ChatGPT 導入成功に必要なのは「伊達杏子」を振り返ることである

Instagram に AI美女画像が流れてくるようになった

Instagram に AI が作成した女性の画像が流れてくるようになった。現実離れした若い女性の画像である。文字情報で画像の内容を伝えるのは至難であるが「峰不二子のような」といえばニュアンスは伝わるのではないだろうか。

 

もっとも、そのような画像が流れてくるようになったのは、 Instagram のアルゴリズムがおかしくなったからではない。僕がここ数年間、1日もかかさず就寝前にグラビアアイドル画像を閲覧していた結果だ。Instagram 側で僕の傾向にあわせて「オススメ」してくれているのだ。そこに AI美女が混じってくることが増えてきている。

 

残念なのは、美の黄金比を体現した顔立ちや、峰不二子を超越したスタイルを目の当たりにしてもグッと来ないことである。良くも悪くも「スゴイ!」というファーストインプレッションで終わってしまうのだ。水戸黄門(再)で由美かおるさんの入浴シーンが中高年のみなさまにもたらしたグッとくる感がないのである。

対話型AI の物足りなさを感じた

ここからが本題になるが、最近同じようなことがあった。会社で対話型AI を試験的に使ってみた。すごさはわかったし、仕事に使えると思った。しかし、グッと来るものはなかった。AI美女と同じように「スゴイなー」のひとことで終わってしまったのだ。それから「でもさあ…」と物足りなさを語ってしまう。

 

対話型AI について、同僚や部下に感想を求めても僕と同様だった。この文章を読んでくださっているインターネットの向こう側にいるみなさまのなかにも、僕と同じような感想を持った人は相当数いるのだと推測している。「グッと来ない」のは、AIサイドの問題ではない。実際、彼ら(?)はよくやっている。我々人間が、仕事や『ゼルダの伝説』や侍JAPANメンバーの動向チェックなどで時間を溶かしているあいだも、昼夜休むことなく学習している。そんな AI の能力と活動にクエスチョンをつけられる人間は存在しない。そもそも、与えられた目的のために一心不乱に頑張っている AIさんを貶すような人物は人格としてどうかしている。

対話型AI に感じた物足りなさの原点は伊達杏子との邂逅にある

人間は、対話型AI をはじめとした人工知能と、今後もうまく付き合っていかなければならない。だからこそ、グッと来ない問題は、僕ら人間が解決していかなければならない。対話型AI を使ったあとのグッとこない感じに似たものを我々はすでに一度経験している。いまから 25年ほど前にあらわれたバーチャルアイドル伊達杏子こと DK96(※)との邂逅である。当時、「アイドルの未来像」「近未来アイドル」としてテレビや雑誌などのメディアを相当騒がせた。だが、25年ほど経過した 2023年。伊達杏子が表舞台に現れることは、僕の知っているかぎりではほぼない。

(※)参考:伊達杏子(Wikipedia)

 

当時を知る中高年に伊達杏子の話題を振れば、「あったねー」という言葉は引き出せるかもしれない。伊達杏子は、現在の AI美女と比較すると CG の質は確かに低いけれども、当時としては先端のものであった。しかし、僕ら人間は伊達杏子とのランデブーに失敗し、ブームはひっそりと終わってしまった。

 

伊達杏子にグッと来なかったのは、完璧すぎて、それを物足りなく感じたことが大きい。スキャンダルや欠点がない完璧なアイドルを物足りないと感じてしまう。それでいて推しのアイドルの交際報道に死ぬほど悲しんでいるのだから、贅沢な悩みだ。25年前、僕らはその物足りなさを克服できなかった。「うーん。なんか望んでいた未来型アイドルとはちがうのだよな」とか言って。欠点や失敗があったら執拗に指摘するというのに、完璧なものに対して物足りなさを感じる……人間は果てしなく、どうしようもなく、ワガママなのだ。対話型AI の回答が与えられた条件下ではほぼ完璧で適切なものであっても「その完璧さが物足りない。味気ない」というのだから本当にどうしようもない。

