じゅんいちダビッドソンの伸びしろ。キャンプ場で「やりたいこと」を聞いた

 サッカーに関連したモノマネで一番成功したのは、本田圭佑のモノマネネタで2015年「R-1ぐらんぷり」を制したじゅんいちダビッドソンだろう。だがモノマネで人気を博した芸人は、その対象者の人気に引っ張られるのではないか。そしていつまでも対象者の影としてしか認知されないのではないか。

 

一昔前だったら、テレビで見る機会が減ってそのまま忘れられたのかもしれない。だがじゅんいちダビッドソンはインターネットメディアを活かして転身していた。なぜ方向転換しようと思ったのか、そしてテレビで見ていたのとはまた別の一面をじっくり語ってもらった。

じゅんいちダビッドソンにキャンプ場でインタビュー

じゅんいちダビッドソンさんにキャンプ場でインタビュー

 

 本田圭佑選手のモノマネは2013年ぐらい、確か春先ぐらいからやりだして、そのネタで2015年「R-1ぐらんぷり」(一人芸人の大会)で優勝したんです。モノマネの本田選手のキャラクターと僕のコントがうまくマッチしてくれたんで、ラッキーですよ。

ただ本田選手の活躍が期待された2014年ブラジルワールドカップで、日本は1分2敗でグループリーグ敗退でしたよね。実は2014年の「R-1ぐらんぷり」にも本田選手のネタで出場して少し知名度が上がってたんで、ブラジル大会のときはスポーツバラエティ番組のロケに結構出してもらってたんです。

スポーツバーに行って日本戦を見て、負けてなぜか僕がブーイングされるとかありました。みんなも冗談でやってたんでしょうけどね。

 

 ワールドカップで1勝もできなかったけど、世間のサッカーの火は消えなかったですね。サッカーはずっと人気のある競技なのでたぶん大丈夫だろうって思ってたんです。

日本代表は2015年アジアカップでも負けたけど、僕自身は2014年「R-1ぐらんぷり」のときよりも2015年に出たときのほうがネタ自体を仕上げられたので、そういう意味でうまいこといきましたね、あのときは。

 

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(じゅんいちダビッドソン R-1ぐらんぷり2015 準決勝)

 

モノマネ畑とお笑い畑の違い 

 モノマネ畑の人とお笑い畑の人ってテイストが違うんで、モノマネをするにしても僕のようなお笑い芸人がモノマネを取り入れるとああいうふうになるんですよね。要は、決勝のネタは「ホンダケイスケ」って言いながら実はサッカー好きなスーパーの店員みたいなコントなんです。

簡単に言うと、主人公をわかりやすく「ホンダ」って言ってるだけで、実はモノマネよりお笑いのネタの部分が強いんですよ。ただ外見も金髪にして寄せましたからね。最近キャンプばっかりやって、ちょっと太ってきて、あんまり似なくなったとか言われてますけど(笑)。

 

 ただ、よく「普通にしゃべってるときのほうが似てる」って言われてるんですよ。おそらくモノマネするときって面白くやるから、本当は本田選手、こんなでっかい声出さへんのに出したりするじゃないですか。笑いどころが優先だから。モノマネのネタになると実はあまり似てなくて、普通の感じでしゃべってるときのほうが似てるって言われるんです。

だからよく「本田選手のモノマネでお祝いコメントをやってください」と言われることがあるんですけど、そのときは「どっちがいいですか?」って聞くんです。「本当の本田選手の感じがいいのか、僕がネタでやっている本田選手のモノマネのどっちですか?」って。

「途中まで何をやるかばらしたくない」っていう場合は、僕がモノマネのネタでやってるほうの本田選手の言い方やと開始2秒でばれるから、「もうちょっとロートーンのほうがいいんじゃないですか」と言ったりしてるんです。

じゅんいちダビッドソンが語る”地獄”の下積み時代

 こういうネタをやる前は漫才をやってて、そのころは地獄の時期でしたね。先が見えないというか。見えないから「もう辞めようかな」って思うけど、劇場のライブなんかに出たら、そこそこはウケるんですよね。それでテレビのオーディション行って落とされるみたいな。

当時、ネタは全部僕が書かされてて、なんか漠然と「今は耐える時期なんかな」とか思ってたんですよ。それが12、3年続いた感じですかね。家賃払えなくてビリヤード場で住み込みで働いてたこともあるんです。それでビリヤード上手くなったんですけど。

 

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(じゅんいちダビッドソンYouTubeチャンネル「ちゃんねるダビッドソン」))

 

 だけど、ぶっちゃけビリヤードの世界もあんまり稼げないんですよ。スポーツとしてはマイナーなんで。プロの人でも賞金だけで食ってる人はあんまりいないんじゃないかって。レッスンプロみたいのは、もちろんあるんでしょうけど。

今考えるとなんですけど、先が見えない中あそこで頑張って、毎日ネタ作りとかして、いろんな引き出しを貯めてって、それがピン芸人になったときにうまいこと使えたのかなっていうのがありますね。

 そこでサボってたら、多分本田選手のモノマネしても、単に「モノマネしてまぁまぁ似てるやつがおるな」で終わってたと思うんですよ。でも過去にいろんなネタを作ってきたからコントにできたなと。今考えればですね。その時はそんな先のことなんか考えてないんで。

 

 耐えられたのは……要は、ちょっとぶっちゃけ言うとね、辞めどき失ったみたいな(笑)。アルバイトしてたらギリギリ食えるし、ライブ出たらまぁまぁウケるし。

オーディション行ったら落ちるけど、たまにテレビのネタ番組にちょっとだけ出たりするっていう毎日で。辞めても新しい就職先とかもないし、芸人辞めても多分収入自体はそんな変わらんなって思ったときに、やってるほうがマシなんかな、みたいな感じですね。

じゅんいちダビッドソンの幼少期

じゅんいちダビットソンの幼少期
 

 もともとサッカーは子どものときから好きでしたね。キャプテン翼の世代やったし、小学校の授業で週に1回だけ、火曜日の6時間目にクラブ活動が組み込まれてて何部にするか選べるんですけど、サッカー部に入ってたことがあるんです。

そのころはディエゴ・マラドーナ(故人)の全盛期で、ちゃんと試合は見てないですけど、缶コーヒーの「ノバ」のCMに出てましたからマネして「ノーバ!」って言ったりしてました。

 

 Jリーグが始まってからもずっとサッカーファンでテレビで見たりしてたし、ゲームの「ウイニングイレブン」とかの知識からヨーロッパサッカーを見るようになったし。

2002年日韓ワールドカップで盛り上がったときなんか、やっぱりミーハー、プラスもともとサッカー好きなんで、ヨーロッパのニュースとか毎日チェックするようになったんですよ。そのころのほうが今より詳しかったかもしれないです。

「R-1ぐらんぷり」優勝後

 「R-1ぐらんぷり」で優勝してからはサッカー界からの認知もめちゃくちゃ上がって、サッカー界の友人は増えましたね。優勝する前から、ゾノ(前園真聖)さんはずっと仲いいですし、今も家族ぐるみで遊んだりしますけど。

優勝したあとはもちろん本田選手とかオカ(岡崎慎司/ウエスカ・スペイン)ちゃんとかご飯に行ったりしましたし、槙野(智章)選手(浦和レッズ)も結婚式に呼んでくれたりとか。

仕事でスタジアムのピッチにいたら電話が鳴って、誰かと思ったら放送席にいた城(彰二)さんやったりとか。今の若い子でいうと、(鎌田)大地君(フランクフルト・ドイツ)は1回食事したことがあるんですよ。まだサガン鳥栖にいたときですね。

ドラゴン久保(竜彦)さんにもロケで会ったんですよ。久保さんってコーヒー豆や塩を作ったりしててね。昔から不思議やったから聞いたんですよ。

「現役のとき、試合後のインタビューで何で黙ってたんですか」って。そうしたら、「感覚を研ぎ澄ますために空腹で試合に出てたから、インタビューのときはとにかく腹が減ってて、早く帰って飯食いたかったから」って言ってて。あの人、面白いわ〜。

堂安選手との偶然の出会い

 あと偶然もあってね。東京の僕の家の近くに沖縄料理の居酒屋があるんですよ。そこで嫁と一緒にメシ食べてたら、堂安(律)君(ビーレフェルト/ドイツ)がたまたま入ってきて。面識なかったんですけど、嫁がファンなんで気付いたんです。

「え? 堂安君なんでこんなとこ来んの?」って思ってたら、逆に堂安君のほうが「え? じゅんいちさんですよね! 東京すげぇ!」ってなって、「いやいや、こっちのセリフやで。海外でプレーしてる選手こんなとこおるの」って。

それでね、本田選手と僕は通ってる美容室が同じで、堂安君もそこに行ってたんで、改めてそこでしゃべったんです。そう言えば南野(拓実)君(サウサンプトン/イングランド)も同じ美容室ですし、美容室繋がり、意外と多いです。

 

 それからテル(岩本輝雄)さんは月1回ぐらい急に電話かかってきます。「ご飯行きましょうよ」って、でも全然行けてないんですけど。あと一緒に飲んで面白かったのは、やっぱりテグ(手倉森誠/ベガルタ仙台監督)さんかな。テグさんは飾らない方で話をいっぱいするので面白いですわ。

あと、兵庫県出身ということでヴィッセル神戸の応援大使をさせていただいてました。ポドルスキーがなんか僕のことを気に入っててイジってくるんですよ。サポーターが並んでハイタッチしながら選手を迎えるじゃないですか。僕もサポーターの人に交じってハイタッチやってくださいって言われて並んだんです。

選手は「お願いします」とか言ってくれるんですけど、ポドルだけはマックスで手を叩いてきたりとか。試合中も僕がピッチレベルにいたら、こっちをみて急にガッツボーズしてきたりとか。試合中ですよ。何か気に入ってくれたんでしょうね。

 

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(コントちゃんねるダビッドソン)

じゅんいちダビッドソンが本田圭佑選手本人に言われた言葉

 本田選手のマネで売れたんですけど、そのあと自分のネタもやりたい気持ちはありましたね。優勝したあとテレビに出してもらったとき、やっぱり本田選手のモノマネしか求められないし、トークもなんか本田選手に絡めたとこは使われるけど、普通に「じゅんいちダビッドソン」としてしゃべったエピソードみたいなのは、ウケたとしてもカットされる時期は結構ありましたね。

 

 本田選手というキャラクターを使ったネタだったんで、そのキャラクターのままテレビのロケとかのオファーが来るじゃないですか。それで途中は普通に「じゅんいちダビッドソン」でしゃべるとしても、冒頭は本田選手のネタで入るんですよ。

それでそのキャラクターでテレビの番組に出てちょこちょこネタをやってるから、逆にネタの番組に呼ばれなくなったんです。だから「R-1ぐらんぷり」に優勝したあと、ネタ番組には全然出てないんですよ。いろいろ見てるから、わざわざコントをやってほしいっていう感じでもなくなったと思うんです。

 

 本田選手と最初に会ったときに本人にも言われたんですよ。「1回これで売れたら、そのあとは自分のほうのネタに転換していくべきや」って。僕もそう思ってたから本田選手のネタで売れたけど、次の僕の目標は本田選手を自分から剥がすことだったんです。けど、うまくてそれができなくて、今に至ってるんです(笑)。

それでYouTubeを始めて、モノマネテイスト全くなしでキャンプばっかりやってるんですけど、何て言うんですかね、そっちで僕の素の部分が出せてるというか。テレビはテレビで割り切って求められたネタをやっていこう、YouTubeは自分の素が出せる、違うメディアとしてやっていいかなとか思ってて。

YouTubeでは普通に遊んでるだけ

 YouTubeでは「ほのぼのする」ってよく言われますね。僕失敗が多いんでね。テレビのときとは違って計算しないで、普通に遊んでるだけなんで。YouTubeがあったから、テレビ出るときも「これはこれでいいかな」って割り切れたと思いますね。

本田選手が引退してもネタとしてやりますけど、やっぱり鮮度っていう意味では、たぶん現役の時とは違ってくると思うんですよ。だからモノマネ畑の人やったら、いろんな人のモノマネやるじゃないですか。

 

 僕はモノマネをやるつもりもなかった人間が、たまたま似てたスーパースターがいたから取り入れただけなんで、「他のモノマネありますか?」と言われると、ないんですよね。他のコントはあるし、漫談もあるんですけど、本田選手以外のネタって全部モノマネじゃないから、なかなか世の中に出にくいし。

そういう意味では、本田選手の次の僕のネタはキャンプやったんかなということになりそうですね。漫才協会にも入ったんですけど、あれはナイツの塙が「じゅんいちさん、入ってよ」って言うから「あぁ、いいよ」って入っただけなんです(笑)。

じゅんいちダビッドソンが「キャンプ」にハマったきっかけと魅力

(写真提供:合同会社潤一)

(写真提供:合同会社潤一)


