「死霊をお送りします」文字コミュニケーションはレクター博士を意識すればうまくいく

「死霊をお送りします」文字コミュニケーションはレクター博士を意識すればうまくいく

「死霊をお送りいたします」という恐怖メール

昨年からの社会の変化で文字によるコミュニケーションをする機会が増えている。仕事における文字コミュニケーションでは、家族や友人とのあいだであれば許されていた誤字、脱字といった間違いが許されないことがある。働く僕らは、仕事上での文字コミュニケーションの間違いとどう付き合っていけばいいのだろうか。考えてみた。

今年の夏に、コンサル会社の若手営業マンから僕に届いたメールが次のような言葉で締められていた。

 

「本日中に死霊をお送りいたします」

 

なんということだろう。令和は、営業をやんわり断るだけで死霊を送られる世知辛い時代らしい。どのような死霊が送られてくるのかわくわくしていたが、残念ながら、平凡な会社案内と心を揺さぶらない提案が送られてきただけであった。現在にいたるまで訂正や謝罪はない。

「貴社の力になれます」と言っている相手に対して、死霊という不吉ワードを送りつけて放置するのはいかがなものだろうか。

また先日は、部下から「元凶についてご報告します」というチャットで言われた。その時点で、僕の知る限り、アクシデントは起こっていなかった。知らないところで起こっているアクシデントは良くないものである。最悪の事態への覚悟を決めて、元凶に備えた。しかし、パソコン画面で展開されたチャットトークは、当日の各報告やつまらない現状についての淡々とした報告に終始した。平和そのものであった。

 

言うまでもないが、死霊=資料、元凶=現況の間違いである。単純なミスだ。平均的な心の広さをもっている人間なら「こういうの、あるよねー」とスルーしてくれる。しかし、厳格な人間に対して、あるいはしくじってはいけない場面において、このような誤字は許されない。

たとえば勤めている会社の社長に対して、「気をつけて行ってください」というメッセージを送ろうとして、「気をつけで逝ってください」と誤字ったら、「私に背を伸ばして黄泉の国へ行けと言っているのか」と怒りを買い、出世コースからコースアウトするだろう。

 

『羊たちの沈黙』という名作映画がある。アンソニー・ホプキンス演じるレクター博士は天才かつ人食いの殺人鬼である。レクター博士は礼節を重んじる紳士である。レクター博士は客人であるクラリスに対して礼節を欠いた言動をはたらいた隣の囚人を罰した。もし、レクター博士に「死霊を送ります」メールを送ったら命そのものがないだろう。

死霊メールや元凶チャットは、文字によるコミュニケーションゆえに起こった悲劇である。文字によるコミュニケーションが増えるのと比例して、文字上の死霊騒ぎは日本各地で激増しているのではないかと危惧している。

注意すれば解決するのか

注意すれば解決するのか

 

送信前にメッセージを読み直してチェックすれば解決するのだろうか。不断の注意に加えてソフトウエアでチェックすれば、誤字はゼロにできるかもしれない。

だが、仕事に追われているときに相応の注意力をもってチェックできるだろうか。僕は書き仕事をしているけれど、ワープロソフトが「日本語おかしいですよ」のサインを出しているのに、それに気付かず、あるいは〆切に追われてあえて無視して原稿を渡してしまったことがある。

先の「死霊を送りますね」メールだって、チェックがなされたうえで送られたものかもしれないのだ。送信する前に一度流し読みして「ヨシ!」と指差し呼称した形骸化したチェックでは「死霊」は排除できないのである。人間のするチェックなんてあてにならないものなのだ。

チェック、指差し確認、再チェック、指差し確認、再々チェック、同僚による二重三重のチェック体制を敷けば誤字脱字は限りなくゼロに近づけられるだろう。しかし、そのチェック×3で担保される安全性とともに、蓄積されていく我々のストレスはどうすればいいのか。

相手への配慮で、自分自身の心身がストレスで蝕まれていいわけがない。その結果、仕事のクオリティや生産性が低下するのでは意味がない。

文字コミュニケーション時代における二つのスタンス

文字によるコミュニケーションにおける誤字との付き合い方においては、二つの方向性があると僕は考えている。ひとつはある程度のミスは受け手側で処理をすることだ。もうひとつは、発信する側の言葉への精度を高めることだ。

受け手側でミスを処理するとは、誤字脱字メールが送られてきた際に「誤字あるよねー」とスルーする、修正されるのを待ちつつ修正されなくても「まあ仕方ない」と諦める、といった大人な対応である。もしかしたら受ける側のソフトウエアで処理されて誤字そのものをなくせる仕組みが実装されているかもしれない(僕は知らないけれど)。

「死霊送ります」メールを送った当人が知らないところで、よろしい方向で処理されるので、人に優しい方向性である。だが、当人に失敗がフィードバックされないので、同様の失敗が繰り返されていく可能性はおおいにある。失敗を責めない、ぬるま湯の方法なので、改善につながらないのだ。