対話型AI 導入を検討してわかった物足りなさの正体

会社からの命で、対話型AI が事業に活かせるかどうか、可能性を調べてみてくれといわれた。なんとなく未来志向の経営陣の言葉に聞こえるけれども、対話型AI は活かせるかどうかを検討する段階は終わっていて、活用するのを前提に方向性を考えなければならない段階になっている。それにもかかわらず、競合他社に先行していると考えているのが残念でならない。

 

何はともあれ何人かの同僚と即席チームをつくって、対話型AI を試験的に使ってみた。テストに使ったのは ChatGPT と Bing である。アンケートの要約、顧客からの問い合わせ対応、今後の経営戦略、営業の効率化・能率化について、過去のケースと現在の懸念事項を質問してみた。

 

結果については企業秘密にかかわるのでここでは具体的に明かさない。ひとことでまとめてしまうと、要約や問い合わせ対応の回答は、少しおかしな部分があるので修正を加えれば使えるレベル、そのほかについては、無難で当たり前の回答に留まった。全体としては、多少の不自然さが残るものの、僕が勤めている中小企業のような、すべての業務にマンパワーをかけられない企業を救うものになる可能性は感じた。

 

すごさも理解できたが、一方で、冒頭からお話させていただいてきたとおり、グッと来るものがなかったのも事実だ。なぜか。ChatGPT の作成した回答がお上品で無難なものだったから? ときどき明らかな間違えが含まれていたから? 人間の働き方の行く末に絶望したから?

 

違う。それだけではない。

 

対話型AI は完璧ではないことは重々承知している。近い将来、実用レベルを満たす完全体になるのは間違いない。だから、性能や実用性についても可能性を考慮して見ているので、現時点での結果にがっかりしたのではない。グッと来なかったのは、質問文を考えて作成する側、これまで見て見ぬふりをしていた、あるいは、意識しないでいられた、僕ら人間の能力の低さに直面させられたからだ。

 

「簡潔な文章」で「必要十分な情報と条件を与え」かつ「誤解を招かない言い回し」で伝えなければならない。相当高いレベルの質問力と文章作成能力が求められるのだ。率直にいってコレジャナイ感がした。AI に寄り添った質問を、時間をかけて作成するのなら、その時間と手間をかけて自ら答えを見つけたほうが早いというのが率直な感想であった。

 

たとえば、僕が対話型AI に求めていたものは「楽に契約が取れる方法」という質問に対する適切な答えであった。ファジーで思慮の浅い質問から、AI が深読みをして競合他社を出し抜ける戦略とアイデアを弾き出してくれる……そういうものを望んでいた。その点については正直、少しがっかりした。しかし、僕を本当に落胆させたのは、対話型AI が僕ら人間に質問力などの向上を求めたからである。いいかえれば、「もっと出来るようになりなさい」と AI から告知されたことに落胆したのだ。効率化と能率化のための対話型AI 導入とは、仕事を楽にするためにほかならない。命令をしてあとは昼寝をしていれば仕事が終わっているのが理想。AI が適切な回答を出すために、人間が質問力を向上させなければならないというのは僕としては本末転倒なのだ。

伊達杏子が受け入れられなかったのは僕らが彼女に合わせて自分を変えられなかったから

20数年前の伊達杏子が受け入れられなかったのは、僕らがバーチャルアイドルを受け入れるように意識を変えられなかったからだ。伊達杏子のいま見るとしょぼい CG に落胆したという側面も無きにしもあらず。しかしそれより、バーチャルアイドルを普通のアイドルの延長線上にあるものととらえて、まったく別の概念をもつ存在としてとらえられなかったのが大きい。僕らは己を変えられなかったのだ。スキャンダルやプライベートのないバーチャルアイドルを完璧なアイドルではなく物足りない存在ととらえてしまっては、新しい文化は生まれない。

 

対話型AI を少しかじってみてわかってきたこと。AI が僕らの生活や働き方を変えるのは間違いない。ただし、そのためには僕ら人間サイドが変化しなければならない。対話型AI に僕らが望んでいる回答を求めるならば、僕らも質問力をアップさせなければならないように。

