インターネットはもう、画面を眺めて満足するものではなくなった

インターネットはもう、画面を眺めて満足するものではなくなった

15年くらい前でしょうか。

高校生だったわたしにとって、インターネットは「眺める」ものでした。

前略プロフィールやmixiはあったものの、基本的には検索してなにかを調べたり、個人ホームページをチェックしたりと、ぼーっと眺めて楽しんでいたのです。

でも、いまはちがいますよね。インターネットは現在、「反応するもの」になっています。動画には高評価か低評価をつけ、ネットニュースはコメントつきで拡散。

ただ見るだけでは終わらず、見たあとに「反応すること」がセットなのです。

いったい、その転換期はいつだったんだろう?そこで、とあるネットラジオの存在を思い出しました。

ドイツで挫折し孤独に打ちひしがれていたあの頃

大学を卒業した半年後、9月6日(だったかな?)に、わたしはドイツに移住しました。

23キロをややオーバーした大きなスーツケースを抱え、意気揚々とドイツに乗り込んだわけですが……夢見がちな小娘の思い通りにいくほど、現実は甘くありません。

ワーホリ中に就活するも、うまくいかず。とりあえずアジアンレストランで働くも、深夜までサービス残業で体力の限界に。「それならば」と大学に入学するも、言葉の壁が厚く溶け込めない。そのうえ、甲状腺疾患であるバセドウ病が発覚。

さらに、うまくいかない現実へのもどかしさを当時の彼氏(現在の夫)にぶつけてしまい、関係が悪化。別れ話にまで発展しました。

もう10年の付き合いになりますが、別れ話が出たのはこの1度きりです。

 

(当時の自宅から見えた真っ赤な夜明け空)

(当時の自宅から見えた真っ赤な夜明け空)

 

大学に行きたくない。でも辞めたらビザがなくなってしまう。

体調的にバイトを辞めざるを得なくなり、お金も心配。

薬を飲んでるのに病状はまったくよくならないし、毎日イライラする。

頼みの綱である彼とも、もうダメかもしれない。

踏んだり蹴ったりです。

ドイツに来て1年。わたしは、完全に挫折していました。

完成したコンテンツを眺めるだけじゃ満足できなかった

ドイツの長く暗い冬、家にひとりぼっちの毎日。

気が滅入って、ひとりではどうかなってしまいそうな日々。

さみしさを紛らわすために、現地のテレビを見たり、日本から持ってきたモーニング娘。のDVDを見たりしたのですが、少しも気持ちが前向きになりません。

画面の中のショーは、わたしがいなくても成り立っている。なんだかそこに、強い疎外感を抱いちゃったんです。

そうやって日に日に心のHPが減っていくなか、あるネットラジオのサイトを見つけました。

ライブ配信がメインコンテンツで、リアルタイムでコメントができてアーカイブも残る、YouTube配信の「声版」のようなサイトです。

そこでわたしは、とある配信者のファンになりました。

インターネットが「眺めるもの」から「参加するもの」になった瞬間

その人は、特別いい声をしていたわけでも、話術が優れていたわけでもありません。

それでもわたしが配信に通っていた理由は単純で、その人は毎日決まった時間に配信して、視聴者のコメントをすべて拾ってくれるからです。

いつもの時間になると、『配信中』のランプが灯る。

そこにいくと、いつもと同じ声で迎えてくれて、だいたい同じ人が集まって、たわいのない話をする。

視聴者数はだいたい20人前後で、だれかの悩みを聞いたり、愚痴ったり、お祝いしたり、適当にワイワイ楽しむ。

配信者がしゃべって、視聴者がコメントでリアクションして、そこにまた反応がきて……。今までの「コンテンツを見てるだけ」とはちがう、「わたしはここにいる」という充足感。それがたまらず、毎日毎日欠かさずチェックしていました。

だって、すごくないですか?

