「私を課長にしてください」と部下にいわれた経験を持つ僕が、正直ベースで役職と人事について話そう

その人にあった「ちょうどよい役職」は存在しない

20数年の会社勤めのなかで、役職や肩書についてわかったことがある。役職を崇拝してそれを得るために何でもするような人がいる一方で、まったく意に介さない人がいること。そして、能力や経験や実績にふさわしい役職につくのは、とても難しいということだ。

 

誤解を恐れずにいってしまうと、その人にあった「ちょうどよい役職」というものは存在しない。なぜなら、役職に就いたときに、文字通り「自分にちょうどよい立場だ」と安堵するようでは、ちょうどよい役職とはいえないからだ。ちょうどよい役職だと思った瞬間から退化がはじまる危険性をはらんでいる。

 

もちろん、与えられた役職に責任と意義を感じて、自発的に役職に求められた職務をこなしたうえで、求められた以上のプラスアルファをやってしまう人もいる。だが、地の底のような社会人生活を送ってきた僕の経験からいわせていただくと、そのような人物はきわめてまれで、傑物である。そもそも、そういう人物は役職にかかわらず、自分に与えられた環境で出来ること、求められること以上をやってしまう優れた資質をもった人なので、役職は関係ないのである。

混乱をもたらす役職名はある

役職名はシンプルであるべきだ。誤解を招くからだ。責任の所在がわからない役職や肩書は、トラブルのもとであり、トラブルを大トラブルにダウングレードするものであり、無駄のもとだ。できるかぎり一目で、序列が明確で、責任の所在がわかるほうがよい。

 

以前、といっても平成10年代の大昔だけれど、とある顧客との打合せ中に、先方のチームの人たちがぞろぞろと現れて名刺交換をしたことがある。彼らの出す名刺には、副部長、部長代理、部長補佐、部長見習心得、室長といった役職が明朝体で印刷されていた。打合せは、先方側の問題によるトラブルの解消を目的としたものであったのだが、こちらから見て責任の所在がわからないうえ、本人たちの間でも話題のたびに「この件は部長代理が」「いやいや副部長でしょ」「とりあえず室長が」など責任高速パス交換会話がはじまるのだからたまらない。ややこしい役職名がもとで彼ら自身が混乱しているように見えたものだ。

 

混迷が加速度的に進んでいる昨今は、当時よりも役職界の混乱が悪化している。グローバル展開のためなのか、見栄を張りたいのか真相は不明であるが、英語表記、カタカナ表記による役職が増えているからだ。僕の偏見かもしれないが、自称クリエイティブな仕事をしている人たちにおいて、その傾向は顕著だ。時代の流れだから仕方ないとはいえ、役職の表記からだけでは、責任の所在と序列がまったくわからない状態になっていることがある。

グローバルな役職名で混乱が加速する可能性

先日、会社のウェブサイトのリニューアルについて制作会社の人たちと打合せをしたときである。クリエイティブな仕事をしている方たちなので、僕らのようなフケのついた七三分けにスーツ姿のサラリーマンスタイルではなく、彼らはシャレ乙な髪型、小粋なジャケットに白パンツといい感じのスニーカーといったナウいスタイルでキメていた。彼ら4人のクリエイティブな名刺にはクリエイティブな役職が印刷されていた。チーフクリエイター、クリエイティブマネージャー、クリエイティブディレクター、ディレクターである。僕は長年の会社員生活で培養してきたカンで、彼らの序列を推測した。

「チーフとはすなわち長。つまりチーフクリエイターはこのチームのなかのリーダーであることは疑いようがない。つまり序列1位。ディレクターはシンプルすぎる。だから序列は4位」というふうに。

 

問題はクリエイティブマネージャーとクリエイティブディレクターの序列、2位と3位である。テレビ制作の場ではアシスタントディレクター、すなわち AD は雑用に追われているという話を何度も耳にしている。一方でマネージャーという役職については、運動部のサポートをするマネージャーのイメージから、我々はなんとなく縁の下の力持ちな印象を抱きがちである。

 