 

これは変化を嫌うアラフィフの男の独り言である。僕よりも若い世代の人たちには、AI が人間に求める変化に対応して、効率的で、楽でよりよい職業人生を送ってもらいたい。伊達杏子を失ってしまった僕の世代にはできなかったけれど、いまの若い世代の人たちは情報の扱いもうまいし世の中の変遷に対応する能力も高いので、うまく変化してほしいものである。

AI はこれまで求められなかった能力を向上させてくれるかもしれない

AI との付き合いは、人間に変化をうながして、これまで(それほど)求められてこなかった能力を向上させるきっかけになる。安易に「AI で仕事が楽になる」「サボれる!」と考えている人は時代についていけなくなってしまうので気をつけてもらいたい。僕も自分を変えていきたいと考えている。とりあえず、 Instagram に流れてくる AI美女の画像をみて、グッと感じられるような感性を身につけていくことからはじめたい。

 

さて、ここ数か月、対話型AI の登場と普及でぐっと AI が近くなった感がある。この流れはさらに加速していくと予想されている。正確で早くて勤勉。AI の特性は日本人の特性と合致している。そのうえ AI のほうがより正確・高速・勤勉。その点で AI は人間を凌駕している。ライバルにすらならない。

 

その結果として、人間が関与しない、AI が主となる製品やサービスが増えていく。安価で品質のよいものが市場に出てくる。人間が関与した製品やサービスは、高価なうえ品質が劣るものになるかもしれない。そういう時代になったとき、ひとりの消費者として人間が関与した不正確で遅くて、かつ、高い製品やサービスを買うだろうか。口先では「やはり人の手によるものは温かみがあって一味ちがうよねー」とかいっても、「値段が安いうえに精工にできている AI製品マジ最高」といって、AI製品を購入する流れが主流になるはずだ。

AI の仕事と人間の仕事は共存できる

とはいえ、かつての伊達杏子を受け入れられなかった僕ら、変われなかった僕ら人間の一部には、うっすらと AI に対して不信感を持っている者もいる。「できることなら AI の入っていない製品やサービスを手にしたい」などと、昔ながらの製法で栽培されている自然食品を買い求める人たちのようなことをいう人たちも一定数あらわれるはず。その流れで、遺伝子組み換えをしていない表記のように、商品やサービスには「AI がタッチしていない」認証マークのようなものが貼られるようになるかもしれない。

 

AI が関与しない製品やサービスは滅びない。趣向品や高級品として生き残っていく。あるいは、可能性は低いけれど「人間から働く場所を奪うな」的な考えのもと、AI が排除される未来もありうる。いずれにせよ、AI によって社会や働き方や生活を変えるためには、AI の性能向上よりも、まずは僕ら自身が AI を受け入れて AI の求めるものを提示できる能力と意識を持つように変化することが必要になる。逆にいえば、AI が今後どのようにかかわってくることになるのか、未確定ではあるけれども、変化にあわせて自分自身を適切に変化させることができれば、必要以上に AI が普及した社会を恐れなくてすむはずだ。

 

対話型AI をかじってみてわかったのは、人間が万能ではないように AI も万能ではないということだ。お互いを補完するような形で共存することができればよいだけのこと。仕事面では面倒くさい業務やルーチンワークや業務の大半は AI に任せて、人間は AI に与える課題や処理を考えるのが仕事になる。AI から適切な回答を得る能力(質問力のようなもの)が高い人材が重宝されるはずだ。僕らにできることは、真面目に働きつつ、近未来がどう変わっていくのかよく観察していくこと。そして人間と AI、双方の利点と欠点があることを理解して、盲目的に AI 最高! AI 万歳! というスタンスにならないことである。僕はそういう考えのもと毎晩 Instagram に流れてくる人間と AI の美女画像を眺めて、双方のよいところがようやく見えてきたところです。そしてときどきでいいので伊達杏子こと DK96 の存在を思い出してあげてください。以上。