 子どものときからアウトドア好きなんですよ。キャンプ始める前はずっと魚釣りばっかりやってたんです。休みの日は釣りに行くからキャンプ行ってなかっただけで、ずっと芸人のヒロシさんから誘ってもらってて、行ってみたらキャンプにはまっちゃいました。今もね、魚釣り、たまには行くんですけど、船に乗るためにやっぱり早く起きないといけないから。

キャンプ場に来てテント立てて焚き火して、ボーッとしながら酒飲むっていう、この全体の流れが面白くて。贅沢な時間を過ごしてるっていうことが面白くて続けてるんだと思います。

 

 どれだけ来てても同じキャンプはなくて、同じ場所に来たとしても同じようなことは起きないし、たき火もその日によって起こり方も違うし、見ててもどんどん変化するじゃないですか。だから飽きないんですよね。キャンプの仲間もいるので、たまにそれぞれテント張りますけど、ちょっと何人かで来たりするとまた会話も楽しいし。

これ多分ね、行ってみないとわからないところでもあったりするんです。「いいって聞いて何となく分かるけど、でも別に家でテレビ見ながら飲んでるので楽しいし」とか思う人もいると思うんです。

でも1回来たら、ハマる人はもうずっと来ますね。やっぱりキャンプに行くとややこしいことから解放されますしね。ストレスからの解放は必ずあると思います。鳥の声とか、川の音とか、焚き火のパチパチいう音をボーッと聞きながらダラダラお酒を飲んでるっていう、こんな贅沢な時間の楽しみ方なかなかないと思うんですよね。

 

 どんなものを作ろうかとか考えながらキャンプ場に来るだけで、ワクワクするじゃないすか。それでご飯作ってたき火を見ながら飲んで。夜は21時から22時ぐらいにたき火を消してテントの中入って、LEDランタンつけてLINEマンガ読むか、電波なくてもいいようにダウンロードしておいたAmazonプライムの動画を見てます。

海外ドラマの「ゲーム・オブ・スローンズ」っていうのにすごいハマってたんで、シーズン1から最終章のシーズン8まで、多分ほとんどの話をキャンプ場のテントの中で見たんです。何か普段と違っていいんですよ。子どものときの秘密基地で本読んでる感じですかね。大人になってあれをお金掛けてやってるみたいな感じです。魅力はそういうとこですかね。

 

(じゅんいちダビッドソンYouTubeチャンネル「ちゃんねるダビッドソン」)

 

じゅんいちダビッドソンと「インターネット」

(写真提供:合同会社潤一)

(写真提供:合同会社潤一)


 インターネットって、僕はもともとすごく疎くて、SNSとか苦手で、YouTubeも全然やるつもりなかったんですよ。YouTubeは2年前に始めたんですけど、3年前の時点では、テレビ目ざしてきた芸人なんで「YouTubeは別にええわ」っていう考えがあったんです。

けど、いざ始めてみると結構面白くて、どんどん視聴者も増えるし、見てくれて温かいコメントくれる人もいますし。僕を否定してるコメントも来るけど、面白かったらいいんですよ。おもろないぞって言いながらイジってくるような、愛がある雰囲気のコメントはいいんです。クソみたいなコメントは削除してますけど(笑)。

 

 時代的にメディアが増えたんで、Instagramとかも苦手でしたけど、やってみたら面白くて。今、芸能人でもYouTube結構やってるじゃないですか。3年前だと考えられなくて。これからYouTubeは多分テレビと同じぐらい定番メディアになって続いていくんじゃないかなと思ってます。

じゅんいちダビッドソンの「やりたいこと」

 夢は……僕、ちょっとアホみたいなこと言ってて、1回ね、1年か2年でいいんですけど、ビバリーヒルズに住みたいんですよ。なんでビバリーヒルズかというと、僕の拙い頭ん中で描く最高峰の場所がビバリーヒルズ。なんかわからんけど、隣にトムクルーズが住んでるような。賃貸でいいんですけど。55歳ぐらいの時に1年、ビバリーヒルズに住みたくて、そこに向けて考えてるんですけど。

 

 ただ僕のこれまでの夢っていうのは、叶ってるといえば叶ってるんですよね。キャンプ好きでキャンプしてます。お笑い芸人でたまに小ネタやったりしてます。漠然と社長とかもやってみたかったから、自分の会社作って社長やってます、って。 

なので思ってた夢は叶ってるけど、次に何か面白そうだと思ったことがあれば、そこに向かっていくというか。それを繰り返して、楽しく過ごしていくのが夢で。

もともと結構脳天気なんで、本田選手のような「数年後の自分を描いて逆算して、今日頑張る」ことは全くできないんですよ。それよりも今楽しければいいやというのがあって。

 

 でも「次のステージに行ったらもっと楽しいかもな」って思ったときに、その次のステージに行くとこだけ頑張るっていうのを、段積みしていってるんですよね。だからこれからも、その生き方でいこうかなと思ってます。

そうやってどんどん段積みして、1回ビバリーヒルズに住んで日本に戻ってきたいと思ってて。もしかして、そこに住めるような状況になったらね、多分向こうにいながら仕事できるかもしれんし。

 

 じゃあそれに向けてどんな努力をしてるかというと、「英語を勉強する」ということはなくて。あっちに住めるようになるころには、多分きっともっと精度のいい翻訳機をGoogleが出してくれると思ってますから。

だから具体的にやってるのは「稼動すること」ですね。今、僕の会社で生み出してるお金は全て僕が稼働して得てるんですよ。だからもっと自分のブランディングを上げるために、この1年は稼働しまくって頑張って、そっから何かさらに安定したものが生まれるようなポジションにしたいというか。

本田選手みたいな知名度までは絶対行かないけど、彼って多分あのぐらいのブランドがあるので、彼が稼働しなくても発生するものってたくさんあると思います。そこまでいかなくてもいいけど、そういう何かが生まれるような立場になるように、今はちょっと稼動しまくって頑張ろうかなっていう段階です。

 

 あとはもう1つの夢は、今、オンラインサロンでキャンプのことをやってるので、そこで各地にキャンプ場を整備してみんな使えるようになった状態で、最終的に無人島を買いたいと思ってます。これは結構頑張れば実現できそうですね。最近、やっと本拠地がゲットできたんで、これを2カ所目、3カ所目と作って行きたいないと。そう言えばここに伸びしろ、ありますね!

 

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松永成立が指導者として意識していること。ドーハの悲劇を経験したGKのターニングポイント

日本サッカーがアマチュアからプロに移行するとき、日本代表のゴールを守り続けていたのは松永成立だった。激動の時代を過ごし、ドーハの悲劇にも直面した経験豊かなGKは、今、後進の指導に当たっている。

サッカーの中で特別なポジションであるGKをどうやって育てるのか。自分の考えを変えたターニングポイントは何だったのか。じっくりと話を聞いた。

人によって評価方法は違う

松永成立が指導者として意識していること。ドーハの悲劇を経験したGKのターニングポイント

(写真提供:横浜F・マリノス)

今、僕は横浜F・マリノスのGKコーチとしてGKを指導しています。このGKを育てるというのは、コーチがどういう観点からGKに対して接しているかというのが一番大事なんですよ。 

たとえばGKコーチが「こういうプレーをさせたい」という意図を持っていたとしても、チームには当然監督がいるわけで、その監督の戦術に沿うことが当然なんです。GKコーチの考えをすべて当てはめることができないのはチームとして行動するための1つのルールです。そのギャップをどうやって埋めていくかというのは、GKコーチ同士で話をするとよく出てきますね。

 

それに、人によってGKの評価の方法って当然違うんです。昔ながらの、ゴールさえ守ればいい、ただシュートさえ止めればいいという評価をする人もいるし、クロスボールの判断も重視する人もいるし。今のうちのチームみたいに、ゴール前のクロスやシュートを防ぐだけじゃなくて、足下のボール処理や守備ラインの裏のケアを大切にするところもあるし。

もちろん、たとえばFWだったらシュートを決めるという勝負どころで評価されるし、GKの場合はシュートを防ぐところが勝負なんで、そこはしっかり止めなきゃいけない。そこではポジショニングから始まって、ステップワーク、ダイビング、キャッチングなどの基本的な技術や動作なんかが正確にできてるかってことを考えなきゃいけないんです。

 

同じシュートを打たれるときでも、もちろんそのGKの能力によって多少のポジショニングに違いはあるけど、本当に正しいポジションに立てているGKは少ないと思います。技術にしても、本当はつかめるのに簡単に弾いてセカンドボールになって、そこを詰められてもしょうがないという人もいるでしょう。でも僕からすると、つかめなかったらGKの責任だという思いもあるし。

だけど、そうやってシュートを止める部分だけだったら、GKの役割としては昔のままで止まってるじゃないですか。

考えが変わったアンジェ・ポステコグルー監督との出会い

それだけでいいのかと僕が考えを変えたきっかけは、2018年に就任したアンジェ・ポステコグルー監督との出会いですね。監督の攻撃的なチーム作りが自分にとって1つ転機になったと間違いなく思います。

攻撃的なチームとして攻めに人数を割きたいし、相手のボールになったら常に多くの選手で奪い返したいから、どうしても選手は前に行く。そうなるとディフェンスラインが上がって背後が大きく空くわけです。

その範囲はGKが守らなきゃいけないし、そこでパスをつながなきゃいけない。GKはゴールを守るだけじゃダメなんです。そうすると試合の90分間、アディショナルタイム入れたら90分プラスアルファの時間がありますけど、ずっとGKはゲームに関与しなくちゃいけないんです。

 

昔はサッカーのプレーヤーは「10人プラス1人」と言われてて、この1人がGKだったんです。けれど、今は11分の1人としてプレーすることが必要だから、僕は今のGKにとってトータル的にすべてのレベルを上げていくこと、そういうGK像を求めていくほうが正当なものかな、と思うようになってきました。

僕なんか昔のGKの典型だから、「GKなんてシュート防げばいいだろう」って考えていたんですけど、その概念を覆されました。もちろんアンジェ監督も「シュートを防ぐことは必要だ」って当然言ってきます。でもそれだけじゃないよっていう話が続くんです。90分間どういう状況でもGKがゲームに関わることが必要だって。

 

多分、Jリーグの中でうちのGKが一番役割が多いと思うんですよ。GKなんで当然シュートを防げなければいけないし、クロスにも飛び出さなきゃいけない。加えてビルドアップも担う。

相手がプレッシャーをかけてきたら単純に大きく蹴るんじゃなくて、繋ぐ選択肢があれば繋がなきゃいけないし。非常に広大なスペースがディフェンスラインの裏にあるんで、昔で言うスイーパー的な役割もしなきゃいけない。

それに伴って走行距離も伸びます。GKの走行距離ってだいたい1試合4キロ前後なんですけど、それを7キロもしくはそれ以上走らないけないし、瞬発系の筋肉も使わなきゃいけない。長距離的な要素も必要になってくる。当然頭も使うし。このどれも、そこそこのレベルを求めてるわけじゃないんですよ。常にいいプレーをすることが必要なんで、要求レベルは当然高くなります。

今までとは違う戦術を求められる

今までとは違う戦術を求められる

(撮影:Shin-ichiro KANEKO)

そりゃあ、はっきり言って最初は「(ハイラインをとる戦い方について)これリスクあるよ」と思いましたよ。自分が現役のとき、加茂周監督が日産自動車でハイラインを敷いたんで、どれくらいリスクがあるか自分でもわかっていましたから。それに今までとは違う戦術だったし、ここまでGKにフットボーラーとしての役割を求める監督はいなかったので。

こういう新しいことをやれと言われたときに反発すれば簡単ですけどね。でもリスクがイコール失点だったら嫌じゃないですか。GKからのビルドアップをかっさらわれて失点とか、実際アンジェ監督の1年目であって「ほらそうでしょ?」って言われることがすごいあったから。

 

一番前と一番後ろって目立つんです。学校の朝礼でも壇上で先生が喋ってるときに、目立つので一番前と後ろなんですよ。味方のミスでチャンスを作られてもシュートを打たれてGKがミスしたときに「GKのせいだろう」って言われるのは、これはしょうがないんですよ。

「リスクあるから失点したよね」って言われたくないから、何とかしようっていう反骨心も湧いてきたし。GKへの非難を全然気にする必要もないし、逆に次のピンチをどうやって防ぐかっていうことを考えなくちゃいけないんです。

GKコーチの役割と哲学

GKを育てる際には、監督の戦術を頭に入れて、自分の考えと並行してやらなきゃいけないのは当然です。監督が求めるGKにどういう要素が必要か、たとえば失点を減らすのだったらゴールを守ることの要素として何が必要かというものを把握しなきゃいけない。

だけどGKコーチが「いや、ゴールを守るよりも攻撃的なGKのほうが好きだ」「ビルドアップやハイラインの裏に出て行くGKがいい」というのであれば、そういうものに必要な要素をミックスして、実際にGKにちゃんと説明できるだけの理論を提供しなければいけないんです。

 

GKコーチとして現役のGKに何を求めるか明確にしないと、結局、これも教えなきゃいけない、あれも教えなきゃいけないってなって、コーチングがものすごくアバウトになるんですよ。そういう現象は、社会人教育であっても、プロのGKコーチであっても、あまり変わらないんじゃないかと思いますね。