社会人経験のある皆さまならご存じのとおり、ビジネスではマネージャーという役職は比較的高位の役職である。この事実と AD雑用説から導き出される解は、「クリエイティブマネージャーはクリエイティブディレクターよりも上に位置する」となる。なお、マネージャーなのかマネジャーなのか、我々日本人はそろそろ表記を固める必要があるのだろう。個人的には、マネジャーと発声するときに気恥ずかしさを覚えてしまう。理由はご想像にお任せする。

 

このように論理的に分析した結果、序列は、上からチーフクリエイター、クリエイティブマネージャー、クリエイティブディレクター、ディレクターの順になる。

……はずであった。

 

上記の序列を頭の片隅において打合せをしていたのだが、どうも様子がおかしかった。こちらから何らかの決定を促したとき、序列最上位であるチーフクリエイターを見つめて話かけたが、当のチーフクリエイターは「それは私の担当ではない」とでもいうふうに、並んでいるチームのほうへ視線を送るのである。

 

また、もっとも序列では最下位にいるはずのディレクターの人が、「この件はどうなってるの?」「先方が答えを待っているから」と命令口調でチーフクリエイター、クリエイティブマネージャー、クリエイティブディレクターに話しかけたりしている。この会社は海外企業にならって肩書を英語調に統一しているが、業務遂行においては「飲みの席だけは無礼講」のジャパニーズスタイルを取り入れているのかもしれないという疑念を持った。

 

残念ながら、僕が論理的に導き出した序列はまったくのハズレであった。

 

彼らの序列の正解は上からディレクター、クリエイティブマネージャー、クリエイティブディレクター、チーフクリエイターであった。クリエイティブディレクターがディレクターより下位に位置することに不自然さを感じたが、そう決められているのだから仕方がなかった。このようにわかりにくい、紛らわしい役職名をつけることは仕事を円滑にすすめていくうえで思わぬ障害になりかねないのだ。各企業には、カッコよさやグローバル展開という観点だけではなく、シンプルイズベストな役職名をつけるように求めたい。

ちょうどよい昇格人事も存在しない

僕の会社員経験には、ちょうどよい昇格人事は存在しなかった。どのような昇格人事であれ、実績や経験に加えて、会社や上司からの期待値が込められているからだ。期待値は周囲には見えない。それゆえに、多かれ少なかれ「なんでアイツが部長になるんだよ」という声が発生する事態は避けられない。全員が納得するような期待値はないからだ。僕が営業部長になったときもそういう反応が見られた。「なんで外様のアイツが」という声を飽きるほど聞いた。

 

昇格人事には「部長にすればこれくらいの仕事はやってくれるだろう」という期待値が込められている。そうした期待値はいちいち周知されない。そのため、人事に否定的な立場を取る人からは「なんでアイツが」という声があがってしまう。

 

しかし、現代はコンセンサスの時代である。どんな些細な事項にもコンセンサスが求められる。役職についてもコンセンサスが求められている。そしてコンセンサスを得るために必要なものは丁寧な説明である。昇格をはじめとした人事がおこなわれる際には、バカがつくほど丁寧に説明すればよいのではないか。たとえば辞令の脇に、「この人物をこの役職にした根拠(実績と能力)/期待すること/会社からどれだけ愛されているか」を列挙するのである。なんだか説明過多でバカみたいだけれども、日本の会社員は上から説明されたことには従順なので効果は絶大だと思われる。

 

このように昇格や役職といった人事に係る問題のほとんどは、人事が受け身のイベントであることに起因している。昇格とは、いわば会社上層部からの指名である。本人の意志がその指名に影響する可能性はあるが、いくら自分自身が昇格してほしいと祈願し、その願いが届いたとしても指名には繋がらないことの方が多い。全員の昇格願いを受領していたら、会社組織は終わる。妖怪人間ベムが「はやく人間になりたい」と訴えてもそれを受け入れるわけにはいかない。番組が終わってしまうからだ。

 

思い切って人事を自薦式にしてみてはどうかという意見もあるかもしれない。受け身から能動的なイベントに変えるのである(先進的な企業は導入しているかもしれない)。「自分は経理部長にふさわしい技術と人望を兼ね揃えた人物である。それゆえ経理部長にしてください」的な自薦によって人事をおこなうのである。人事が受け身イベントであることのアンチテーゼではあるが、この自薦式人事の先には確実に地獄しかない。

