人生とは、思いもよらないひとことから展開するのかもしれない。オーダーシューズや革製品の製作、シューズのリペアを手がける天草製作所の西森 真二さん。広告代理店を退職し、40歳も間近になって路上の靴磨き人になった。「プライドを捨てどん底から這い上がってみよう」。歌舞伎町のホストクラブで靴磨きに励んだ後、靴作りを学びオーダー靴のビジネスを立ち上げた。事業の拡大とともに、デジタル化も進めた。そんな波乱万丈なストーリーを天草製作所(アマクサファクトリー合同会社)CEO 西森さんに聞いた。
西森 真二(にしもり しんじ)さん プロフィール
1969年、熊本県天草生まれ。福岡の大学卒業後、1991年に東京の広告代理店に入社。2007年、38歳で退職。路上靴磨きを皮切りに、製靴学校で靴づくりを学ぶ。靴修理会社で技術を学び、西荻窪に天草製作所を屋号とした店舗をオープン。2016年9月に注文靴と革小物製作、靴づくり教室に特化したファクトリーショップ、2017年8月に歌舞伎町靴鞄修理店を立ち上げる。2020年8月、アマクサファクトリー合同会社CEOに就任(現職)、2022年12月に故郷の天草に支店開設。
夜の歌舞伎町で靴磨き
「店の奥に連れていかれたときは心底ビクビクしました。生きて帰れるのかな。ボコボコにされたらどうしようって」
広告代理店を辞め、靴磨きの飛び込み営業をしていた西森さん。「ホストクラブ回りはこれで最後にしよう」。金縁の額にホストの顔写真が一面に貼られた階段をドキドキしながら地下への階段を下りていった。老舗のホストクラブ「愛本店」は欲望のネオン渦巻く新宿歌舞伎町の中でもひときわゴージャスな威容を誇っていた。
「ホストクラブには靴磨きのニーズがあるだろうと思っていたんです。当時、路上で靴を磨いて1足700円ほど。声をかけてくれるのは1日7人から8人程度でした。洒落で渋谷の109前や明治神宮の前にも座っていたし、大使館にも営業していました。でもお客さんは、なかなかつかなかった。昼の靴磨きだけでは食っていけません。それで夜の街で靴磨きをしようと思ったんです」
西森さんは熊本県の天草で生まれ育った。四方を海に囲まれ、温暖な気候と豊かな自然の幸に恵まれた島だ。熊本県には「肥後もっこす」と呼ばれる県民性がある。信教を貫いた隠れキリシタンのように自分の想いに頑固で真っ直ぐな人も多い。
福岡の大学に進学した当時、地元の大学進学者は同級生100人のうち約1割。40歳も近くなって、路上の靴磨きになると宣言した西森さん。「あんた、なんばしよっとか!」大学まで出してくれた親は呆れ「なして、いまさら?」と親戚中が仰け反った。
上京して広告代理店に就職
福岡の大学を卒業後、西森さんは東京にある広告代理店に就職した。まだまだバブルの残り香が漂っていた中、仕事は充実していたという。
広告に携わる身として冥利に尽きるプロジェクトは、ジョン・レノンのイラストを使った官公庁のポスターのコンペだった。クライアントからはよろしく頼むといわれたが、版権を持つオノ・ヨーコ側となかなか打ち合わせが決まらない。進展がなくしびれを切らしたクライアントが訴訟を切り出してきた。怯えた上司からは中止の指示が出たが、西森さんはそれを無視してオノ・ヨーコ側と交渉を続行。ギリギリで許可がおり、クライアントとの契約が締結できた。
イケイケでおおらかだった広告業界も、バブルが弾けると景気はどんどん悪くなっていった。先輩より結果を出していた西森さんだったが、査定は低い。会社も将来のビジョンを示せずにいた。そんな会社に西森さんはモノ申すようになる。
「会社辞めます。路上で靴磨きでもやります」社長に放ったひとこと
「この会社はこれからどうなっていくのか? 経営指針や5か年計画など、社長は何を目指したいのかを知りたかったのです。僕たちにも未来がありますから。でも、オーナーのワンマン社長から『明日もわからないのに5年先なんてわかるわけない』といわれてしまいました。自分は未来のために必死で頑張っているのに、納得いかず1人で毒を吐いていました」
自分が社長になれば会社を変えていけるのではないだろうか。当時の社長に「自分は社長になれますか?」と聞いた西森さんは、言下に否定された。
「それなら自分を変えるしかない。外に飛び出そう」。そう思った西森さんは、社長に向かって
「辞めます」と口にしていた。引き止めにかかる社長に「道端で靴でも磨きます」と放ったひとことが人生の転機になった。