僕はGKに伝えるときにアバウトになるんだったら、はっきり「今ちょっとわからない」って言います。その代わり、家に帰ってからそのことに関していろんな映像見たり書物を読んだりして、GKに対して少しでも説得できるような言葉を頭の中に残せるようにしてます。

 

2018年ロシアワールドカップ、コロンビア戦で相手FKが壁の下を通って失点したという場面がありましたよね。あれはGKを擁護しなきゃいけないと思います。

GKは基本的に壁の上を越えてきたボールをセーブするものだから、壁の下を通ったら、まず予測の部分から違ってくるし、そこから反応し直すと、かなりの確率でボールがもうゴール近くまで来てるから。もしあの場面で壁が飛ばないことになっていたのであれば、壁の選手と、それからスタッフに失点の要因があります。

指導には理論が必要

でももし、あれをGKのせいにするのであれば、ちゃんと理論的に、たとえば構えるタイミングや始動のステップはどうだったか、ステップワークのスピードや動作の正確性はどうだったかとか、ちゃんとそういう過程を踏まえた上で、「壁の下を通ってきたのは予想外だけど、ただ、ここの部分が遅かったからボールへの到達時間が遅くなった」とか、そういう理論的なものが必要だと思います。

そうすればGKも「その理論は納得できたから受け入れます」ということになるんだけど、闇雲に「何で取れないんだ」と言われたら、誰でもやっぱり反発したくなる。だから、ちゃんとどこを見るか伝えるというのはものすごく大事です。

 

それから、たとえばパンチングミスをして点を取られたにしても、どういう状況で、どういうメンタリティでプレーを選択したかって考えなきゃいけないんですよ。「弾いたボールが味方に当たっちゃってゴールに入った」なんて、そんな単純な言葉で済まそうとされたら、GKとしても気分は良くないですよ。

自分の部下が何かやったときに、ただ単にやったことだけじゃなくてそこにどう繋がったかっていうところをちゃんと解釈してあげないと、結局部下も反発して終わりますよね。

 

そしてそれぞれのGKに対して指導方法を変えていきますけど、でも実際にピッチでプレーするのは僕じゃなくて選手なんで、「これをやんなきゃ使わない」とか「絶対これだけがいい」というんじゃなくて、選択肢をいくつか与えて微調整します。

僕の場合は、たとえば構えにしても、高いほうから徐々に下げていく、低いところから徐々に上げてくっていう微調整の世界ですけど、そういう選択肢を与えながら実際プレーさせて、GKが「この構え方だったらフィットする」っていうところをディスカッションしてすり合わせていくというやり方なんです。 

一方通行を避ける

片側一方通行ってのは、必ずどちらかにストレスが溜まって、ストレスが大きくなると全くコミュニケーション取れなくなってくるんで。

そうなるとプレーヤーが練習中や試合中に悪い態度になったときに、僕が何を言っても聞かなくなるし。そういう状態になったら選手が伸びなくなってしまうから。プレーヤーとして少しでも長く、少しでもうまくなるように考えるのが僕たちの役割なんで。

 

それに失敗を恐れて守備範囲を広げない選手を作っちゃいけないし。守備範囲が狭い選手はあえて守備範囲を広げようとしている選手に比べるとミスが少なく見えるかもしれないですけど、そういう選手は長くレギュラーを張れないですよ。

そこの考え方に積極的な要素が一切入ってないから、そういうGKは絶対レギュラーが取れないか、取れても短期で終わります。

逆に、試合でパスミスが1本でもあったら、それは考えなきゃいけない。「あれぐらい良いでしょう」って言ったら、次の試合でそれが失点に繋がるんです。パフォーマンスを向上させることも必要だけど、人間としての質を高めるというのも本当に大切なことで。

 

たとえば試合終了直前にPKを止めて勝った、なんてことになると、大体そこだけがフォーカスされるんですけど、それ以外の内容はどうだったかを考えなきゃいけないんです。「止めたからヒーロー」っていう捉え方をする人たちがいるんですけど、それでよしとしたら、結局そこから進化しようがないんですよ。

ちょっといいプレーすると天狗になる、そういうGKはこの世界から徐々にいなくなっていくし、うまくできた点とできなかった点の両面を常に見ていくのもGKコーチの役割としては必要なんです。

日々の新しい発見と面白さ

僕がGKのすべてを指導できるかっていうとそうではなくて、僕たちもやっぱりまだ勉強過程のGKコーチだと思ってるんです。ずっとGKを見ていて発見があるから面白いし、常に何か見つけるということにすごく飢えてるんで、そういう気持ちを持ってる間はまだ指導者として生きていけるだろうとは思ってます。

「アンジェ監督はGKに求めるものが多いから大変だよね」ってときどき言われますけど、大変とは思っていません。求められてるものは確かに多いけど、その分だけいろんな発見があるし、逆に発見したときにこれをどう活用しようか考えるし、見つけたものをGKに還元したときに、パフォーマンスが上がるわけです。

そういうのってすごく嬉しいし、楽しみでもあるんです。しかもそういうことがまだごまんとあるわけだから、ずっと勉強して追求していけるし。

 

現役からコーチへ

(撮影:Shin-ichiro KANEKO)

僕は現役のGKからそのままGKコーチになって、自分がやってきたことを引き続きできてたわけだから、アンジェ監督みたいな人が来たおかげで、GKに対していろんなことを違う方面からより一層考えられるようになったんで。常に新たな何かがあるっていうことを想定すれば、そんな苦じゃないし、必ずコーチとしての資質は上がると思います。

うちのGKはすべての面で力を発揮しなきゃいけない。ビルドアップや守備ラインの裏のそういう状況での判断はなかなか難しいんだけど、そういうイメージを湧かせながらチェックをさせると徐々にできるようになりますよ。

 

全部ショートパスを選択するんじゃなくて、ロングパスのほうが確率がいいんであれば、一番いい選択をしてくれっていうことなんです。もちろん守備ラインの裏へボールが出てきたときも、すべてペナルティエリアから出ろということじゃなくて、そういう選択もあるということです。

そういう判断は慣れてないと難しいし、練習からちゃんとGKコーチや監督が伝えてないと、GKは1人以外なかなか試合に出られないわけだから経験を積めないんで。たまに出場停止やケガで控え選手の出番が来たときに、いきなりうちの戦術をやりなさいと言われたら結構きついでしょうね。でも、それで「久々の試合だからしょうがないよね」っていうのは、はっきりと「ナシ」なんで。控え選手も正GKがやってることを遜色なくこなさなきゃいけないんです。 

練習で補うしかない

だから練習で補うしかないですね。これはGKコーチが努力する以外にありません。できる限り試合の中で生きるものをチョイスしながら、練習メニューで還元するしかない。実戦から逆算してすべて導き出さないと、いざ試合に出したときに全く何もできないっていう状況になってしまうんで。そして常に実戦をイメージしたいろんなことを考えなきゃいけない。

「いろんなこと」っていうのは試合の状況のこともそうなんですけど、たとえばシュート止めるにしても、ただ単純にシュートを受けさせるだけじゃなくて、ダイビングの幅を出すためにどうしたらいいか、素早く反応するにはどうしたらいいかとか考えなきゃいけない。実際試合でシュートが飛んできたら見送るだけとか、反応が遅れたら、話になんないんです。

 

反応が遅れないために、姿勢であったり、動作であったり、技術であったり、そういうものをトレーニングの要素として織り込まなきゃいけないから、考えることはきりがないんです。でもそのきりがないのが面白くて。次から次へといろんな事象が出てくるのもGKコーチをして飽きない理由の1つだし。

それから自チームのGKの映像もたまに見せます。でも、だいたいGKは他のGKの映像って見たくないんです。だから状況によっては見せるくらいですね。ただそれでも実戦を想定しながら練習を進めなきゃいけない部分があるので、映像を見る回数は極端に増えました。

 

映像を見ながら、そこでGKに不足するものを見つけて練習メニュー考えたり、コーチングしたり。だけど一番いいのは、目の前で生で動いてる選手の姿や動きを見ながら、そこで何が足りないかっていうのを把握して、その場でいいやり方を構築するのがベストですね。

ビデオの活用とかも、4、5年前なんてパソコンを片手でポンポンやって、分からなかったらすぐ誰かに聞いてる類だったんですけど、もうそれだと追いつかないから、自分でパソコン買って、映像なんかもいろいろ編集してGKに見せたり。それにアンジェ監督には言葉よりも目の前の現象で見ながら喋ったほうが伝わりやすいんで。 

新しい発見があるとものすごく嬉しい

すごくたくさんの作業があるんですけど、やせ我慢でも何でもなくて、これが面白いんですよ。メニューの中にいろんなものが出てくるんで。そういうのは全然苦でも何でもないし、逆にそうやってみて、新しい発見があるとものすごく嬉しいんで、だからこの年になってまで若い連中とボール蹴ってるって理由の一つですね。

それに、うちのGKがラインの背後突かれたり、ビルドアップでミスが出てたりして失点すると、何か周りで「ほらほら」って声がしてるんですよ。闇雲にGKのせいだろうって言われるときもあるから反論したりもします。

 

失点しちゃいけないと思うけど、でも「ほら失点したよね」「そういうサッカーしてるから失点するよね」っていうことじゃなくて、それまでの何試合かをトータルに見て、前回の失点を食らったときより、ポジショニングや判断がよくなってるかって、そういう見方も必要だし。だけどいつも反論していると、文句言ってるだけということになって、決して今の現役のGKに対しては良い面が一つもない。

そうじゃなくて、どういうふうにそういう声をなくすか。なくすだけじゃつまんないんで、どういうふうに上達して進化させるっていうことが、これもまた一つ面白いとこなんで。じゃあ次の試合では今度ノーミスでいけるようにまた練習でやろうって言うんですよ。

 

だからミスしたGKも真剣に映像を見るし、そのGKをうまくするためにはどんな練習をやったらいいかってのをずっと考えて練習メニューを出して、パソコン中で整理していけるんです。そうすると練習メニューも200個とか300個とか溜まってるし。

そうなってきたからGKの練習時間は、時間があればあるだけありがたいですよ。一日中GKトレーニングできればいいけど、そうもできないし。週末に試合があれば、徐々に練習時間を短くしていかなきゃいけないから、与えられた時間の中で何が一番有効かというものをチョイスしてGKに与える、還元していくというやり方も当然していかなければいけないんです。

 

全体練習が終わったときも居残りでもできるし、時間がないわけじゃないけど、ただ、ウォーミングアップをGKグループでトレーニングして、また終わったときもグループトレーニングするっていうのはモチベーションの問題もあるんで。

だから常にGKの表情や態度を見ながら、「今どういうものが必要か」を読み取ることもコーチとしては必要で。難しくないですよ。GK同士なんで。それに面白くなかったときはどういう態度をするかってのは自分を振り返れば分かるんで。

 

そして何かプレーがうまくいかなくなったとか、悩んでるとかっていうときには、コーチだから上司だからっていう態度は一切見せずに、とにかく同じGKとして、同じポジションをやった仲間だっていう意識を出せると、本人たちもいろんなこと喋ってくれます。だからそういうもので、GKの不満は解消するようにしています。

松永成立の「やりたいこと」

松永成立のやりたいこと

(写真提供:横浜F・マリノス)

「今、何をやりたいか」っていうことですか? うーん、去年のシーズンは12月19日に最終戦が終わってオフが5週間あったんですけど、まずタイトル取れなかったっていうのと、外へ出られなかったのもあって、オフがこんなにつまらないもんかと(笑)。

やっぱりグラウンドに出てGKを指導してるのが一番おもしろいと思いましたね。だから今何をしたいかは、とにかく目の前にいるGKたちをいかにうまくさせるかということをやりたいです。

 

シュートを打たれて最初は届かなかったけど、徐々にボールに近づいてくるっていう過程を経験させられると、本人にも自分の成長を実感しやすいんです。そうすると、今度は本人たちがゴールを守ることの楽しさ知るじゃないですか。

そういうことが毎日できるわけだから。現状指導していることに満足してる訳じゃないけど、こうやってGKの育成に関われることを、1分でも継続して、長く続くことがやっぱり自分に対して一番いいというか、自分の希望ですね。

 

そのための自分の努力ってよりも、相手に努力をさせるために何が必要かということを考えた場合に、反骨心かなって。負けるとGKにも僕にも批判は来るんですけど、その批判をどう黙らすか。

黙らせるためには、やっぱ自分たちのGKのレベルを上げる必要が絶対にあるので、そこを追求するためには、映像であったり、いろんな本とか、いろんな他の人の話とか、とにかく聞いて、「次は外野を黙らせよう」って。そういう決意のもとであれば、多分自然に努力すると思いますね。

結局、年末のオフシリーズでも毎日、10数時間は映像をずっと見てましたね。目薬なんか今もう1日6、7回垂らしてて。それに今後のGKトレーニングのプランニングもやってたんです。でも飽きないんですよ。GKがうまくなるんだったら飽きないです。

インターネットの恩恵

最近インターネットのおかげで素材は手に入るし、もちろんYouTubeっていう便利なものがあって、海外の試合の映像や、あとGKトレーニングも出てきます。いいと思うんですよ。目で見て、こういうトレーニングがあるんだ、こういうレベルのGKってこういうものなんだって分かるから。

でもやっぱ一番大事なのは、自分の目で生の選手を見て、何が悪いのか何がいいのかっていうのをちゃんとそこで判断して、何が必要になるかっていうものも判断しながらやっていかないといけないと思います。そういう目を養うことは、いい指導者になるために一番必要なものだと思いますね。

 

だからYouTubeの映像は、たとえば、このGKはやたら飛ぶけど、でも足が動かない原因は何だろう、構えが悪いのかな、という目で見なきゃいけないんです。

そういうふうに、GKのどこがよくてどこが悪いかとか、そんな観点を持ちながらだとインターネットにある映像をたくさん見るときにメリットが大きくなります。

デメリットは見て、単に「いいな」ってだけの感想を持つことですね。それからYouTubeって、現役のGKもよく見てるから、そこに載ってるメニューを練習でやっちゃうと「あ、YouTube見たな」とか、そういうことになっちゃって、僕の信用はなくなりますからね。インターネットがあってよかった部分と困った部分ですね(笑)。

 

 

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元サッカー日本代表の守護神 楢崎正剛が語る現役引退後の生活とは?

