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「ICTがなければ、私はいなかった」中国在住のジャーナリストはどうリスキリングを果たしたのか

人生の喜びとは一体、どんなときに感じるものなのか。

家族を持つこと、仕事で成功を収めること、大金を稼ぐこと、はたまた生涯をまっとうすること……

むろん価値観は人それぞれであり、何が正しい答えであるかを明確に言うのは難しい。

 

だが、己のそれほど長くない人生を振り返ったとき、筆者は「やりたいこと」を「できる」に変えることの中にこそ、歓喜や幸福の源泉があると考える。

きっと自分だけではないと思うが、成長を体感できたその瞬間、脳汁がドバッと溢れ出てえもいわれぬ充実感や多幸感に包まれるのである。

 

最初からできる人、生まれつき人が羨むものを持ち合わせている人には味わえない、持たざる者だからこそ得られる喜び。

それは他者や天運によって与えられたものに比べ、圧倒的に自分自身を肯定する。

強がりに聞こえるかもしれないが、願望→努力→実現というプロセスを経て何かを獲得することに勝る喜びはないと本心から思うのだ。

 

ここではなぜそのように考えるようになったかということについて、自身の体験を交えつつ、さらには ICT というツールが果たす役割と合わせて語ってみたい。

あなたに自信を与えるのは他者の値踏みより自己評価

「いやはや私、最近自転車に乗れるようになりまして」

 

子どもが言うならまだしも、大人が口走っていたらかなり特殊な方と見られるであろう、こんな言葉。

だが、自分は絶対に笑わない。

たとえ他人からすれば他愛のないことであっても、できなかったことを自力で可能とした喜びに水を差すのは、いかにも無粋であると思うからだ。

 

自分自身、人生折返しちょっと前くらいの歳で、まったくのゼロから中国語の学習を始めた経験がある。

きっかけはささいなことで、出版社勤務時代に華僑の方が代表を務める会社と付き合いがあり、その方との日本語のコミュニケーションに難があったため。

それまで中学、高校、大学と長年英語を勉強してきたが、さっぱりモノにならなかった自分。

ところが、中国語とは日本人にとって学びやすい言語であるせいか、語学の才能が皆無の自分にとっても、学習するにつれて成長していく確かな手応えが感じられた。

 

昨日までわからなかったことが、今日はわかる。

いままで意思疎通できなかった相手と話が通じ、理解し合えるようになる。

しょせんプロの通訳には敵わないし、上には上がいくらでもいる。

それでも自分自身の努力によって何かが成し遂げられるのは、他人がどう思おうが無茶苦茶嬉しいものなのである……!

 

ちなみにそんな筆者にとって、以前ニュースになったこじるりこと小島瑠璃子さんの中国留学チャレンジは、「わかる、その気持ち」となるし、目一杯応援したくなる。

 

これは想像だが、こじるりは中国語を学び始め、日々言語が身についていく獲得の過程に喜びを見い出したのではあるまいか。

彼女はタレントなのだから、称賛の言葉を浴びることにかけては一般人をはるかにしのぐ経験があるはず。

日本の芸能界に残っていれば、引き続き得られたであろう視聴者やファン、関係者などからの肯定の言葉。

 

だが、彼女はそれらの外からの評価よりも、学びや挑戦から得る喜びに価値を見い出したに違いないーー。

中国語に触れ、その学習をいまも楽しむ者として、筆者はこじるり関連のニュースを見るたびについ、そんな妄想を炸裂させてしまうのである。

 

話を戻すと、人間には多かれ少なかれ誰かに認められたいという欲があり、孤高をよしとする方であってもやはり他者の評価は気になるもの。

そこに意味はないとしてまったく人の目を意識しないのは客観性の喪失につながり、社会人としてアウトであることは言うまでもない。

 

だが、世の中を見渡してみると、一般に目につくのは他者との比較にこだわりすぎる傾向、そして「人からどう見られるか=自分の価値」という行き過ぎた相対評価である。

他人に認められることで心を満たすのも1つの手ではあると思うが、そんなあやふやなものに頼らずとも、自分の機嫌は自分で取ってやればよい。

 