「なぜか同業への転職は考えていませんでしたね。何かを捨てねば前には進めない、地べたから這い上がる覚悟がいるだろう、と。恥ずかしさやプライドを捨てて、「やりたくないことをやってみよう」と思いました。靴が好きとか靴磨きが好きというわけではなかったですね。谷深ければ山高し。一旦縮んでから高みを目指そうと考えていました」
みずから発したひとことから、39歳で路上の靴磨きになった西森さん。伝説の靴磨き職人、井上源太郎さんや靴磨きの貴公子、長谷川裕也さんにも教えを請うた。YouTube でも靴磨きを学んだ。
最後にたずねたホストクラブから道が開けた
しかし、昼間の靴磨きだけでは食べていけない。けんもほろろに断り続けられながら、夜の街で新規開拓を続けていたのにはそんな背景があったのだ。
「もう終わりにしよう」棒になった足で訪ねた歌舞伎町のホストクラブ「愛本店」。対応に出た内勤さんは「靴磨きはうちにどんなメリットがあるんだ?」と訝しげに問いかけてきた。
「お客さまをもてなすお仕事は、足元を綺麗にしなくてはいけません。ホストのみなさんの足元が磨かれていると、女性のお客さまは『綺麗な靴を履いている!』と喜んでくれます。お酒も頼んでくれますし、お店の売り上げも上がります」。西森さんは必死にプレゼンしたという。
「おもしれえな、お前さん。今日は専務がきてるから、奥にいる専務の靴を磨いてみろ」。第一関門を突破し、店の奥のラスボスの元へと通された。
早くも帰りたい気持ちになったが、意を決して無我夢中で専務の靴を磨いた。磨き終わった靴を見た専務は「おぉっ、綺麗になったな。それじゃ今日から頼むよ」とひとこと。商談成立だった。
「早速、トイレに続く廊下の一角を借りて靴磨きをはじめました。僕の好きなようにやらせてくれて、懐が大きいお店でした。ホストのみなさんも優しい人ばかりで、スーツ姿がビシッと決まり、社交ダンスの名手も多くいらっしゃいました。靴磨きの僕を対等に扱ってくれて、謙虚な人が多かった。でも、女性のお客さまには『なぜこんなところに靴磨きがいるのかしら?』と、不審に思われていましたね」と西森さんは笑う。
ホストクラブ「愛本店」は週に1度の出店だった。西麻布の会員制クラブでも働いた。「靴磨きができるバーテン」と書いた履歴書を送ったら、採用の女性経営者は小首をかしげてOKしてくれた。照明が少ない暗いホールでは、磨き上がりの状態を確認するのに苦労したそうだ。
「靴で生きていく」覚悟を決めた
「あるとき、お客さまから『これいい靴だろう?』といわれたんです。でも、自分は靴のブランドや靴の種類にちんぷんかんぷんでした。世の中には『ジョン・ロブ』や『エドワード・グリーン』などの素晴らしい紳士靴が数多くありますが、それすら知らずに靴磨きをしていたんです。恥ずかしいったらなかった。これではいかんと。そこで初めて靴への興味が湧いてきました。『真剣に靴を学ぼう』と思って、浅草の製靴学校に通うことを決めました。2007年のことです」
稀代の靴職人、山口 千尋さんが主宰するサルワカ・フットウェア・カレッジに入学した西森さんは、靴作りを学びはじめた。同期生のほとんどは20代。40歳に近いのは、39歳の西森さんともう1人、同い年の同期だけだった。
西森さんは不器用で、なかなか上手に靴を作れなかったという。眠れない日々が続いた。実習で作った靴は教室に並べられる。製作者の名前こそ明かされなかったが、いびつな形の西森さんの靴は笑いの対象だった。年下の同期の無邪気な笑いは西森さんの心にグサグサ刺さった。
「精神的にきつかったけれど、僕は学校の中で一番多くの靴を作ったと思います。苦しくても、靴で生きていこうと覚悟を決めたから。靴作りに必要なミシンや機械も買いました。そんなこんなで2年間で500万円くらい投資したんじゃないかな。厳しい授業に脱落する同期もいましたが、自分はくじける気持ちは無かったですね。熱量があった同期たちとは良き友人になりました。お互い支え合ってここまでやってこれました」
天草製作所の立ち上げ。オーダーシューズの受注を開始
2009年にサルワカ・フットウェア・カレッジを卒業した西森さんは、浅草のシェアオフィスで天草製作所を立ち上げ、オーダーシューズの受注と製作を開始した。ホストクラブ「愛本店」で靴を磨いたホストの人たちもオーダーシューズを作ってくれたという。
