≫ NOT顔採用! あなたの「やりたいこと」をさくらインターネットで一緒に実現してみませんか?
リクルートスーツは残酷だ。就活生になったとき、校内の派手めな女子グループを見かけてそう思った。明るい髪色と華やかなファッションでつくりあげていた“かわいい”が、真っ黒いフォーマットに均一化されると、素材の良し悪しが露わになった。
顔ではなく中身をみてほしい。祈るような思いで履歴書の志望動機を書き、証明写真を貼り付けた。だけど、就活を進めていくうちに、顏は結構重要であることをひしひしと感じた。
「説明会行ったら、顏がいいヤツは人事に話しかけられてんの。やっぱイケメンって有利だよな~」と愚痴る友人、「就活の終盤はブスが増える。マジだから」と前のめりに語る先輩。周りのかわいい女子は、漏れなく早めに内定を取っていた。
やはりというべきか、私は就活に苦戦し、(まぁほかにも原因があるだろうが……)不美人であることを恨んだ。就活で直面した顔面偏差値問題は、恋愛市場よりもキツイものがあった。個人ではなく、会社に、ひいては社会に否定されたような気持ちになる。なにもアナウンサーやキャビンアテンダントを目指しているわけではないのに。裏方の事務職の仕事ができれば、それでいいんだけどな。
入社してわかった採用側の考え
その後、なんとか入社したとある中小メーカーで、再びショックを受けることになる。採用業務の事務仕事を担当するなかで、営業部はかなり見た目を重視していることがわかったからだ。
書類選考は男女ともに“平均以上”の顔写真が通過。筆記試験やグループディスカッションなどはなく、あとは2回の面接で最低限のコミュニケーション能力をみて内定。この会社には人事部がなく、選考で社長面接も設けられていないため、すべての選考は配属部署の管理職に一任されていた。
営業部長がいう「営業は第一印象が命だから」との理由はもっともらしいが、熱意が充分に伝わってくる学生の履歴書でも、顔写真で判断されて不採用となるのは残念でならなかった。
それに、ある上司は、内定者の履歴書をみて「あ~、○○さん(営業部長)が好きそうな顔だな~」と言っていた。やっぱり、世の中顔ですか。
本来あるべき採用の姿
本来あるべき採用とはどういったものなのだろうか。本を読み漁り、セミナーを受講すると、本質が見えてきた。会社の目指す方向性から、求める人物像を明文化して共有し、それにあった人を見極めること。それが、強固な会社組織を作っていくうえで重要である――。明らかにこの会社には欠落している点だ。だから、社員の帰属意識が低くて、離職率も高いのではないか。
いつかこの会社の採用を変えたい、と心の底で思いながら仕事をしていた。だけど私が得た知識は、頭でっかちでしかないのかもしれない。ある日、選考内容を見直そうとあれこれ意見が交わされたときに、総務部長がこぼした言葉が印象に残っている。
「結局、働いてもらわないとわからないんだよね」
だから誰を雇っても同じ、と続くように聞こえた。言葉の背景にある、総務部長が見てきた過去を想像してみた。いい人材だと思ったのに、いまいち活躍しなかった。期待していたのに、早々と辞めてしまった。きっとそういったことが繰り返されてきたのだろう。
社会人になってわかった顔採用がなくならない理由
そう考えると、顔採用は無難な選択になるわけだ。仕事の能力は未知数でも、顔がいいことはわかる。美人は品質保証。下手な人を雇うより確実だ。投げやりのような、諦めのような、長く採用の仕事をやっていたら、そんな心境になってしまうのかもしれない。
それ以上にショックだったことがある。社会人になってわかってしまった。実際、顔がいい人はスゴイのだ。後輩に、岡田結実似の美人が入ってきたときのこと。営業事務の彼女が、「お疲れ様です!」とニコっとするだけで、重苦しい職場がパッと明るくなる。疲れが吹っ飛ぶような可愛らしい笑顔に、「仕事、頑張ろう!」と営業マンの活力になるのもうなずける。
まさに、カワイイは正義。これは実務以上に会社に有益なのかもしれない……。顔採用なんてなくなってほしいのに、美人を目の前にして、ぐうの音もでなかった。
つまるところ、顔採用は合理的となってしまうのだろうか。こんなの、就活で感じていた残酷な顔面格差を裏付けるようで、不本意でしかないのだが。
最近、ルッキズムから脱しようとミスコン廃止の声があがったり、一方で美容整形が当たり前になったり、美の価値観が揺らいでいるように思う。顔採用は、どんなふうに議論さえていくのだろうか。どうか顔に自信がない人でも卑屈にならずに就活ができる未来であってほしい。