「私はできる」

この思いほど自分自身を激しく肯定し、内なる喜びを引き出すものはないと気づいたとき、あなたは自分のことをいまより好きになれるはずだ。

「やりたいこと」を「できる」に変えるツールとしての ICT

さて、残念なことではあるが、いまの世の中には人のチャレンジを冷笑で受け止める向きがある。

もちろん、中には明らかに無茶な挑戦だってあるわけで、子を持つ父親がある日突然仕事を辞め、「お父さんはね、YouTuber を目指すんだよ」とか言い出した日には笑いごとでは済まされない。

 

それは極端な例にしても、何かを新たに始めて必死に頑張っている人に「なに頑張っちゃってんの」といった冷ややかな思いを抱く方は一定数いるもので、そういう目を気にしてスタートを切れない方もまた、かなりの数いるはずだ。

 

そこで言いたい。

一体何が悪いのか、と。

 

これは筆者の恩師が常々語っていたことの受け売りだが、いかなる道でも初学者を笑うのはしょせんつまらぬ人間であり、学びに年齢は関係ない。

たとえば中国語の場合、どれだけ喋れる人であっても最初は「ニーハオ」から始めたのであって、「そんな簡単なことを勉強しているの?」というあざけりは、過去の自分自身を笑うことにほかならない。

 

また、歳を取ると学習能力が落ちるのは確かだが、よほど高齢でもない限りゼロにはならない。

1日10個の単語を学び、翌日には8個を忘れていても、2個覚えたことに嬉しさを感じられる。

だったらそれも十分に「やりたいこと」を「できる」に変えるプロセスを進められたということだ。

 

そのような前進において、非常に有効なツールとなるのが ICT である。

そもそも筆者自身、ICT が身近なものとなっているこの時代に生まれなければ、いまのように中国語を習得できていたかどうか、極めて怪しい。

 

少なくとも、アプリやオンライン教室などを駆使できなかった分、もっと時間もお金もかかっていたことだろう。

 

自分の経験に照らし合わせて言うと、語学学習はとにかくデジタルと相性が抜群だ。

アプリがあれば空いた時間でどこでも勉強ができる上、近所にネイティブがいなくても SNS などを通じていくらでも知り合える。

さらにオンライン語学教室に至っては、ピンからキリまであるとはいえ、それこそ小遣いの範囲内で済ませられるものもある。

 

「英会話テープ1セット100万円、いまなら分割払いもOK」なんていうシロモノが売られていたのも今は昔。

そんなもの(と言ってしまうとその世代の方に失礼だが)よりよっぽどタメになる数あまたの動画がネット上にアップされていて、やる気さえあればお金をできるだけかけずに学ぶことも可能な時代を迎えている。

 

語学に限らずほかのジャンルでも言えることだと思うが、ICT はわれわれにとって「やりたいこと」を「できる」に変えるアシストをしてくれる存在なのである。

これは言い方を変えれば、ICT を使いこなせるかどうかは、何かを学ぶうえで重要なポイントということだ。

 

もし、いまのところとくにやりたいことが見つからない場合、とりあえず人並み程度に ICT スキルを上げておくのは合理的な選択だろう。

そうすれば、目標が見つかったとき、デジタルツールを存分に活かし、より早く成果を上げることにつながるはず。

はたまた ICT を深堀りしているうちに、その中で目指すべきものを見つける可能性だって十分にある。

 

いずれにせよ、自分の心に嘘偽りなく好きなこと、やりたいことに携わり、ひいてはそれが社会貢献につながるーーこれこそが自己実現というものだ。

その幸せや喜びを追い求めるうえで、ICT 技術はきっとあなたの支えとなってくれるに違いない。

 

 

執筆

御堂筋あかり

スポーツ新聞記者、出版社勤務を経て現在は中国にて編集・ライターおよび翻訳業を営む。趣味は中国の戦跡巡り。

※『さくマガ』に掲載の記事内容・情報は執筆時点のものです。

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