日本代表のGKとして長年活躍した楢崎正剛氏が引退したのは2019年。その後は名古屋グランパスの「クラブスペシャルフェロー」、アカデミーダイレクター補佐、アカデミーGKコーチとして活動している。(楢崎氏の崎は、正確には「大」の部分が「立」)

 

選手の引退後の活動はどういうものなのか、私生活は変わったのか、そして現在の夢とインターネットではどういうことをやっているのか。現役時代とは違う穏やかな表情を浮かべながらオンラインで語ってくれた。

 

元サッカー日本代表の守護神 楢崎正剛が語る現役引退後の生活とは?

楢崎正剛が語る現役引退後の活動

2019年に引退した後、パブリックの部分で言えば名古屋グランパスの「クラブスペシャルフェロー」という役職をいただいて、最初の1年はGKの普及や指導、自分の経験を伝えるなどの活動をやってました。そのころはやっぱり引退して間もないということで、メディアの仕事も多かったですし、日本サッカー協会の活動もやらせていただきました。

クラブのアカデミーでも指導しましたし、日本中いろんな場所にも行きました。グランパスでいうとスクールが愛知県内の各地ににありますから、そういうスクールを廻ったり、アカデミーの練習試合に帯同したりしました。

 

他にも依頼を受けて日本全国各地のサッカー教室に参加したりという、そういう活動も結構多かったですね。教室ではフィールドプレーヤーであってもGKを体験してもらうとか、参加者にグローブを渡してGKの練習メニューをやってもらったりということもやってました。

GKのトレーニングとしては初歩的なメニューだと思うんですけど、意外に知らない方もいます。でもサッカーを経験している子たちがメインだったので動き方もよく知ってたりしてて、スムーズにやれたかなとは思います。

細かく指導していけば本当にいろいろできると思いますし、イチから始めるのであれば本当に細かい作業からやらなきゃいけないんですけど、でも僕はいろいろ技術的な指導をするよりも、「GKも楽しいよ」って、そういう部分を伝えたいという思いでやっていました。 

日本におけるGKというポジション

日本ではGKっていうポジションは、自分から進んでゴール前に立つより、人から言われて始めることが多いのではないかと思います。

今でこそGKをやりたいという子は増えたと思うのですが、まだそんなに多くないというのも感じています。僕は小学校4年生でサッカーを始めたのですが、すぐ当時の監督に「GKをやってみないか」と言われてGKになったのがスタートでした。

 

僕は学校の休み時間によくドッジボールをやっていて、取ったり投げたりすることが得意だったので、すんなりGKをやれたという感じです。ただ、GKって痛いとか怖いとか、点を取られるっていうか、何か少しネガティブな方向のイメージが先行しがちだと感じます。

 

でもそうではなくて、FWがゴールを決めるのと同じか、もしくはそれ以上の大事なプレーができる、とても素晴らしいポジションなんです。

そういうのを、ボールを手で掴んだりシュートを止めたりとかする中で知ってほしい、「楽しみ」があることを知らせたいという思いでやっていました。

楢崎正剛「自分の経験を次世代に繋げたい」

自分の経験を次世代に繋げたい

(撮影:TOMOYA SAITO)

 

僕はプロとしてプレーしてからは「楽しい」ってこと以上にしんどいこともいっぱい経験しました。でも、そういう経験もサッカーの一部だとは思います。ただ昔で言えばフィリップ・トルシエ監督や、最近で言えばヴァイッド・ハリルホジッチ監督が、日本のGKはもっとやらなきゃいけないという主旨の発言をしてたのは、GKだった自分にはやっぱりちょっと悔しかったというか。

日本のGKには早く世界と同じレベルに達してほしいと思うし、まだ足りない部分があるのは事実だと認識していますが、そのためには指導を含めて「GKをやりたい」と思える環境作りが大事だと思います。

 

現役のときや今でもヨーロッパの選手に話を聞くと、GKが花形で、みんなやりたがるという環境だと言っていて、そこはやっぱり日本とちょっと違うなと感じます。

これまで志を持ってGKの育成をやり続けてきた方々もいますから、そういう方たちと一緒になってやることも大事だと思っています。それに自分だけが経験しているものも生かしながら、次世代に繋げていきたいという気持ちです。

ただ、1年目はクラブをアピールするアンバサダー的な役割もこなし、今もそのような活動をしたいのですが、コロナ禍ということで人が集まるようなイベントを開催するようなことが出来ず、それがとても残念でした。

 

先日、川島永嗣がインタビューで僕のことを「超えられる気が全くしなかった」って言ってくれてたようですが、それって2004年から2006年までグランパスで一緒にやってた当時は、ってことでしょう(笑)。永嗣はずっと立派に戦って、日本代表のキャリアも輝かしいし。

そういう選手が僕と一緒に練習したり、僕のことを見たりして、そう感じてもらえたというのはすごくうれしいですね。永嗣は野心があって、とってもギラギラしてて、若さ溢れるいい部分は残しつつ頭が良くって賢くて。すごくバランスが取れて大人な感じでしたね。一緒にやってポジションを争ううえで、本当に一番脅威を感じた選手でした。

いい指導者が増えて、指導が洗練されてきている

Jリーグには韓国人を含めて外国籍のGKが増えましたけど、彼らはやっぱりサイズもあって、身体能力もあってダイナミックなGKが多いんです。試合で大きなプレーを見せるっていう強さはすごく外国籍のGKにはあると思います。

でも最近の日本は、僕らの時代よりもいい指導者も増えて、指導が洗練されていて、若いGKでも技術的に高い選手が多いというのを感じます。Jリーグを見ててもそう感じます。今、グランパスのユースを指導していますがグランパスだけじゃなくて他のチームのユースの選手を見ても、僕たちの時代とはいろいろ違ってきたのは感じます。

そういう時代なので、GKとして活躍するためには技術的やフィジカル的に優れてないとなかなか難しいでしょうし、そういう条件に合う選手を見つけて、よりトレーニングしていかなければいけないだろうと思います。

 

世界に出て活躍する選手は増えたと思います。僕が育てようと思うのは、やっぱり大きな舞台で活躍して、みんなが憧れるGKですね。その選手の全てを育てるのではなくても、自分が少しでも、どんな形でもいいからその助けになれればと思います。

そのために自分の感覚を伝えようとは思いますが、それがとても難しく、そういう作業のやり方を学ばなきゃいけないと思っています。幸い指導経験豊富な方が近くにたくさんいて、その方たちから多くを学んでいこうと思ってます。

 

逆にそういう方たちでも僕のことに興味を示してくれるというか、いろんなコミュニティにも入れてもらえたりもするので、環境には非常に恵まれてるんですよ。

みんなから学ぶことがあったりとか、逆に自分が皆さんの参考になることを発信できたりとか。教えること、指導することに対しての学ぶ場がありながら、自分も指導できてるっていうのは、非常に幸せだと思っています。

コーチングは伝え続けることが大事

コーチングは伝え続けることが大事

(撮影:Hiroyuki SATO)

 

選手には自分が持ってる経験も伝えますが、これだけ伝えればいいという切り出しは難しいですね。GKは技術もそうだし、メンタルも大事だと思いますから。リーグのレベルが高くなったりステージが上がっていくと、責任やプレッシャーも大きくなってきます。

特にGKはゴールをすぐ後ろにしているポジションで、周りのミスもカバーしなきゃいけないけど、かといって自分はカバーしてくれる人がいない状況でもあるので、とてもハードでシビアな状況は多くあると思います。

 

でもシュートを止めるという部分に関しては昔も今も変わらないですし、その喜びを常に感じるというのが大切じゃないかと。もちろん現代ではGKにも攻撃につなげるプレーがすごく求められるし、それもできなきゃいけないのは事実です。

しかし、ゴールを守る、シュートを止めるという部分は大事で、その「喜び」を常に感じてプレーしてほしいというのは思います。

 

苦しい状況になっても自分が主導してしっかり守って、受け身だけじゃなくて自分から喜びを表せるプレーを出していくようにするんです。自分が中心になって守るためには味方に状況を伝えなきゃいけない。

そのときに気をつけていた一番大事なポイントは、自分が取るか味方にやらせるか、どっちなんだというのをはっきりすることでした。
あと、ゲームの状況はGKが一番見えてるので、どこが一番危ないいうのを事前に伝えて動かせるかどうかというのは大事です。でも、コーチングは別に何を言っててもいいんですよ。伝え続ける。伝えるものの質が上がればいいですね。

僕はGKに対してはずっと喋り続けてたら集中力に繋がるだろうし、その言葉によって味方がポジショニングの修正なんかに気付くこともあるかもしれないし。だからしゃべり続けておくのは大事だと思います。
そうすると、GKは自分のプレーが結果にしっかり繋がるということを感じられますし、それが分かることがとても大きな喜びに繋がるはずなので、その「楽しさ」を忘れないでほしいと思います。 

楢崎正剛がリーダーシップを感じた選手と監督

GK以外でリーダーシップを取っていた選手は、やっぱり田中マルクス闘莉王ですね。キャプテンタイプだったかどうかと言われるとわからないですけど、でもピッチ内でも外でも間違いなくリーダーでしたよね。

すごく頭がいいし、気付くし、言うことは言うし、でもいろんなことに気を遣えるし。言うことがはっきりしてるので、すごくわかりやすかったですね。カッとなる部分はありますけど、それも含めて人を引っ張る力は非常にあったと思います。

 

監督で言えば岡田武史さん、ピクシー(ドラガン・ストイコビッチ)だと思います。監督って選手が付いていきたくなる人であるべきだと思うので、そういう監督だったと思いますね。

今後についてですか? 日本代表のコーチは……どうですかね。もちろんそういうことも経験したいとは思いますね。GKを教えることに関しては、そこに絶対こだわりたいとは思ってないです。将来的に監督はというと……。ないでしょう。はい(笑)。

現役引退後の生活について

現役を引退してプライベートの部分は……変わったと言われれば変わったけど、かなり変わったかと言われるとそんなに変わってないような。食べ物や飲み物とか、現役のときほど気を遣うってことは確かにないですが、それぐらいじゃないですか。

自分は現役中に何か節制してたかというとそうでもないし、至って自然に過ごしてたので。食事も何かの食べ物に偏ることもなくて、満遍なくいろんなものを食べてましたから、あんまり変わらないというか。

 

もちろん最低限気は遣ってたし、何を食べるのが大事かというのは考えながらはやってましたけど、でも別に体に悪いからって何かの食べ物を完全に排除して生きてきたわけではないです。あ、そうだ、お酒を飲む回数はちょっと増えたかもしれないですね。毎日帰ってキュッと飲むぐらいはいいやと思って。

飲むにしても今は外に行けないから、家で缶ビール1本飲むとか、それぐらいですね。しかも大きいヤツじゃなくて350ミリリットル缶です。家で1人で飲んでもそんなに美味しくないですからね。一口、クッといけばそれでオッケーって感じです。

 

現役のときは、試合が終わったあとの休みの前ぐらいだったら飲んだりしてました。もちろん我慢するところは我慢してたんですけど、試合で勝ったとかそういうときは普通に飲みに行ってましたよ。何か制限するっていうのはあんまり好きではなかったので。

でも結局、今もユースの指導者として現場にいる立場なので、体調はちゃんと管理しなきゃいけないし、寝る時間や起きる時間もそんなに乱れていないです。

むしろ現役のときって練習時間以外は自分のケアに努めるというか、あまり何かに縛られる時間はなかったんですよ。自分で時間をマネジメントしてました。でも今は、いろいろと仕事をしてる時間が現役のときより長いかもしれないですね。