「私を課長にしろ」と訴えられた

数年前、前職でこんな出来事があった。某部下氏から、ちょっといいですか、と普段は誰も使わない非常階段の踊り場に呼び出されて、「私を主任にしてください」と自薦されたのである。

 

彼はノルマ未達成が続いていた状況なので「さすがにそれは無理」と光の速さで判断して、「それは無理です。現在、営業部には主任という役職はありませんから」と断った。すると彼は「主任が無理でしたら課長や次長でもかまいません」となぜか主任より上の役職を持ち出してきたのである。反乱でも起こすつもりなのだろうか。

 

彼がピュアな願いから主任への昇格を訴えていたのならよかった。昇格して課長になれば、課長という役職のもつ責任感によって、うだつのあがらない自分が引き上げられると考えていたならよかった。ところが現実はシビアだった。

 

「私がお客さんから信頼を得られないのは役職がないから」が彼の言い分であった。

 

「役職があれば俺はできる」「ノルマを達成できないのは役職がないから」彼は真面目にそう考えているようであった。そのような考え方をしているからダメだということがわかっていなかった。

 

当該部下氏を課長にしたら、地獄が待っているのは誰の目にも明らかであった。まず僕は「昇格に値しない人物を昇格させたボンクラ上司」として同僚や部下からの信頼を失う。同僚たちは「なんであの人が課長になるんだ」「ほかに人材がいるだろう」と人事に対する不満を持つ。最悪、「こんなめちゃくちゃな人事をする会社にはいられない」と絶望して辞める者もでてくるかもしれない。そして当該部下氏は周囲から孤立することは免れず、業務遂行のうえでのサポートを得られずにさらにノルマ達成が困難になる。役職を与えられた分ダメージは大きいものになる。このように、誰も幸せにならない。地獄だ。

 

自分を正しく客観的に評価することは非常に難しい。俺を昇格させろといえてしまう人は間違いなく自己評価高杉君である。高すぎる自己評価をベースに人事をおこなっていれば、その会社は滅びる。

 

余談だが当該部下氏が、役職があれば仕事ができる、ノルマを達成できるようになる、と執拗に食い下がってくるので「じゃ、給与と待遇と責任と義務はそのままで役職名だけ与えるというのはどう?外部からみれば課長だよ」と言ってみたら「責任と義務がなくても給料は相応のものをいただきます。なぜなら規則で定められているからです。なぜなら私の最終的な目的はノルマ達成ではなく給料をあげることだからです」と真顔で返された。自薦で給料が上がる会社が実在するなら、なんて素晴らしいことでしょう。

結論、役職人事に DX や AI を導入してみては?

人事は難しい。繰り返しになるが社員同僚全員が納得するような人事は存在しない。昇格人事となると能力や実績に加えて、「上司から好かれている/嫌われている」という上司ポイント、「なんであいつが昇格するんだよ」という嫉妬といった感情的なものが入ってしまうからである。僕たち人間には感情があるから、人事にも感情が入ってしまうことがある。または感情が排除された人事であっても、何らかの感情が入っているのではないかと見られてしまう。

 

極論かもしれないが人事から人間を排除するしかないのではないか。

 

この際、人事については AI や DX を全面的に活用して、人間の主観や感情を排除してみてはどうだろう。たとえばあらゆる業務データをデジタル化して、それをもとに AI が、対象人物の能力や経験や実績や期待値を判断して人事をおこない、決裁手続きだけ人間がおこなうようにする。辞令も AI から出すようにする。AI から当該人事の理由を周知されれば、人間の感情が切り離されている分、「過去のデータと未来の予測値から AI がはじき出した人事だよね」と僕らは納得せざるをえなくなる。

 

正解ばかりの人事がおこなわれていると会社の面白味がなくなってしまいそうではあるけれども、めちゃくちゃな人事がおこなわれるよりかはずっとマシだと、酷い人事によって適性のない人物を上司にされて苦労した経験のある僕は思うのである。