まったく知らない人と、リアルタイムで同じ体験をしてるんですよ。完成されたコンテンツを受け取って消費するのではなく、今まさに、自分たちでコンテンツを作っているのです。

わたしはもう、ただ眺めるだけの観客じゃない。自覚的にインターネットに「参加」したのは、このときが初めてだと思います。

当時はまだゲーム実況やLIVE配信がいまほど一般的ではなく、

「見知らぬ人が、画面を通じてわたしを認知してくれている」

「リアルタイムで多数の人と同時につながる」

という経験すらありませんでした。

テレビや本と同じで、インターネットは「完成したコンテンツを公開する場所」「すでに完成されたものを消費する場所」というイメージだったのです。

それが当たり前だと思っていたから、当事者としてネットに関わるのは、とても新鮮な経験でした。

「インターネット=画面を眺めるもの」という認識が、「インターネット=参加するもの」に変わったのは、この配信がきっかけですね。

「自分の物語」としての体験が値上がりしている

とはいえ2021年のいま、「参加型インターネットコンテンツの衝撃」を書いても、ピンとこない人も多いと思います。

だっていまは、「未完成のコンテンツ」が当たり前で、なおかつ愛される時代だから。

昔は主催者や演者が一方的に話しかけるプレゼン型のコンテンツが多かったのに、いまではだいぶ減りました。

コロナ禍で多くのイベントがオフラインからオンラインに変更され、イベント中主催者が視聴者のツイートを読み上げたり、演者がタブレットで同時に配信を見つつコメントにリアクションをしたり、という光景をよく見かけます。

すごくうまい有名プレイヤーがラスボスを華麗に瞬殺する動画がある一方で、初心者が視聴者にアドバイスをもらいながら最初のクエストをクリアする配信に、1万人もの人が集まるのです。

視聴者に「参加した」という実感を与えられれば勝ち。

インターネットは、「完成度の高いものを提供」から、「ユーザーを巻き込んで完成させる」かたちに変化したのです。

この変化について、『遅いインターネット』という本には、こう書かれています。 

この四半世紀で、二次元の平面(紙、スクリーン、モニター)上に置かれた「他人の物語」ではなく、三次元の空間での体験、つまり「自分の物語」を発信することに人々の関心は大きく移行しつつある。テキスト、音声、映像といった「他人の物語」を記録したモノ(本、CD)には値段がつかなくなり、フェスや握手会といった「自分の物語」としての体験が、つまりコトが値上がりしている。(中略)

おそらく僕たちが生きているあいだは、そもそも他人の語る物語に感情移入することの快楽が相対的に支持を失い、自分が直接体験する自分が主役の物語に余暇と所得を傾ける人々が増えていくのだ。

引用:宇野 常寛 著,2020年『遅いインターネット』幻冬舎

 

そうそう、これ!

わたしがネットラジオで得た充足感は、この「自分の物語として経験できる」ことで得られたものです。

完成したコンテンツを傍観者として眺めるだけでは、決して得られないもの。

やっぱり、当事者として参加したほうが、「自分がやった」感があって満足度が高いんですよね。だれだって、「他人の物語」より「自分の物語」のほうに興味を持ちますから。

それに気づいてしまった人々と、それを可能にするインターネット。

そのふたつが相まって、「当事者になること」の需要がすごく高まっているんだなぁ、と改めて思うわけです。

「参加することに意義がある」インターネットへ

「傍観者」でいることが多い人でも、YouTubeやネットニュースなどにコメントを残し、「参加」することはありますよね。

なにかのハッシュタグをつけてSNSの企画に乗っかったり、拡散希望のツイートで拡散協力をしたり……。

やっぱりみんな、「眺めてるだけ」じゃもう、満足できないんですよ。なにかしらのかたちで「関わった」という証を残し、共有したくなってしまう。

だって、「他人の物語」より、「自分の物語」のほうが楽しいから。

あまりにも自然な変化で意識していなかったけど、コンテンツは「与えられるもの」から、「いっしょに作るもの」になっていたようです。

インターネットはもう、画面を眺めて満足するものではないんですね。

いままではコンテンツをつくる人たちは「与える側」でしたが、今後は視聴者のご機嫌をうかがう立場になるかもしれません。いや、もうなってるか。

これからは、みんなが「当事者」になり、「参加」に重きをおくコンテンツが、もっともっと増えていくんでしょう。

もうだれも、傍観者ではいられない。

そんな時代のインターネットはこれからどうなるのか、ちょっとワクワクします。

 

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