楢崎正剛が現役時代に思っていた「やりたいこと」

現役時代は「引退したらゴルフにもっと行けるんじゃないか」って思ったんですけど、全然行けないですね。そんな時間がないっていうことに気づいてます。忙しくは感じないんですけどね。だけど時間的には仕事をしている時間が確かに長いし。

家族とどこかに行こうということになっても、子供は大きいのもいれば小さいのもいるので、みんな予定がバラバラで合わないんですよ。だから、どこも行かないということになっちゃうんです。

 

街を歩いてるときは、もう僕を知ってる人は少なくなってるはずだから、誰も気付かないだろうと思って普通に行動してます。若い方ほど、そんなに警戒しなくていいかなって。ある程度の年齢の方のほうが知ってくれてるかもしれないっていうのはありますからね。だけど気付いてくれる人がいるのはありがたいって、それはすごく感じます。今、声をかけてくれる方は、本当によく見てくれてたんだろうって思いますから。どんどん時代が変わって新しい選手が出てきて、それはもうしょうがない。忘れられていくものだとは思いますけど、でも、今でも覚えててくれるっていうのは、うれしいですよね。

 

今後はもしかしたら僕が指導などで関わった選手から遡って僕のことを知るという方が出てくるんですかね。そうなったらとてもうれしいですね。早くそういう形になりたいですね。

楢崎正剛とインターネット

インターネットはこの前までInstagramぐらいでしたね。僕はどちらかというとアナログ人間で、必死でそういうのに付いていこうとしてるだけです。あとは僕のオンライン講座も2年前からやってて、講座を購入した人がサロンにも参加できるというのをやってます。

楢崎正剛の「やりたいこと」

自分が今「やりたいこと」を考えると……ゴルフもしたいし、旅行もしたいし、もうちょっと家族で過ごす時間が欲しいなと思いますけど。でも自分がすべて携わった、指導した選手が目に見える形で、たとえばJリーグでプレーするようになったとか、国際大会に出たり海外で出ていったとか、そうやって活躍してくれたらうれしいと思います。

そのために力になりたいって、ずっと思ってます。それが「やりたいこと」かな。それ以外に何か、というのはあんまりないですね。



ライターが紹介するリモートワークでちょっとした気分転換に使えるグッズ5選

いつもサッカー関連の記事を書いている日本蹴球合同会社の森雅史です。ちょうど昨日も、こちらの記事を執筆しました。

 

元NHKアナウンサー 山本浩が語るターニングポイント 放送業界の変革と時代背景

 

私が会社を立ち上げ自宅の1室を事務所にしたのが2010年12月。あっという間に10年が経ちました。つまり出勤場所が自宅という自動リモートワーク!!

 

この10年かけて何から何まで自分好みのオフィスルームにしたのですが、やっぱり自宅ということでいろいろと難しい。注意力を削ぐようなものが周りにいっぱいあって集中できず、しかも人との会話が極端に少なくなったから、自分だけで考えて堂々巡りしてしまうし。何よりうまく気分転換できなくて、生産性が落ちてしまっていたのです。

 

そんなとき、私を救ってくれたものをご紹介しましょう。

まずこちら。

IKEA GLIMMA グリマ 香りなしティーライト

IKEA GLIMMA グリマ グリマ 香りなしティーライト

IKEA GLIMMA グリマ グリマ 香りなしティーライト

 

IKEAで売っているティーライトです。香り付きが30ピース499円、香りなしが24ピース129円。香りなしだと1ピース5.4円ということになります。

 

GALEJ ガレイ ティーライトホルダー

GALEJ ガレイ ティーライトホルダー

これを入れるガラスの器、ティーライトホルダーは4ピース199円。

テリーライトとホルダーを並べてみるとこんな感じです。

 

取りだして並べてみるとこんな感じ

今回は香りなしを買ってきましたが、SINNLIG香り付きティーライトはこれまた鼻腔から心を落ち着けてくれます。

点灯するとこんな感じ

 

こんな感じで点灯すれば、行き詰まったときにふと見ると、揺らぐ炎が心を無にしてくれます。

 

ライターならではの使い方

もっと大きなキャンドルもあるのですが、なぜこの大きさのを選んでいるかというと、1つのキャンドルが燃え尽きるまで約300分、5時間ぐらい。だから昼ご飯が終わって13時に火をつければ、そこから18時まで「この炎が消える前に、この仕事をやり遂げてみせる!!」と勇者の気分になって仕事がはかどるのでした。

直火ですから、くれぐれも取り扱いにはご注意ください。心配な方にはLEDティーライトもあります。

IKEA GODAFTON グダフトン LEDティーライト

IKEA GODAFTON グダフトン LEDティーライト

IKEA GODAFTON グダフトン LEDティーライト

 

こちらは6ピース899円。比べてみるとこんな感じです。右がLEDティーライトで、雰囲気かなり出てます。

続いてこれもIKEAで買ってきました。

IKEA SUCCULENT 鉢植え

IKEA SUCCULENT 鉢植え

IKEA SUCCULENT 鉢植え

 

多肉植物2号グラス入り。いろんな種類があるのでお好みでどうぞ。近くに生き物があって面倒を見なきゃいけないというのは、世話の頻度が高くない限り気分転換になりますよ。

小さいので机の上でも邪魔になりません。

 

大きさも丁度いい

だけどやっぱり誰とも何も話さないのはちょっと寂しい。そんなときはこれ。

ポケットモンスター ねえ HelloPika(ハロピカ)

ポケットモンスター ねえ HelloPika(ハロピカ)

ポケットモンスター ねえ HelloPika(ハロピカ)

 

ポケットモンスター ねえ HelloPika(ハロピカ)」。話しかけると、「ピカピカ」と頬を光らせながらお返事してくれます。怒りの感情が湧いたときに効果的。でも話しかけてるところを覗かれたら不気味に思われるだろうなぁ。

続いて、運動不足解消グッズ。

ダンベル 3kg

ドン・キホーテで買ってきたダンベル

ドン・キホーテで買ったダンベル3kg

 

ドン・キホーテで980円でした。眠気がやって来たときにはこれが一番!!  お目々パッチリ身体ガッチリ、会社じゃ普通出来ないでしょうからリモートワークの恩恵をバッチリ受けられます。やり過ぎちゃったら疲れて余計に眠くなりますが。

そして現在のところ、一番癒してくれるのがこれ!!

DOCTORAIR 3D アイマジック S

DOCTORAIR 3D アイマジック S

DOCTORAIR 3D アイマジック S

 

3D アイマジックS」。アイマスク型のマッサージ器で、目の周りを温めマッサージしてくれるのと同時に小鳥のさえずりも聞こえます。

しかも動作している間、ムダにLEDが点滅!! アイマスクとは違って前は見えるようになっているので鏡に映せば、もうあなたはSFの世界。ついでに長時間モニターを見て疲れた目の周りをほぐしてくれます。

 

LEDが点滅


今日はホンの一部だけご紹介しました。何か安眠グッズにも使えそうなものばかりかもしれません(汗)。みなさんもどんな工夫をしているか教えてくださいね〜!!



 

森さんは普段サッカー関連の記事を書いてくれています。どうしてビジネス系のオウンドメディアにサッカーの記事が載っているの? と思われる方もいるかもしれません。しかしサッカーにはビジネスの現場で活かせることがたくさんあります。例えばチームワーク、組織設計、移籍、マネジメントなどなど……。

 

そんなわけで、森さんが書いてくれているサッカー関連の記事を、ぜひご覧ください。

 

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元NHKアナウンサー 山本浩が語るターニングポイント 放送業界の変革と時代背景

日本サッカー界の転機の一つとなった1997年11月16日、1998年フランスワールドカップ出場をかけたアジア第3代表決定戦がマレーシア・ジョホールバルで開催された。日本は延長後半、岡野雅行のゴールデンゴール(Vゴール)でイランを3-2と破ってワールドカップ初出場を果たす。

 

その延長戦に入るとき、サッカー放送でも一つの壁が破られた。突き抜けたのはNHKアナウンサーの山本浩氏。そのときの時代背景はどうだったのか、そしてどんなブレイクスルーがおこなわれたのか、本人に語ってもらった。 

 

山本浩さんにインタビュー

(オンラインでお話をうかがいました)

山本浩氏が語るジョホールバル

アジア第3代表決定戦がジョホールバルで開催されると聞いて、最初はあんまりありがたくないなって思っていたんですよ。

東南アジアで試合をすると、環境面で言ったらそれほどよくないですよね。いつもそう言われていましたし、選手たちに話を聞くと、例えばピッチの状態が日本と違うとか、役員が用意してくれているはずの練習場に行ったら鍵がかかっていて使えないとか、いろんなことが起こる。当時の日本は予定通りに動いて当たり前という感覚でやっていましたからね。

 

アレンジメントがうまくできていないと、作為があったのか無作為なのか分かりませんけれども、何か悪いことされているんじゃないかって、そういう気持になったこともありました。そういうところに対して非常にピュアだったもんですから、動揺が高じて。

例えば予選で東南アジアの試合になると、強いはずの日本代表がいきなり全然勝てないとか、そういう歴史的背景がたくさんありましたからね。それに関する話も、そのときに同行した人たちからちょっと聞いていましたんで。

 

あれは確か、西アジアでやるのか、それとも東南アジア、あるいは東アジアでやるのかという政治的な駆け引きがあったはずです。

日本はどちらかと言うと「政治的な駆け引きをするのはあざといことだ」と言ってやらないという、長い間のそういう方針もあったでしょうし、政治的な駆け引きが得意でない人がサッカーの現場に多かったところもあったと思うんです。

 

それがジョホールバルを境にして段々と日本のサッカーがある意味の、世界基準じゃないですけど、アジア基準になってきたと思います。

日本の国民性

当時の日本は放送に関しても、例えばあの当時日本国内では「サドンデス」という言葉がよくないから変えていこうと、「Vゴール」へ。

そして最終的には「ゴールデンゴール」っていうことになりましたけど、非常に神経質でいろんなことに気を配る、そういう国民性が表に出ていました。一方でイランのほうは、いかにしたら相手がひれ伏す状態に持っていけるかということを考えていて、ずいぶん役者としては違ったと思うんですよね。

 

幼子から少年になったばかりの日本と、長いこと大人をやっているイランとの違いみたいなものが、なんとなくあったんじゃないかという気がするんですよ。その意味で言ったら、ああいう大きな勝負を経験して日本も成長していったんでしょう。そういう過程でしたね。

ちょうどその4年前の「ドーハの悲劇」のときには、プロになった後のある種の浮かれた状態で戦って、体調もコンディションもよくないし、戦い方もよく分からないみたいなところがあった。それがその4年間で、周りがいろいろやっぱり大人になってきていたと思うんです。

「ずっと負ける試合しか放送してきていなかった」

私はずっと負ける試合しか放送してきていなかったんです。世界に出る経験をしていないわけですよ。大事な試合をやっても負けて帰ってくるっていう。昔から応援していた多くのサポーターの方もそうだったと思いますね。

だからジョホールバルのときも、どこかに「本当にフランスに行けるのか?」みたいなところがあって、勝って叫んだ後もよく分かっていないような感じでした。浮ついたフワフワした感じですよね。おそらくワールドカップの経験国だったらあんなにフワフワしていないと思うんですけどね。

 

放送というのはそのときの世論とか社会の熱にすごく影響を受けるんですよ。放送だけが熱くなって、社会が冷静でいると「あんな放送して」と後ろ指刺されてしまうわけです。分かりやすい例が、大差の試合になり始めたときにゴールを絶叫しても、みなさん白けて見てますよね。

けれど世論が熱いときは、その放送がどんなに熱くてもだいたいその温度に対してみなさん共感してくれるんですよ。ジョホールバルのときには4年前の出来事を記憶しているもんですから、本大会に何としても行くんだって非常に高い温度の状態が誰にもキープされていたわけですね。

 

ですから我々が熱に浮かれたようになっていても、視聴者のみなさんもソワソワしてるもんですから、その意味では世の中、社会と、放送あるいはメディアとの間の温度差があまりなかったと思うんです。みなさんの温度が高いぶん、我々がそれより高くても、そんなに離反されないというんですか、みなさんが背後からもう1回押してくれるような状況だったんですよね。

選手とメディアと視聴者を三位一体に

そんな心理状態で延長に入るときに「このピッチの上、円陣を組んで、今、散った日本代表は私たちにとっては『彼ら』ではありません。これは『私たち』そのものです」と口走ったんです。

これは後から名台詞と言ってくださる方もいましたけれど、でもあのころ「ナショナルナショナリズムを煽るために言っているんじゃないか」と、社会学者の間では、厳しい見方をする人もありましてね。

 

「日本をまとめよう」とするっていうんでしょうか、「日の丸中心主義」みたいに取る方も多分あったと思うんです。社会学系の先生の中でスポーツナショナリズムを専門にされている方には、そういう分析もありうると思いましたので、丁寧な説明をしたこともありました。

