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機械にできず、ヒトにしかできない「責任を取る」という仕事

どれほど優秀な機械が登場しても、なお人間にしかできないこと。

むろん、それは1つに限らないが、なかでも自分がもっとも大事だと思うのは「責任を取る」ということである。

 

モノとしての機械に加え、ソフトウェアや AI などにもいえることだが、技術の進歩が生み出したさまざまなものは現状、あくまで「道具」である。

たとえば、AIチャットが誤った答えを出してきたとしても、それは自動学習の積み重ねを経て AI が最適解と判断したものである。いまのところ最終的な正誤のジャッジは基本、ヒトがやらねばならない。

その答えをもちいて何か問題が生じたのなら、責任は間違いなく AI の回答を正しいと判断した者にある。

これは至極簡単な論理だが、だからといって世の多くの人々が実行できているかというと、筆者自身も含めて結構怪しい。

 

誰しも責任をかぶるのは嫌なもの。

仕事では大した業績を上げない一方、いざ何かをやらかすと華麗なムーブで逃げを打ち、責任回避のファンタジスタと化する人はどこの業界にも少なからず存在する。

そういう方は時にはヒトのせいにして、また時にはモノのせいにする。

ヒトなら反論をすることもあるが、モノはなにも言わない。

 

ゆえに、身近な例だと

「目覚ましが鳴らなかった」(から遅刻したのは私が悪いわけじゃない)

「別に大したことをしてないのに PC が壊れた」(からデータが飛んだのは私のせいじゃない)

などなど、モノに責任転嫁をするいいわけが横行しがちである。

 

結局のところ、モノのせいにしても何かが解決するわけではなく、むしろそのような思考パターンを持つことは無責任な人格形成につながる可能性があるため、非常にマイナスであると筆者は考える。

テクノロジーがますます進歩していくなか、自分でやるより機械に任せたほうが効率も上がるからよほどいい、という分野やシチュエーションが増えていくと予測される昨今。

せめてヒトとしてできること、つまり責任くらい背負うのが、われらホモサピエンスの矜持ではあるまいか。

 

ーーといったことをみなさまにお伝えすべく、責任を取ること、もしくは責任感の大切さについて語ってみたい。

間違いを認められない人に責任感は育たない

筆者は日本での出版社勤務時代、新人の面倒を見る役割をそこそこの年数務めた経験を持っている。

そのなかで感じたのは、自身の間違いを認めたがらない人が一定数いるということだ。

歳を重ねて頑固になったり、変なプライドを背負ったりしているベテラン勢ならまだしも、入社したてですでに謙虚さがなく、やたらと他罰的な人というのは、実にやっかいなものである。

 

たとえば、仕事上必ず先方に伝えなければいけない事柄、渡さなければならないデータをメールで送信する場合、相手に「送りました」の一報を入れるのが当然と筆者はかつての上司に教わってきた。

メールは時として、何らかのエラーで届かないこともある。

それは確かに送った本人のせいではないかもしれないが、必要なものが届かないという点において、受け取る側に非は一切ない。

 

また、相手からしてみればメールの送信エラーのせいと言われたところで何の解決にもならない。

すみませんで済む話ならいいが、損害につながったり、たくさんの人に迷惑をかけたりすることもあるわけで、そうならないための送信後の確認電話なのである。

 

この道理を説くとたいがいの人は理解してくれるのだが、

「いやでも僕ちゃんと送ってますし」

「自分悪くないっすよ」

といった感じで、それでもメールが届かないのが悪いと言い張るタイプは、はっきり言って厳しい。

 

確かにビジネスにおいては、一度非を認めたら最後、丸裸にされる可能性もあり、あくまで強気を貫かねばならないシチュエーションだってある。

しかし、組織に入ったばかりの人が「謝ったら負けだと思っている」といった姿勢を崩さないようだと、伸びはあまり期待できないし、大きな責任を伴う案件は任せられない。

 

もちろん、上司や同僚などから、身に覚えのない責任を問われることがあったら、声を大にして反論すべきだ。

だが、自分が間違っていたのなら、素直に認めて自らを正すしかない。

 

