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反対するなら代案を用意しろと言われたことはありませんか?
ミーティングや打合せの席で「反対するなら代案を出せ」という言葉を耳にしたことはないだろうか。
「この計画でいきたいと思う!」
「反対!」「断固反対!」
「反対するなら、代案を出せ!」「代案がないやつに反対する権利はない!」
こんな光景がいまこの瞬間も日本のどこかで繰り広げられているとなんともいえない気分になる。
僕は 30年近く会社員をやっているけれども、数えきれないほど「代案を出せ」という言葉を耳にしてきた。「意見を言え」「対案はないのか」といったバリエーションまでカウントしたら、数百回にはなるはずだ。
「耳にした」「その場に居合わせた」だけではない。僕自身、そう言われてきた。一方で僕自身も「代案を出せ」的な言葉を言ってきた。事前に何も知らされていない計画が穴だらけで杜撰なものだったとき、僕らにできることは、波風を立てないように賛同するか、経験から得た絶対にうまくいかない確信にもとづいて「この計画はうまくいかないと思います」と発言することくらいのものだ。反対の意を表明するほかに、スケジュールや予算といった、うまくいかない要因が見えているときは「時間が足りません」「予算が足りません」といって、それらを補足することもあるだろう。
だが、それら「反対」の多くは歓迎されない。「反対するなら代案を出せ!」的な言葉で言い返される。出せるわけがない。事前に話を聞かされていないのだ。不可能だ。そ
の場で思いついた拙い代案を口にしても「そんな雑な計画が代案になると思っているのか?」と突っ込まれて、怒りの炎に油を注ぐ結果になることは目に見えている。
「代案を出せ」と言う側になることもある。自分が考えた企画や立ち上げたプロジェクトは、自分がいちばん時間と労力をかけて考えてきたもの。いいかえれば自分がいちばん知っている人間なのである。その労力と時間をかけて、深く考えてきたものに対して、ただ「反対!」の声を上げられたとき、薄っぺらな根拠で否定されたとき、「それなら代案を出してみて。私の案を凌駕するすばらしい案を出してくれたらそちらを選ぶよ」と言ってしまう。それは仕方がないだろう?
なぜ「代案を出せ」という言葉の暴力が生まれるのか
「代案を出せ」は言葉の暴力である。なぜなら、(まともな)代案を出せない相手に言っているのがわかっているから。反撃ができない相手をボコボコにする、大人気のない行為である。それがわかっていても僕らはつい「代案出せ」を口にしてしまう。
理由は簡単。頭に来るからだ。ムカつくからだ。根底には「人の意見に反対するのならば、代わりとなるアイデアがあってしかるべきである」という他人に対する期待がある。その期待があるから、反対するだけなら子どもでもできる、という決めつけが生まれ、もし代案がないなら感情的な動機から反対しているだけなのでは? と疑いが生まれる。「同期社員同士の醜い争い」や「嫌いな相手を困らせたい」といったくだらない感情的な問題の帰結としての「反対」は存在する。まともな代案を出せない反対は、そういうものに見えてしまうのだ。
こちらがかけた労力と比べられる程度の労力をかけて反対してもらいたい、という等価交換を願ってしまう。こちらが労力100をかけてきたものを、労力ゼロで反対されて潰されたり停滞させられたりしたらたまったものではないからだ。労力が均衡していないから、不公平感を覚える。それがムカつきとなり、「代案を出せ」という言葉に変わる。とはいっても「代案を出せ」はかなりハードルが高い。事前に知らされていない情報などに対して、即座にそれなりのクオリティと精度の高い代案を生み出すのは至難だからだ。
「代案はないけど反対」という立場もありうる。たとえば「なんとなくうまくいかない気がするから反対する」は矛盾した行動ではない。人間の直観はあなどれない。それでも代案が求められるのは、先に述べたとおり、「反対するのなら、それなりの根拠とそれに代わりうるものがなければならない」という他人に対する期待があるからだろう。
代案のない反対は悪なのか
代案のない反対は許されないのだろうか。確かに自分の企画や意見に対してまともな代案がなくて反対されるのは気分がよいものであるはずがない。否定されているような気持ちになることもある。しかし、そういった感情的なものを切り離したらどうだろう? たとえば、とあるプロジェクトを進めていて、反対の声があがったが代案がなかったとき、感情的な「なんだよ。反対ばっかりしやがって。こっちはこの案に半月もかけているのだぞ!」という心の声を断ち切って、反対の声があがっているという事実にフォーカスしてみることは無益だろうか。
そんなことはない。代案・対案を示せない反対にも意味はある。案は示せないが過去の経験や計算をもとにした反対、ただなんとなく反対にも何らかの意味はある。違和感を覚えるから反対をしているのだ。違和感を覚えるということは、そこに何らかの問題があるということである。
反対は違和感のあらわれ。そう捉えれば、自分の意見に対する反対表明についても、いちいち頭に来ない。ムカつかない。車の走行中に異音がしたら路肩に停車させて点検をするはずである。反対は異音なのだ。提案やアイデアに対して「反対!」が出たら「点検しろ!」のサインなのである。
村上 春樹流の問題のとらえ方は参考になる