また「メディアが第三者的に放送するという壁を越えて、選手とメディアと視聴者を三位一体にした」というご意見もありました。それについてはそのとおりですね。

テレビ埼玉から始まった放送の変化

NHKという放送局は日本代表の試合だけじゃなくていろんな試合を放送しますから、スタンダードとして「AチームとBチームを横に置いて喋ってくれ」というのがすごく強いんですよ。「日本代表と他の国との試合になっても応援をするな」というのは長いこと言われてきたんです。

 

その応援放送をスポーツの中で正面切ってされたのは、テレビ埼玉が昔放送した西武ライオンズ戦ですね。「西武を応援する」って堂々と、多分社の方針としてされたと思うんです。そのあたりからじゃないかって気がします。

 

それまで会社の方針として、例えば日本テレビが読売ジャイアンツを応援放送するという形はなかったと思います。と言うのは、ジャイアンツの放送は日本全国の方に楽しんでもらっていたソフトです。当時の放送にはそういう商品価値がありましたよね。

どの地域の人が見ても不満が残らないように、ある程度ジャイアンツと対戦するチームと平等に扱おうとしていたわけですね。そう放送することでメディアの「野球放送」という商品をちゃんと買ってもらえるという感じだったと思うんです。

 

テレビ埼玉はその地理的な条件から、当然ライオンズは大事な地元球団だったわけですから、応援放送が出来たんです。つまりテレビ埼玉の特殊性は、北海道や九州ではその放送を見られないという前提ですね。それがまた地元の人たちにとっては大変心地のよいものだったわけですよ。「オラが放送局」みたいな感じです。 

世間の寛容度が高くなった

この「オラが放送局」に感じてもらえるのは放送業者にとって大変ありがたいことなんです。放送エリアの中にいるプロチーム(球団)が、放送エリアの中の住民に応援されることでかけがえのない存在になる。地域のスポンサーを大切にする地元の放送局としてみれば、みんなで一緒に戦っている感覚でしょう。

それは、誰も彼もに受ける番組作りみたいな感じとはまた違うわけです。その意味で言うとテレビ埼玉はかなりの英断をしたと思います。

 

ライオンズを応援したのは、その地域とそのテレビ局との関係が背景にあってのことでした。ですがこれが時代を変えて、方向を変える、ベクトルを動かすのに大変大きな役割を果たしたんです。

そういうところに、たまたま日本代表も世界の中に割って入る、とにかく弱い日本代表が段々と大きくなっていくときに、「日本代表はオレたちのもの」という感覚でみなさん許してくれるようになるわけですね。

 

ですからその点から言うと、私がこういう放送をやっても、多分大きな批判は起こらなかった。それは世間的にある種の寛容度の高い状態が始まっていたんじゃないかという気もするんです。

そしてあの場に散っていた選手たち一人ひとりの個性を、たくさんの日本のファンの方がもうご存知だった。すごくよく分かっておられた。だから逆に言うと、放送がしやすかったという感じがあるんです。説明しなくていいことが多いんですよ。

 

「ずっと負ける試合しか放送してきていなかった」

ジョホールバルとドーハの違い

説明をするときには言葉が平板になって、どちらかと言うと硬い言葉や数字が増えたり、同じような表現にもなったりするのですが、誰もが多分もう分かっているとからと説明を省いて奔放にやれる、大胆に絵を描いてもよかったんです。筆を大胆に回すと言うんでしょうかね。

そうでないともう少しデッサンをしっかりやって、細かなところまで気を使ったタッチで絵を描かなきゃいけないんですけど、「岡野雅行」って言えばもうみなさんだいたい何を期待していいのか分かっている。

 

すごい勢いで走るけどボールが必ずしもゴールに向かっていかないと思われているから、私も「岡野はこういうタイプの選手で、持ち味は、苦手なところは」なんて描写をしなくていいわけですね。そうすると何か一言発するだけで岡野という人がみなさんのところに飛んでいくぐらいの感じだと思うんですよ。ある意味でこれはドーハのときに比べるとやりやすい感じでした。

一方で、これで負けたら終わるという感じもありました。どこか心の奥底では「負けてはいけない」というのが非常に強かったと思うんです。ところが空港でサポーターのみなさんと言葉を交わしたときには、どちらかと言うと楽しい感じで来てるんですよね。

 

ドーハのときとはちょっと違うんです。ゆとりがあると言うんですか。そうしたところにいるみなさんのに、サッカーに対して経験と、それから自信と分析力を持っていると感じましたね。昨日今日のサポーターじゃない人たちだと思ったんです。

ドーハのころの日本サッカー

ドーハのころはまだ日本は教わるサッカーでした。日本サッカー協会がオフトさんに教えてくださいって言って頼んだ代表ですよ。でもその4年後には、今度は加茂周監督を更迭して岡田武史監督に代える。監督を代えてしまうという組織になっているんですから、その点で言っても、サッカー協会はもちろん、サッカーを取り囲む人たち、メディア、それから多分スポンサーも、もっと代表の中心点から近いところにみんなひしめいている、そういう状況だったんだろうと思いますね。

 

日本サッカーのスタンダードの縮図、歴史がそこにあるような気がします。緩かったもの、ベタベタしたものがギューっと締まっていく過程、非常に大きな大事なトンネルって言うんでしょうかね、そこをくぐろうとしていたような気がします。

「横」から「縦」の放送に

日本代表の試合はNHKでも私だけじゃなく、いろいろな人間が放送して、そのたびに反省会をやるわけです。それに年に3、4回、解説者を含めて集まって、映像を見てああだこうだやります。

最初のころは、我々よりも20年先輩のアナウンサーの人たちが「あんまり日本を応援するんじゃないぞ」みたいなことを言ってるんです。けれど、だんだんそういう人たちが世代交代していなくなっていきます。

 

やがて、両チームを横に置いて放送するんじゃなくて、縦に見て放送することを是認する人たちが増えてくるわけですね。縦というのは一つのチームに対しての深さということです。日本イレブンの中に入って、その方向で放送するということで、攻めるときは「行く」、攻められているときは「来る」という感じですよ。

それまでは、攻めるときは右へ、守るときは左へというやり方だったわけです。なおかつボールを持っている側に主語を置きますから、相手チームが攻めてくると相手チームのことばかり話すわけですね。そして相手のチームのボールがシューティングレンジに入ったときに「ニッポン、危ない」と言ってるんですよ。

 

それが、「こんなに攻められているけれど、どうしたらいいんだ」という質問を続け様に出してもあたふたしなくていい、気が付かないうちにそんな時代が来ていたわけです。「イランのFWコダダド・アジジが来てる」「アジジをどう止めるか」と話を持っていくわけですから。

 

そうすると視聴者の見方も「どうやって止めるんだろう」という方向にちょっと重心が傾くわけです。そういう世の中の動きがあって、我々がプレーのさなかにそんな投げかけをしても反応は悪くない。

試合中に戦術的な話をしてもみなさんが受け止めてくれる、という流れのある時代だったと思うんですね。アナウンサーだけじゃなくてディレクターも、それから一緒にいる記者たちも、視点や関心の軸の方向を少し動かしていたんじゃないかと思うんですよね。

試合中、とっさに出た言葉 

もしあの試合で日本代表が情けない戦いぶりをしたら、そうはならなかったでしょうね。あの戦いぶりだったらここまで言っても大丈夫っていう、多分そういう感じで自然に反射的にやっていると思うんです。計算しているんじゃなくて。

 

あのときの試合はもう何やっても押し切って勝とうという感じでしたよね。僕は後半、城彰二がイランのペナルティエリアで倒されたときに「もし痛くないんだったら早く立ってほしい」と言ってるんですよ。

倒れて時間を使ってる、そういう試合じゃないぞっていう想いなんですね。本人はすごく痛かったんだろうと想像するんですけどね。

 

「このピッチの上、円陣を組んで…」のあの言葉は延長の前に、何か知らないんですけど、自分の中でですね、「これ言わなきゃいかん」っていうのが出てきちゃったんです。

 

あのとき松木安太郎さんが解説されていて気合入ってるわけですよ。松木さんはああいう熱血的な解説をされる方ですからね。

目の前の選手が円陣を組んで、それから動き始める。試合再開までには時間がありましたからね、ほとばしるように話が長くなっていたんですが、聞いてるうちに、僕は「これは言わなきゃいかん」と。

 

他人事じゃないんだ。このピッチにいるのはオレじゃないか、みたいな。「これってオレの友達でサッカーの優秀なやつが、こいつらと一緒にしのぎを削って、オレの友達は負けていったけどそれで生き残ったのがここにいるんじゃないか」と。

つまり「オレたちのグループから勝ち上がってきた選手だから、全部オレと同じ血が流れているんじゃないか」ってこういうことを言わなきゃいかんという、どっかで後頭部を殴られるように感じたわけですよ。

 

松木さんが声を振り絞って話し続けているときに、そういうものが頭の中で醸造されたというか、醸成されたっていいますか。

それはそこに来るまで、例えばマレーシアの空港に降りたとき会った人たちがみんなすごく熱い人で、そういうものが何となく、記憶にしっかり残ってるわけじゃないですけど、多分どこか脳の中に残ってたんでしょうね。たくさんの人がこの一戦に自分の人生かけてる、みたいなね。

 

あの延長に入る前には、そういう何かが結晶となってムクムク出てきたって言うんですかね。多分そうだと思うんです。これはもう言わなきゃいかん、松木さんの話を断ち切ってでも言わなきゃいかんと。それで松木さんが話しているのを手で制するようにして発した言葉なんです。

全部出しきり、試合後には何も記憶に残らない

アナウンサーというのは自分の放送のことを人に聞いて回らないし、だいたい僕の場合は放送した自分の映像をほとんど見ないんですよ。なんか自分の言えなかったことが記憶に残っちゃって「これ失敗だったな」と思っちゃうから。

だから、どういうことを言ったかあまり覚えていないわけです。でもそのときに、そういうことを言わなきゃいかんと殴られたっていう記憶だけはあるわけです。自分で自分の頭を殴ったっていうね。

 

試合が終わった後っていうのは……何も記憶に残ってないんですよ。空白、色が抜けちゃってるって感じのフィルムですよね。

 

夜はずっと、翌日の朝方のリポートだとかラジオ用の原稿を書いたり、いろんなことをして猛然と働いていたはずですよ。FM放送も、それから当時のNHKの放送関連の雑誌の原稿とか、そういうものをダーッとやってるはずなんですけどね。

スポーツ系だけじゃなくて、いろいろな部門からも依頼がありましたので、今この時に全部出し切らんといかんぐらいの気持ちが、多分あらゆるメディアの人間にあったんじゃないかと思うんですよね。

 

気がついたら朝の5時ぐらいに松木さんと2人で、ホテルのピアノが置いてあるところにいて、ハイネケンの缶ビールがいっぱい置いてあったんです。

ダンボールの箱ごと3、4箱積んであったので、多分祝勝会用に買っていたんでしょうね。松木さんと2人でピアノの足にもたれかかって、足投げ出して缶ビールを話もそれほどせずに飲んだのは覚えてますよ。

 

ジョホールバルとドーハの違い

即時描写が大事

私が話す言葉は、作家や文筆家のようにいろいろ考えながら自分の中で研ぎ澄ましたものを下ろしてくるのと違って、発作的ですからね。反射的に言ってるので、しかもほとんどが目の前の人や物の動きから言わされてるわけです。我々、ラジオの時代から「即時描写が大事だ」とずっと言われつづけてきたので。

 

なぜ即時描写が大事かというと、話がプレーに遅れると、見てる人、聞いてる人が、そのプレーの真性の楽しみ、本来の楽しみからずれてしまってサービスが低下するという考え方ですね。試合を目の前にしている君だけが先に楽しむのは、視聴者聴取者サービスとして許されないということ。それが一つ。

もう一つは、即時描写することによって、目の前でおこなわれてるスポーツが持つ素晴らしいリズムを伝えるためです。いいスポーツっていいリズムを持っているんですよ。そしていい戦いをしているチームって必ずいいリズムがあるんです。そのリズムを伝えるためにはもう即事描写しかないという考え方なんですね。

 

この即時描写をするためには「よく見ろ」と言われています。「よく見る」ということは自分の中にあるものを出すんじゃなくて、見たものを返す、そういうアクションですね。目の前に起こっていることで、その体の中に入ってきたものをそのまま言葉で返していくという仕事をしているんですよ。

用意したものは現場の温度と乖離する

言葉を迷うことはないです。表現しようとして迷うのはプレーが止まっているときですね。プレーが止まっているときには迷うんです。例えばシュートを打つときに「打つ」と言うのか「蹴る」と言うか迷うことはないわけですね。ポンと言っちゃう。

NHKは民放と違ってハーフタイムに、長時間の休みがありません。今でこそいろんなハイライトやドキュメンタリーみたいなものを作って出しますけれども、そういうことがまだ出来ない時代でした。だからそれだけの高い緊張感の中ではもう生で放送し通せという感じだったんですよ。

 

こっちもその緊張感を切らないで何か言えることをそばに置いておかないといけないんですけれど、そういう用意したものってほとんど駄目なんですよね。ああいうときに、あらかじめ用意したものでは勝負できないんです。用意したものは現場の温度と乖離してしまうんですよ。