社内をぐるりと見渡してみればよい。

どこの組織にも一人や二人、下手すればそれ以上、自身が意思決定を下したにもかかわらず、下の人間に罪をかぶせるような人がいるのではあるまいか。

そんなふうには絶対になりたくないと思えるなら、あなたはきっと成長できるだろうし、モノに責任転嫁するような人間になることもないはずだ。

DX の遅れに対する苦言は責任転嫁ではなく正当な主張

さて、ここまで道具やツールのせいにするなかれという話をしてきたが、そこには多くの例外がある。

そのうちの1つが、設備や機材、ソフトウェアなどの問題やデジタル化の遅れのせいで、業務に支障が生じているケースである。

要するに、DX によって無駄な作業や危険なミスを減らせるのに、会社が対処しない場合で、これは是が非でも声を上げなければならない。

だって、そうしないと、いつまで経っても変わらないから。

 

筆者の経験から言うと、どうせ聞く耳など持たないだろうと黙り込むのではなく、煙たがられるのを覚悟で直言するほうが百倍マシと感じる。

そうすればワンチャン聞き入れられる可能性だってなくはない。駄目だったとしても組織が DX を怠ったツケが表面化した際、一体なぜそうなったのかということについて、「私、言いましたよね」というスタンスは取れる。

 

進歩を拒んだ責任の所在の明確化だが、むろん日本型組織の上のほうにいる人の多くは一般的に、「君の言うことが正しかった」「私が間違っていた」などと素直に非を認めたりしない。

だが同時に、そんな人たちでも DX という世の大勢には逆らえず、いずれあなたが諫言(かんげん)したことを実行せざるを得なくなる。

結局、誰かが動かないと物ごとは進まないわけで、経営陣の腰が重いなら、たとえ一介の社員の身であっても先んじて自分がまず流れに乗り、周りを巻き込んでいくしかないのである。

 

そこで気をつけたいのは、できることなら自分だけが突出して先行するのではなく、あくまで組織としての変化を促すことだ(非常に難しいが)。

会社が動かないからといって個人プレーでできる範囲で革新を進めると、「彼がなんとかしてくれた」と DX の必要性を甘く考える組織もある。

 

属人的な DX の取り組みは、その人が職場を去れば機能しなくなる。

実際、以前勤めていた出版社はまさにその典型で、システム管理からサイト運営、さらには各社員の PC の設定まですべてを担っていた人が会社に辞表を出したとき、ある上役は、

「君に突然辞められたらうちの仕事が回らなくなる。いくら何でも無責任すぎるんじゃないか」

と言ったそうだ。言うまでもなくこの場合、もっとも無責任なのは1人にすべてを任せてわれ関せずとしていた経営陣である。

それに比べれば、「メールが届かなかったの、私は悪くないですよね?」と言う人など、まだかわいいものといえるかもしれない。

 

かつて、某大手出版社で役員を務める有名編集者の方が、酒の席で筆者に対し、

「編集長の唯一の仕事はなァ、責任を取ることなんだよッ……!」

と言ってきたことがある。

 

実際のところ、編集長という職責にはほかにもなすべきことが多々あるのだが、そのお方は強調する意味であえて “唯一” と言い放ったのだろう。

つまり明らかな誇張なのだけれども、確かにそう放言したくなるほど、日本型組織には責任逃れに走る上役が多い、もしくは責任の所在があいまいになりがちというのは筆者も同意だ。

何かをやらかしたとき、部下や同僚に罪を押しつけるのも最低だが、物言わぬモノに責を負わせようとするのも、負けず劣らずひどい、というかダサい。

 

新たな情報技術によって生まれた革新的ツールが、急速に暮らしの中へ浸透していく今日この頃。

近い将来、「AI が勝手にやった」などと新たな形の責任転嫁を弄する人も現れるかもしれない。そのような方に影響されることなく、未来のある皆さまはぜひ、責任を担うことの大事さを胸に刻んでいただきたい。

 

執筆

御堂筋あかり

スポーツ新聞記者、出版社勤務を経て現在は中国にて編集・ライターおよび翻訳業を営む。趣味は中国の戦跡巡り。

※『さくマガ』に掲載の記事内容・情報は執筆時点のものです。

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