「屋号を天草製作所にしたのは、故郷の名に恥じない仕事をしようと思ったからです。退職して思いつきで靴磨きをはじめたとき、将来どんなことをするのかわからなかった。でも、そのときから屋号だけは天草製作所にしようと決めていました」
オーダー靴だけでなく、靴のリペア(修理)にもサービスを広げた。靴以外にも革製のトートバッグ、財布やパスケースなど、革の小物も作りはじめた。杉並区の西荻窪には1号店のリペアショップと2号店のファクトリーショップを開設し、革製品のスクールも始めた。
2017年には新宿歌舞伎町に3号店となる歌舞伎町靴鞄修理店をオープン。カオスが軒を連ねるゴールデン街の一角に、その店はある。
「お世話になった新宿歌舞伎町に恩返しをしたいと思ったんです。ホストクラブ『愛本店』は、靴で生きていこうとした僕を支えてくれたお店。ホストの人たちが靴を持ち込みやすい場所にしました。夜の街で働く人が来やすいように、開店時間も遅らせました」
事業の拡大とデジタルによる運営を導入
当初、西森さん1人で運営していた天草製作所は、店舗数もスタッフも増え、運営の効率化が必要になった。歌舞伎町に立ち上げた靴修理店舗の売り上げも右肩上がり。立ち上げのときは1人でなんとかなっていた運営も、効率化しないと回らなくなってきた。
ホームページで、オンライン販売のサイトを立ち上げた。革製品や小物などはオンラインでも購入できるようにした。
「営業担当は代表の私1人。駆けずり回っても限界があります。それでオンライン販売を始めました。専属のスタッフがいなくても商品が売れる仕組みが必要でした」
一方、オーダー靴の製造、リペアには膨大な材料や細かいパーツが必要だ。オーダー靴の製造に使う革は、フランス、ドイツ、イギリス、イタリアなどで作られている上質で高級な、なめし革だ。異なる場所にある店舗間で在庫データを共有しておかないと、無駄な仕入れが生じてしまい、余計なコストが発生する。
「革の種類だけでも50種類以上あります。縫製に使う糸も、太さや色の違いから50種類以上です。それ以外にもリペアに使うソール(靴底)などもさまざまです。いままではアナログで管理していたのですが、限界でした。スタッフの間で在庫データの共有が必要でした。デジタル化したクラウド上での在庫データの共有で、在庫の無駄を削減できました」
西森さんは SNS を利用した集客の仕組みも充実させていきたいと話す。
「YouTube や Facebook も手がけています。しかし、いかんせん自分1人でやっているので時間が足りない。コンテンツや集客方法の充実はこれからの課題ですね」
「Made in Amakusa」を世界に発信したい
2022年に天草製作所(アマクサファクトリー合同会社)は地域の雇用拡大を目的に、熊本県天草市と進出協定を結んだ。
「天草市にアトリエを作り、天草をモノづくりの街にしたい。天草をクリエイターの街にして、Made in Amakusa を世界に仕掛けたい。世界で戦える商品開発をしていきたいのです」
路上の靴磨きになると決めたときのこと。知人の大工さんに、足を置くための足置き台を作ってもらった。当時、モノづくりを始めるイメージはなかったが、なぜか「天草製作所」と書いてもらったという。
「この靴置き台は私の原点です。これを持ってニューヨークにもいきました。マンハッタンの街角にこの靴置き台を置いて写真を撮っていましたね。将来、自分がニューヨークで靴磨きをしているイメージをしながら。ミーハーなんです」。西森さんはそういって笑った。
製靴学校での靴作りは同期から笑われるほど下手だった。いまの天草製作所には、自分よりはるかに高い技術をもつ職人さんもいる。
「自分はクリエイティブな仕掛けを作るほうが向いているのかもしれなません。アイデアを出し、自分が指揮者になり、演奏家となる優れた職人さんやクリエーターさんと一緒にものづくりをしていく。そうした仕掛けを作っていきたいですね」。黒縁メガネの奥の目が輝いた。
天草製作所のホームページには、ニューヨーク出店をイメージしたCG画像がある。極めてリアルで、一見すると仮想なのか現実なのかわからない。「既に、ニューヨークにも支店があるのか」と思わせるほど。イメージ化して未来を先取りする西森さんのアイデアだ。
広告代理店の売れっ子社員から一転、路上の靴磨きへ。歌舞伎町のホストクラブで靴磨きを重ねながら、夢を実現してきた。「Made in Amakusa」をニューヨークで買えるようになるのは、そう遠くない日かもしれない。