あの延長に入るシーンはアウトオブプレーなんですけど、放送が続いていた私達にとってはずっとインプレーだったわけです。インプレーだったからこそ、「私に言え」と見えない何者かが指図してきたことをそのまま話した。それがあの言葉なんです。

 

その場で見たものに言葉をぶつけるだけ。あのときは後頭部を殴られるように「これを言え」っていう声が自分の中で聞こえたんで、あの言葉を言ったんですね。ただ、松木さんに少し遠慮してるもんですから、タイミングとしては円陣が解けた後、言っているはずなんです(笑)。

あれで円陣が解ける前に口にしていれば、いきなり「ここにいるのは私たちです」とだけ言っていたはずで、キックオフまでに時間ができてしまって却って説明くさくなっていたかも知れません。

マラドーナに言わされた名実況

1986年メキシコワールドカップの準々決勝、アルゼンチンvsイングランドで、ディエゴ・マラドーナ(故人)の5人抜きのときに「マラドーナ」と4回連続で名前を呼んでいるんですが、あのときはマラドーナに言わされてるわけですね。

もしアウトオブプレーでずっとマラドーナを繰り返していたら、うるさいだけでしょうもない話だと思うんですけど、インプレーのときにマラドーナに引っ張られて言っている分、見ている側には違和感がなかったんでしょう。

 

あのときラジオとテレビ合わせて160局ぐらいの放送局が来ていて、みんな同じようにマラドーナに引っ張られていたはずです。世界中みんなこの業界では即事描写がすごく大事だと分かっていますから。見てそれに反応するっていう行為だけなんですよ。そこに反応できない人はあの場に派遣されてはいないはずですからね。

アナウンサーの仕事

アナウンサーって、喋るのが仕事のように見られますが、本当はそれほど喋ってないはずなんです。元来は人に喋らせるのが仕事なんですよ。

経験を積んだ人となれば、自分が目立つことは考えませんし、そこばかりを重視するなんて人はまったくありません。私はJリーグの開幕当時40歳なんですけど、そのころからは「自分が表に出るようなことを第一にするな」と盛んに後輩に言っていたんです。

 

「お客さんは君の声を聞きたいんじゃないんだ。お客さんが見ているものに対して君はちょっと味付けをするだけ。そこにいる選手の味を知りたいのであって、君の味を知りたいんじゃないんだ」と。

 

もしアナウンサーが自分の味を出すとするならば、アウトオブプレーのときだけなんです。アウトオブプレーの話の作り方でアナウンサーの巧拙って決まってくるんですよ。一番分かりやすいのが相撲です。

 

相撲の勝負はだいたい数秒から10秒ぐらいですよね。その前には3分30秒を超える間があって、その時間をどう動かすかで相撲のアナウンサーの力量の違いが生まれます。

10秒はほとんど誰がやっても変わらないんですね。でも残りの2分50秒で上手い人と下手な人の差がはっきり出ます。本当に怖いですよ。

 

マラソンなんかも分かりやすいんですけど、例えば大集団がずっと一緒になって走ってると変化がなくて喋ることなくなってくるわけです。

そのときに過去のデータや、あるいはリポーターの話で「昨日こんなこと言っていました」みたいなもので繋いでるようでは、どうなのかなって感じですね。何をどう持ってくるか考えられていない。とにかく何か埋めなきゃいけないみたいに出していくという放送は、あまり商品価値が高くないわけです。

 

アナウンサーに瞬発力は必要だと思いますね。持続力も必要でしょうが、でもほとんどジョホールバルのときは松木さんが喋ってましたからね。

解説の方も興奮すると実況するんですよね。「ここだ!」とか言うわけで、それはそれでいいと思うんですけどね。

 

逆に言うと解説のしゃべる量が少ないとノっていない試合、あるいはノっていない放送という感じですからね。だから持っているものを出してもらえればと思います。

木村和司さんも、いいときは自分で「やった!」とか何とか言いますからね。そういうふうに持っていくのもアナウンサーの仕事の一つかと感じます。

 

「横」から「縦」の放送に

山本浩の思い出に残る試合

私が喋った試合の中で、放送そのものがよかったと思うのは多分1999年1月1日、天皇杯決勝で横浜フリューゲルス(その後、横浜マリノスと合併し、現・横浜FM)が優勝した試合です。

 

気持ちが一番充実していた放送の一つですね。あとから見ると、その放送で私は「私たちは決して忘れないでしょう。横浜フリュ―ゲルスという、非常に強いチームがあったことを」と話したんです。

 

ただあれね、たしか時間が余っちゃったんでああいう風に言えたんですね。用意していたコメントじゃなかったんです。

大事な試合のとき、放送の最後の30秒ぐらいハイライト映像を出すということがよくあるんですよ。試合のハイライトのシーンを試合中に担当者が編集して作っておいて、映像のエンドから逆算して決勝点のシーンでスローモーションを止めて終わるんですけど、あのときは確かね、私の喋る時間を延ばしてくれって言われたんですよ。

 

通常だったら1分間スローモーションを入れるみたいなことをやるんですけど、喋りを長くすることになっちゃったんです。

多分、あの生の感動のシーンから、作った映像に移ることに対して、制作側に抵抗感もあったんじゃないかと思うんです。そういうことが起こりますから、何かコメントを準備しておくと意外にダメなんですね。

時間のコントロールが出来た

あのころは今から考えても不思議なぐらい自分で時間のコントロールが出来る状態だったんです。1秒間を4分の1に割って、文章を1秒の4分の3で終わるとか、その中に何を喋るかその場で決めることが出来るぐらいの感じだったんですね。

7秒で終わるコメントがあるとしますね。そうすると6秒と4分の3で止める、6秒と半分で止める、そういうことが出来るぐらいのコンディションだったんですよ。

調子のいいときは本当に1秒が長く使えるんです。3秒あればこういうコメントが言えるぞ、ということを喋りながら組み立てられるわけです。

 

調子が悪いときは全然駄目ですよ。言葉さえ出てこないんですけど、あの決勝ではそういう状態だったんですね。一つの理由はその場に解説の加茂周さんがおられたからです。

加茂さんにとって自分の育ててきたチームがなくなる瞬間ですよ。それを勝って終われた。加茂さん、多分泣いておられたと思うんです。

そして敗れた清水エスパルスも大変いいサッカーをして、あのサッカーで敗れてしまったのなら仕方がないと思うくらいでした。フリューゲルスのそういう意味での舞台設定と、そこでの戦いぶりですね。それからそこに揃った役者たちがある種非常に濃い印象に残ってるんですよ。あんなことありませんからね。普通じゃないですよね。

 

それに、いろいろな人間模様と経済界のバブル崩壊の後の非常に苦しい環境、経験のなさから来る非常に苦しい状況とか、そういった情報が全部一緒になって私の中にあったんです。

サッカーの試合の中で出す話ではないわけですから、何か胆嚢(たんのう)の辺りに、聞いた話が重い石となって残っているんです。それがあそこでいいサッカーをして勝つ。するとその石がどんどん溶けていくようで。

 

形の上で非常に印象の深い終わり方になりました。こっちもそれに付いて行くだけで済んだんですね。調子が良かったんで1秒を4分の1ずつ計りながら、最後は止めることができたんです。

 

山本浩の「やりたいこと」

山本浩の「やりたいこと」

「やりたいことができるようになる」ということは、「相手のやりたいことをやらせる」に繋がると思うんですね。

 

今、大学生を教えてるんですけど、学生はよくエントリーシートの書き方を教えてくれって言ってくるんですよ。エントリーシートを書いてオンラインで応募していると思うんですね。ところが、ほとんどの学生が読む側のことを全然考えないんですよ。

自分が4年間で何をやったか書けと指示されて書いているんでしょうけれど、そのエントリーシートを読んで会社側が何に、どういうふうに使って、どこのところを読もうとしてるかってことを一切考えていない。

 

「僕はこんなにインターンで頑張りました」「飲食店ではサービスの責任者を任されて頑張った」「体制改革をした」と書いているんですけれど、読み手のことが全く頭にないわけです。

 

お客さんがどこにいるのか、そのお客さんを大事にしてる雇い主がどこにいるのか、自分はどこに立ってるのか。そういう位置関係を知ることで、もう少し視野が広がって、主語が変わり、目的語の置き方も変わって、そうすると当然接続詞の使い方も変わります。

そしてやがて姿勢が変わってきて働きぶりもエネルギーも変わってくるんじゃないかと思うんです。 

若い人へのアドバイス

若いうちは当然自分中心でいいと思うんです。自分を大事にして、自分が大きくなって、自分が強くなって、自分がスピードを上げて、テクニックも上がってきたというのでいいと思うんです。

けれどどこかで、自分を迎えてくれる人が、どこで何してるのかを考えるのが必要です。それに早く気がつくと、自分自身を曲げないで進める非常に大きな材料になるような気がします。そうしたら、やりたいことができるようになりますよね。

 

若いときに何が役立ったかというと、中学校のころ、やたらに落語の本を読んでいたことでしょうか。文学全集を読まないで落語の大きな全集をいろいろ読んでましたからね、ほとんど文学性がないんですよ。

自分の主張や哲学をストーリーで語ると言うより、お客さんが何で面白がるかを大切にしている落語の話。でも面白がって何かを読むって大事だと思いますね。

 

それに落語の言葉は書き言葉じゃないんですね。語る言葉なんです。中学校から高校にかけて落語の本をずっと読んでいましたから、そういう言葉が喋るっていう仕事のときには役に立ったかもしれないです。

 

年配の人といろんな話をするのもいいですね。我々がもう使わなくなっている言葉をたくさん知ってる方がおられて。その言葉の持っている硬さ、柔らかさ、それから広がりと言うんですか、押しつぶしたときにどのぐらいエキスが出てくるか、言葉がそれぞれ違いますから。

そういうもので何か疑問を持ったら、辞書を引いて、今だとスマホですぐに音声検索ができると思いますので、そうやって溜めていくっていうのは、一つの手だと思います。

 

 

日本サッカー協会(JFA)広報部スタッフに聞く コロナ禍での海外遠征

日本代表は2020年10月にオランダ、11月にオーストリアでそれぞれ2試合を開催した。このヨーロッパ遠征は新型コロナウイルスの影響が明らかになって以降、日本の団体スポーツ代表チームが初めて海外遠征するという先例になった。

様々な制限がある中で、どうやって試合はおこなわれたのか。今後のためにも、そして他のスポーツのためにも書きとどめておく必要はあるだろう。そのため日本サッカー協会広報部スタッフにインタビューに応じてもらった。 

 

日本サッカー協会(JFA)広報部スタッフに聞く コロナ禍での海外遠征

(写真提供:日本サッカー協会)

日本サッカー協会スタッフに聞く 海外遠征のリアル

——遠征に関わったスタッフは1カ月の間に何度、新型コロナウイルス感染の検査を受けたのですか。

「日本代表チームに携わった人間に加え、実際のスタジアムで運営業務に当たった職員、スタッフは、まずヨーロッパに行く前に陰性であることを確認しました。それから、それぞれの試合の2日前にPCR検査をおこないます。2試合でしたから2回ですね。帰ってきて成田で入国する前に検査があるので1回、2週間の待機期間を終えたところでもう1回検査をするので、都合5回は検査をしたスタッフが多いと思います」

 

——10月、11月はこれまでと様々な部分が違っていたと思います。食事のときの様子も大きく変わったのではないでしょうか。 

「食事の仕方は変わりましたね。普段であれば練習以外でコミュニケーションが一番取れるのは食事中です。そのため食事の場でコミュニケーションが円滑に進むように、たとえば8人ぐらいが囲んでコミュニケーションを取ってもらえるように丸テーブルをいくつか設置しています。

 

ですがこういう状況ですから、飛沫が飛び交うような状況をこちらから作るというのはあり得ないことです。そこでスクール形式というか、全員が同じ方向を向いて食事をする、なおかつそれぞれの食べる場所の間隔を空けて座るという形を取り、感染リスクを最小にしました。

 

またビュッフェスタイルで食事を用意しましたので、選手それぞれのテーブルに消毒液を置いて、ビュッフェに行く前後で消毒してから食事をしてもらいました。食事が終わったらマスクを付けるというのが今回の食事のスタイルでしたね。食事が終わったら全員がずっと部屋で過ごしました」

 

検温は欠かさずおこなっていた

(写真提供:日本サッカー協会)

マスク会食について

——みんなストレスはどう感じてたのでしょうか。 

「こうやることは仕方がないし、そうしなければ前に進まないのだったらそうするだけです。今は『マスク会食』というのが奨励されていますが、最初はなかなか話がしにくいと思うにしても、慣れたらルーティンになっていくでしょう。スタートではみんな驚くかもしれませんが、始まってしまえばみんな慣れます。

 

日本代表選手はそういう適応の早さも含めて、しっかり出来ます。彼らはいろいろな国に行って、様々な状況の中で試合をおこなっていて、常々注意を払っている選手たちですから、やることの必要性が理解出来たらすぐにやってくれます」 