日本を代表する小説家である村上 春樹さんは『職業としての小説家』のなかで、書き上げた小説を読んでもらったときにあれこれと指摘されるとそのときはカチンと来るけれども、修正をしたあとで顧みると、指摘されるということは、指摘されるだけの問題があるものだと述べていた。何らかの違和感を覚える箇所というのは、何らかの問題を抱えていることなのである。仕事における企画案や提案に置き換えられる。何らかの反対表明が出てくるということは、問題があるということなのだ。
そう考えると、反対の意志が表明されたことにムカついて、「代案を出せ! 代案がないのに反対するな!」と激高して、そのまま突き進むのは黄色信号で交差点に侵入するようなものだ。たまたま事故に遭わず、クラクションを鳴らされずに通過できたのは、運がよかっただけにすぎない。仕事における工程で、黄色信号が点灯していたら、工程を止めて問題箇所を注意深く点検するはず。「反対!」の声を無視するのは、危険な行為なのである。反対されたら、感情的にならずに、なぜ反対の声が出てきたのか点検・チェックをするようにもっていきたいものだ。
そもそも「望まれるような代案」は存在しない
そもそも代案が存在すると考えているほうがおかしい。代案は代わりとなるレベルの内容とボリュームを持っていなければならない。冷静に考えてみてもらいたい。詳細なプランや大きなプロジェクトの代わりとなるものを、「代案を出せ」の一言で作り上げられるわけがない。労力と時間をかけて携わっている人間がそのことを一番理解している。仮に代案が出てきたとしても、同レベルのものが出てくることは、僕の経験では、ほぼゼロである。ほぼすべての代案は名ばかりの代案である。穴ばかりの代案を出されても、「よくぞこんな代物を代案として出してきたな」とムカつくだけなのである。
僕らは、他人が自分と同じだけの熱量をもって仕事に取り組んでいることを期待している。はっきりいって、そんなものは幻想だと捨て去ってしまって、代案のない世界を受け入れていくほうが結果的にうまくいく。
代案のない反対の表明を無視することは損失なのだ。村上 春樹先生が言っていたように、反対の表明があった箇所には、何か問題があるという認識をもって改善につとめていくことが建設的だろう。望んでいるようなレベルの代案は存在しないと諦めていこう。
感情が仕事の邪魔をする
感情が占める割合は大きい。よい面でも悪い面でもだ。今回取り上げた「代案を出せ」問題では、感情的なものがマイナスに作用している。僕らは感情的であるがゆえに、自分のアイデアや提案に反対されると多かれ少なかれムカつく。その反対が大した根拠もなく、さらに代案がなければ、反対イコール否定のように受け取って、ムカつきが加速してしまう。これらはすべて感情があることに起因している。
感情がなければ、「ほーん、反対の声があがっているなー、まったくムカつかないなー、問題があるみたいだから再検証しよう」という余裕が生まれ、冷静な思考ができる。相手が同じように感情を持った人間だから「反対するのは俺のことが生理的に嫌いだからだ。だからなんの根拠もなく反対の声をあげている。代案をあげられないのがその証拠だ」とムカついてしまう。そして残念ながら僕らは、感情に支配される人間なので感情を完全に排除できない。
このままでは反対の意見が表明され、違和感のサインが出ているのに、「代案を出せ」の一言でそれを押さえつけて問題を抱えたままプロジェクトが進行してしまう。
最新の技術を活かせば、反対を有効活用できるようになる
ではどうすればいいのか。テクノロジーで解決するしかない。
最近、僕の会社では契約書類などの AI によるチェックサービスをテスト導入した。複数のサービスを使って、精度と費用対効果を検証している。サービスはとても優秀でそのチェックの出来には満足している。打ち合わせやミーティングにもこのような形の AI を導入してみてはどうだろう。ザ・反対AI である。AI に提案やアイデアを読み込ませて問題の有無をチェックさせるのだ。現在の技術では完璧な代案をつくるのは難しいと思われるが(もし存在していたらすみません)、契約書AI チェックサービスを使ってみたかぎりでは、提案やアイデアの問題点や違和感の有無のチェックはできるだろう。感情を排除して違和感を検知してくれるはずだ。AI に「反対!」と言われれば、僕らは感情的なものではなく過去のデータとロジックで反対をしているのだな、と冷静に検証と改善へ移行できる。
仕事に感情は必要だ。熱意がなければよい仕事はできない。一方で、仕事のすべての進捗状況において感情が必要なわけではない。ケースバイケースだ。感情や熱意が邪魔になりうるときもある。反対の声に「代案を出せ! ないのなら口を開くな」はその最たるものだ。だが、AI技術を使うことによって僕らは感情を排した「反対」の声を得られ、素直に受け入れることができる。僕らも AI を活用することで、村上 春樹先生のような天才的な仕事ができるようになれるかもしれないのだ。
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執筆
フミコ・フミオ
大学卒業後、営業職として働き続けるサラリーマン。
食品会社の営業部長サンという表の顔とは別に、20世紀末よりネット上に「日記」を公開して以来約20年間ウェブに文章を吐き続けている裏の顔を持つ。
現在は、はてなブログEverything you’ve
ever Dreamedを主戦場に行き恥をさらす
Everything you've ever Dreamed : https://delete-all.hatenablog.com/
2021年12月にKADOKAWAより『神・文章術』を発売。
※『さくマガ』に掲載の記事内容・情報は執筆時点のものです。
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