕事に支障が出てしまい、職場や学校で問題を起こし、周辺に迷惑をかけ、最悪、解雇されるなどして、生活に困窮するという事態を招いてしまう。また、疲労が蓄積した状態は病気や怪我の可能性も高まる。休日に、心身を休めるのはとても重要だ。
己を高める、スキルアップなどに使う休日もある。心身を休めるのがマイナスからの回復の休日であるなら、技術や経験を積む休日はプラスの休日になる。セミナーや講座に通ったり、独学でばりばり勉強したりするようなイメージだ。僕も、30代の一時期、グダグダした20代の休日を反省し、取り戻すべく、いくつかの資格取得のために休日を勉強に費やしたことがある。結果からいえば、いくつか資格は取れたけれども、20代のグダグダな休日を取り戻せたとはとてもいえなかった。
休日はこのようにマイナスからの回復とプラスの大きく分けて2つの種類に分けられる。だが、両者とも仕事のための休日という意味合いは変わらない。乱暴にまとめてしまえば、「休日は仕事より下」という考え方の上に立っている。多くの人は休日をそう考えているように見える。しかし、「休日は仕事のためにある」という考え方そのものが間違っている。それが30年会社員として働いてきた僕が到達した休日の答えである。普通の会社員が3日で到達する答えに30年かかってしまった。まじめすぎる性格がマイナスに作用してしまったのだ。
「仕事は休日のためにある」がファイナルアンサー。
「休日は仕事のためにある」ではなく「仕事が休日のためにある」。これがファイナルアンサー。仕事は、一般的に楽しいばかりではない。僕のようにすべての仕事を楽しくないと感じている人間もいる。人間は、楽しくないもののためには生きられない。仕事のなかに強引に楽しみを発見するか、仕事の外にある理由を楽しみの代替にするか、そうやって仕事に取り組んでいる。「生活のため」「家族のため」「世間体のため」という理由がなければ仕事をしない人もいるだろう(僕がそうだ)。
仕事に比べて休日は自由で楽しい。休日のために仕事をするほうが自然なのだ。休日は仕事のための休養期間ではない。主目的なのだ。楽しい休日のためというモチベーションがあるからこそ「仕事をがんばろう」「クソみたいなことばかり言う上司に耐えよう」「なかなか上がらない給与を我慢しよう」という気持ちが沸き起こってくるのだ。仕事のために仕事をがんばるなんてことはできないのである。休日こそが大事。大切な休日のために仕事を早く、楽に終わらせたいから効率化や省力化が進むのである。つまらない仕事が目的であったら、勤務時間内はダラダラと仕事をこなして就業時間が終わるのを待つだけである。
「仕事をがんばれるのは、休日があるから……そんなの当たり前だろう」という声が聞こえてくるようだ。しかし、そういう人は休日に対して真剣さが足りていない。仕事は休日のためにあると考えている人のなかで、休日に真剣に向き合っている人がどれだけいるだろう。気持ちだけで「休日大事」マントラを唱えているのは休日を蔑ろにしているのと変わらないのである。
休日の計画を立てていないのがアンビリーバブルである。仕事と同じレベルのスケジュール管理とタスク処理をしている人がどれだけいるだろう? たとえば「旅行へ行く」「ロックフェスに参加する」「推し活に夢中になる」といった大きな予定のある休日は誰でも事前に計画を立てる。シミュレーションをしている。しかしながら、大きな予定のない「普通の」休日は?
僕の若いころのように朝からテレビゲームで遊び、昼から焼鳥屋で酒をがぶがぶ飲んで、夕方からブックオフで中古の書籍とCDを漁り、夜はくだらないテレビをみながら尻をぽりぽりとかくように、一日を浪費しているのではないか。あるいはせいぜい炊事洗濯買い物といった最低限のルーティーンをこなして「私はしっかりと決められた休日を生きている」と自身に言い聞かせて納得させているくらいではないか。
休日に真剣に向き合うべきである。
「休日のために仕事がある」というのが真理であるならば、僕らはもっと真剣に休日と向き合わなければならない。先述のとおり大きな予定がある休日だけではなく、取り立てて予定や計画のない休日に対してもっと真剣に取り組むべき。ただでさえ一般的な週休二日制であるならば仕事と休日の時間的な比率は5:2、量的に休日は仕事に対して圧倒的劣勢にある。質的な向上がなければ圧倒的に量で優位に立つ仕事に飲み込まれてしまう。飲み込まれたら、休日は、量的に多い仕事のために心身の回復にあてる日へと堕落する。
平凡な休日こそ、仕事と同じレベルの綿密なスケジュール管理とタスク処理をすることをおすすめしたい。そうすることで炊事洗濯買い物のようなルーティーンにかかっている時間と手間を最小化でき、空き時間を生み出せるようになる。意外と使える時間、まとまった時間があることに気がつくはず。そして生み出した時間に予定と計画をガンガン詰め込んでいくのである。
詰め込むのは「ドラクエ3リメイクで遊ぶ」「サッカーのテレビ中継を観る」などくだらないものでもいい。大事なのは惰性に流されず、自らの意思で取り込むこと。そうすることで休日のクオリティは上がる。そして記憶に定着するはずだ。僕が若いころのグダグダな休日を悔いているのは、何をしていたのか思い出せないことがいちばんの理由だ。貴重な人生の一部を便器に流してしまったような気分なのだ。勉強しろとかまじめに生きろとか説教じみたことはいわない。休日は馬鹿なことやくだらないことをやってかまわない。ただ、計画的にバカをやることで人生を無駄にしている感はかなり軽減できると考える次第である。
DXや生成AIの活用で休日を充実させることに期待している。それらの研究開発で僕が不満に思っているのは、ほとんどが仕事に向けられている点である。仕事が楽になるのは重要だ。しかし、仕事は、よりよい休日を送るための「手段」なのだ。手段である仕事にDXやAIといった技術を活用するのは大変結構ではあるけれども、もっと直に休日をよりよいものにするような研究もすすめてもらいたい。たとえば、過去の休日の過ごし方を学習させて、後悔しない休日を心身の回復をふまえたうえで提案してくれるようなDXやAIの活用法が生まれてほしい。究極的には人間の代わりに働いて賃金を稼ぎ、人間が働かなくて済む毎日サンデー状態になるレベルまで持っていってもらいたい。いささかまじめすぎる研究者のみなさんには少しおバカを期待したい。よろしくお願いいたします。
執筆
フミコ・フミオ
大学卒業後、営業職として働き続けるサラリーマン。
食品会社の営業部長サンという表の顔とは別に、20世紀末よりネット上に「日記」を公開して以来約20年間ウェブに文章を吐き続けている裏の顔を持つ。
現在は、はてなブログEverything you’ve
ever Dreamedを主戦場に行き恥をさらす
Everything you've ever Dreamed : https://delete-all.hatenablog.com/
2021年12月にKADOKAWAより『神・文章術』を発売。
※『さくマガ』に掲載の記事内容・情報は執筆時点のものです。
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