会話では起こりえないミスとどう向き合えばいいのか

予算取りのために取引業者から正式な見積の前に概算の金額を提示してもらうようなケースは、一般的によくあることだろう。こうした担当者とのやり取りにおいて、金額の桁数を間違えている営業マンがいて困ったことがある。

2,000,000円を200,000円とメールしてきたのだ。他業者との比較で桁ひとつ違うことから、ゼロをひとつ少なくカウントするミスを犯していると受け手の僕は処理して話を進めていた。

だが、商談を進めているなかでも、毎回200,000円と提示してくるものだから、こちらも200,000円でいいのかという気分になり、その線で社内調整を始めようとしたところ、「すみません。桁数を間違ってお伝えしておりました」という謝罪と修正が送られてきたことがある。

 

これも文字コミュニケーションで起こりうるミスであった。口頭でニヒャクマンと言っていれば、起こるはずがないのだ。これは極端な例だが、誤字に対して受け手が大人になりすぎてしまうと、フィードバックがなされないために送り手にミスに気が付く機会を損失することが起こりうるのである。「死霊」の文字が送られてきたら、「資料だよね」ときっちり指摘して差し上げるのが本当の大人の対応というものなのだ。かったるいが。

発信する側の言葉の感度を高める方向性とは、筋トレのようなものである。これまでお話ししてきたような文字コミュニケーションにおける誤字脱字といったミスが起こるのは、頭の中にあるものを、スマホやパソコンといったデバイスをつかって文字に落とし込む際の精度が不足しているからだ。いいかえれば「言葉=文字」への落とし込みに慣れていないのだ。もし、文字への落とし込みに慣れていて、言葉や文字に対するアンテナが敏感になっていれば、間違っている言葉を使っていることに「なんかおかしい」とうっすらと気付くようになるものだ。

使える言葉を増やすためには

使える言葉を増やすためには

 

チャットやLINEのような、いちいち文章をチェック推敲しないような軽い文字コミュニケーションで誤字脱字が多い人がいるけれども、例外なく、考えていることを文字に落とし込むことに慣れていない人だ。自分のものになっていない言葉を無理に使おうとするから、的外れな言葉を使っていることに気づかなかったり(死霊は論外だけれど)、奇天烈な文章に対して違和感を持てなかったりするのだ。

こうした事態を回避するためには言葉への落とし込みの精度をあげていくこと、つまり日常的に書くクセをつけて使える言葉を増やしていくことだ。

先日発売された僕の新著『神・文章術』において書くことについて以下のようなことを書いた。

 

「いちいち書いていられない」「頭に思い浮かべれば十分でしょう」という反論がでてきそうだ。実際、書いて、自分の言葉に落とし込むのは面倒だ。頭が疲れる。時間もかかる(少しだけど)。

そもそも、「意識しました」「考えました」は、本当に意識して、考えているといえるだろうか。ほとんどの場合、頭に問題を浮かべて、良い/悪い、できる/できないといった簡単な判断を下しているだけではないか。あるいは複雑な思考を頭のなかでしていても、それをモノにできている人はほとんどいないのではないか。僕はそういうぼんやりとした思考や意識を、解像度が低い思考や意識だと思っている。

それに比べると「書く」は、思考や意識の解像度が段違いに高い。言葉の選択という決断の連続によって、曖昧さが排除されているのでクリアだ。多くの言葉からひとつの言葉を選んで落とし込むという決断が、「書く」という行為では連続して行われている。書くのがなんとなく面倒だと感じるのは、決断が続くからだ。

(中略)

僕らは言葉を使って考えている。それが落とし穴だ。言葉を使って考えたから大丈夫だと安心してしまう。だが、頭のなかで言葉をもって考えたものを、実際に書いて言葉に落とし込めば、言葉を特定するという決断を経ている分、思考の解像度が上がる。そして自分の言葉に置き換えているので、自在に使えるようになる。頭のなかに浮かんでいるイメージや思考は、書いて自分の言葉にして、はじめて定義されるのだ。

 

 

書くことを続けることによってのみ、言葉を自分の使えるものにできるのである。

文字コミュニケーションに緊張感をもたらすには

文字によるコミュニケーションの重要性と頻度は増す一方だろう。ワンダーな脱字やありえない文章との遭遇はこれからも続くはずだ。忘れてはならないのは、僕らは受ける側であり、送る側であることだ。

ひとつの「死霊」メールをスルーして受け流すことは、将来の幾千万の「死霊」を生み出すことなのだ。死霊メールのようなくだらないものであってもミスを指摘すること、ミスを確認して速攻で修正することを怠らないこと、そして使える言葉を増やすことによって、よりよい文字コミュニケーション関係と働く環境を気付けるだろう。

文字コミュニケーションは会話よりも緊張感を欠いてしまいがちだ。礼節を重んじるレクター博士が隣にいて見つめられているような緊張感を保つために、拘束服姿のレクター博士のポスターを壁に張ったり、激怒しているパートナーの写真をデスクに飾ったりしてみるのはいかがだろうか。

2021年も一年間お付き合いいただきありがとうございました。2022年も働く人たちの力になるような文章を書いていきたいと思います。ではまた。

 

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