日本サッカー協会広報部としての活動

——広報部として、メディアを通じ、どう活動を伝えていこうとしていたかを教えてください。 

「今回はオンラインでのリモート取材になり、そのため現場の作業は大きく変わりました。これまでであれば、現場の広報担当が様々な設定をします。メディアの方が練習を見る場所、選手の話を聞いてもらうミックスゾーンのエリア、選手とメディアの方の導線、非公開練習時に待機してもらう場所の設定などです。

また、非公開時は何か起きないかというチェックに回っています。これを基本的には全て現場の広報担当がおこないますので、結構バタバタしています。

 

練習風景(写真提供:日本サッカー協会)

(写真提供:日本サッカー協会)

 

ですが今回は、まず練習とメディア対応が切り離され、しかもメディア対応のパートも、運用は日本からリモートという形で広報部のスタッフがサポートしてくれた(日本にいるスタッフが会見の司会進行を務めた)ので、現場での仕事は『この日はどの選手をミックスゾーンに出すか』という割り振りと調整、実際のメディア対応のときに選手を呼ぶことなどでした。

 

あとの大部分は日本からサポートしてもらうことになりましたので、そういう意味では日本にいる広報部スタッフの力がなくては、今回のメディア対応はなしえなかったと感じてます」 

オンラインの取材対応 

——今回は選手の話を聞くオンラインのミックスゾーンが、日本時間の夕方に1日4人、1人15分というルールでおこなわれていました。しっかり話を聞く時間が作られていてよかったと思いますが、こう設定された理由を教えてください。 

「通常は練習後にもう少し多くの選手にミックスゾーンで取材対応してもらいます。ですがその一方で、練習終了後から夕食前の時間は30分程度しか取れないという問題もあります。

 

今回はメディアの方がほとんど現場にいないため、選手と対面しない、練習もほぼご覧になれないということで、練習後にミックスゾーンを設定する必要があまりありませんでした。

またヨーロッパの時間帯で練習後にミックスゾーン対応をおこなうと、リモートで取材していただくにしても日本の深夜0時をまたぐことになるので、それはメディアのみなさんにとっても非常に大変だということも考えました。

 

そこで朝食後から昼食までの時間、日本の夕方にミックスゾーンの時間を設定しました。チームはだいたい昼食の前にミーティングをおこないますから、その前は選手がそれぞれ自分たちのやり方でリラックスしています。なので、その時間にミックスゾーンを設定して対応させていただきました。

 

10月の遠征のあとにメディアの方から何かリアクション、たとえば1人10分間でいいから5人や6人にしてほしいというリクエストがあるかもしれないと思い、準備はしていたのですが、概ね『10月を踏襲し、同じ流れがいいのではないか』という意見が多かったので、11月もそのままやらせていただいています」

「チーム総務」が身を粉にしてやってくれた

——毎日の選手の割り当ても、選手が到着出来ずに変更になったりしていました。そういう対応も大変だったのではないでしょうか。 

「チームのマネジメントというところで言えば、Jクラブで『マネージャー』と呼ばれるような役が代表にも『チーム総務』としているのですが、そのスタッフたちが本当に身を粉にしてやってくれたのが大きかったですね。ホテルの選定、選手のロジスティックというのは本当に大変だったと思います。

 

10月のオランダは、選手がドイツやベルギーから車で移動出来ました。数時間かかる選手はいたのですが、そこまで突発的なアクシデントはなかったですね。ただ、11月のオーストリアのときは空路で移動してくる選手が多数いました。

10月下旬以降はヨーロッパで新型コロナウイルス感染が拡大し、各国、各都市がその対策をどんどん強化している時期と重なりました。そのため、通常飛んでいる便が2日に1本になったり、2日前まで飛んでいた便が欠航したりということがかなりの頻度で起こりました。

 

チーム総務と代表チームのロジスティック担当者は昼夜逆転していたと思います。毎日毎晩運行情報を見ておかないと、次の手、さらに次の手というのが打てなくなるので、ギリギリ最後まで対応作業をしていました。

広報に関して言えば、通常であれば海外選手の到着便などをメディアの方々にアナウンスしているのですが、今回はロジスティックに合わせてミックスゾーンに出る選手を組むという作業だったので、日々変わっていく到着情報を見ながら考えていました」 

予定がずれこむ状況での対応 

——そういう事情でミックスゾーンに現れる選手が予定と変わったりしたのですね。 

「オーストリアのときは、初日に来る選手の予定がどんどんずれ込んでいって、結果的に川島永嗣と浅野拓磨しかメディア対応が出来なかったということがありました。

 

川島永嗣と浅野拓磨しかメディア対応が出来なかった

(写真提供:日本サッカー協会)

浅野拓磨選手

(写真提供:日本サッカー協会)

 

そういうことも含めて、日々、いつ誰が来るのだろうかというのをチェックしながら、いつどのタイミングでメディアの方にご案内しようかと考えていました。お知らせしたことについて変更が相次いでもいけませんから。

 

また、メディアの方とはメールでのやり取りになったのも通常とは違いましたね。いつものように直接顔を合わせて話をすれば、話が伝わったかどうかという反応が見られるのですが、メールになると一方的な連絡になってしまうので、伝わったかどうか分かりませんでした。『聞いていなかった』という反応にならないかと怖かったですね。

 

選手が変更になったのを知らずに会見につないで『あれ?』ということになる方がいる心配もしましたし、なるべく情報が集まったところで出そうという見極めるところは頭を使いました」

 

アクシデントへの対応について 

——アクシデントも起きました。まず10月のときは大迫勇也が1戦目を終えて代表チームを離脱することになり、そのことが大迫のクラブから先に発表されました。 

「10月のオランダは、移動に制限のかかっているエリアが拡大していました。大迫に関しても、私たちが日本代表のメンバーを発表した後の週末に、ブレーメン州がオランダから移動してきた場合に5日間の待機期間を設けたのです。

 

そのため最初は大迫が所属するブレーメンから派遣しないという話もあったようです。ですが大迫は1年ぶりの代表活動ということもあって、日本代表チームの一員としてプレーしたいという強い気持ちを持ってくれていました。

 

そこでブレーメンと関塚隆ナショナルチームダイレクター(当時)やチーム総務が折衝し、1試合目のカメルーン戦が終わった後にクラブに戻れば、5日間待機しても次のリーグ戦に出られるということで、チームを離れる日程の折り合いが付きました。それがちょうど代表メンバーを発表したのと同時進行くらいです。

 

するとブレーメンが先にクラブのホームページで発表しました。私たちは慌てて対応するのではなく、交渉担当に確認して事実をお伝えするようにしたので、発表するのが一拍遅れた感じはあるかもしれません。

ですがお互いのチーム事情がありますので、そこで広報部が板挟みになるのは仕方がないと思っています」

 

海外の選手も消毒に協力的

(写真提供:日本サッカー協会)

 

各担当者との調整に尽力

——対戦前のカメルーンに新型コロナウイルス感染者が出るという事態も起きました。 

「カメルーンに感染者が出たときに難しかったのは、陽性反応が出たのは把握出来ましたが、それだけでは情報としては不足していたことです。チームとして濃厚接触者が何人いるのか、カメルーン代表はゲームが出来る状況にあるのかというのを確認しなければならず、そのタイミングでは何かを発信することが出来ませんでした。

 

さらに言えば、私たちが発表すべきことなのかという問題もありました。日本サッカー協会主催の試合ではありますから、最低限の情報は出さなければいけないとは思ってましたが、カメルーン代表チームの感情を度外視して勝手に進めるのは違うと思っていました。カメルーン代表が発表していないことを私たちが発表するのはおかしい、足並みを揃えたほうがいいという話が現場ではありました。

 

結局、試合の前日会見でチームドクターが『3名ほどプレー出来ない選手はいますけれども、チームとしては前に進みます。だから明日の試合は出来ます』と発信しましたので、私たちも確認出来ました。

 

ただ、日本とカメルーンは試合をやりたいと言っても、オランダ・ユトレヒトのスタジアムの人たちが『それは困ります』という話になれば、ゲームは出来なかったと思います。そういう調整も含めて、代表チームだけではなくて、協会の職員が様々なところで各担当者、関係者と情報を共有して、すべて了解を取りながら前に進んでくれたのが大きかったと思います」 

常に最悪の事態を想定

——11月のオーストリアも感染が拡大していました。 

「確かに感染は拡大していたのですが、11月に試合を開催出来る場所が限られていく中で、オーストリアで試合をするチームがたくさんあったのです。韓国とメキシコ、カタールとコスタリカなどのカードも組まれていました。

そういう意味では、スポーツビジネスに関しては大丈夫だろうと感じましたし、行政やスタジアムの試合運営側の責任者に何度も確認しながら進めていたので、開催出来るだろうという予想はありました。ただ一方で、何かあれば試合はなくなるということも常に想定していました。

 

誰か感染者が出て、それがクラスター感染に繋がる形で拡散していれば、日本だけではなくて相手チームだったとしてもゲームは出来なくなると思っていました。ロックダウンになることはないと思っていましたが、たとえばスタジアムでクラスターが発生したり、現地のサポートしてくれるスタッフが誰もいなくなるということがあれば開催出来ないと思っていました。

 

オランダやオーストリアに行けば必ず試合が出来るというではないと常に想定はしていましたし、だからこそ活動中は体調不良にならないように、あるいは感染しないように、手指の消毒であったりマスクの携行を守り、絶対に日本代表チームから感染者を出さないという思いでやってました」

 

手指の消毒をする吉田麻也選手

(写真提供:日本サッカー協会)

 

コロナ禍での選手招集の難しさ

——11月は堂安律が参加出来なくなったり、奥川雅也は合流直前にチームで感染者が出たということで招集が見送られました。

「代表チームに招集された場合、現状のFIFAのルールではクラブが出したくないというだけで派遣拒否出来ません。行政によって待機要請措置が具体的に定められているとき、初めて拒否出来ます。堂安も日本発表直後にビーレフェルト市が措置を決めたことで相手に拒否する権利が出来ましたから、仕方がありませんでした。

 

奥川の場合は情報が二転三転しました。ただ、奥川のチームメイトに陽性という診断が出ている以上、日本代表の残り23人の選手たちの安全を確保するという観点からも招集することは難しいだろうという判断がありました。奥川自体は陰性だったと聞いていましたが、チームとしては招集を見送らせてもらいました」

 

——10月のカメルーンに続き、11月はパナマにも感染者が出ました。

「そこではカメルーン戦の経験が生きました。感染したのはパナマのスタッフで、すでにオーストリアの保険局が対応しているという連絡があり、選手への感染はない、濃厚接触者もいないという話でしたので、問題はないだろうという判断がなされました」 

 

パナマ線でPKを決めた南野拓実

(写真提供:日本サッカー協会)

遠征で一番大変だったこと

——この2カ月の遠征で一番大変だったことは何でしょうか。

「私たちの業務に関して言えば、一番は9月に『メディア対応をどうするか』『どういうことをすれば日本から取材していただけるか』というのを考える時間が一番大変でした。ですが収穫があった時期でもありました。

 

そのときに代表戦に携わるスタッフがみんな参加して、いろいろなアイデアを持ち寄って話をして固めていきました。取材案内、取材の実際の進め方、時間の設定などを一つひとつ、いつもと全く違う様式を設定していくという作業は、勉強になったというか、いろんなことを学ばせてもらった機会でもありました。

 

もし新型コロナウイルスの薬が出来れば、今回考えた対策をもう取る必要はなくなるのでしょうが、それでもやる意味があった、決して今後も無駄にならない作業だったと思います。みんなで話をしていろいろなことを決め、かつそれが事故なく実現出来て、メディアの方からも普段と同じように取材していただけたというのは大きな財産、大きな経験になったと感じています」

 

——急に会見の時間が変更になったり深夜対応になったとき、スタッフが総動員されて対応している姿を見ることが出来ました。

「オーストリアでは練習場が暗かったため練習時間が変更になって、そのために会見の時間が変更になりました。それには日本にいるスタッフも全員合わせて対応したのですが、17時が19時になったり、19時が21時になったりして、メディアの方も含めてうちのスタッフは大変だったと思います。

 

また試合のときは深夜とか早朝の作業になりました。日本にいるスタッフは朝3時に起きて4時から準備だったと思います。広報部に関して言えば、私はゲームに集中して仕事をさせてもらえたのですが、それは日本にいたスタッフが頑張ってくれたおかげで、そういうメディア対応の機会がしっかりと出来たのかと思います。

 

ですから総力戦という表現が適切で、誰か1人の力ではなくて、広報部として事に当たることが出来たのではないかと感じています」

 

この経験を東京五輪につなげていきたい

(写真提供:日本サッカー協会)

 

この経験を東京五輪につなげていきたい 

——今回のことで、今後の海外遠征について自信が付いたのではないでしょうか。 

「今後もまた海外での試合があるでしょうし、またゲームが出来ればいいと思っています。ゲームが延期、中止という形になって、なくなってしまうのが一番悲しい出来事だと思いますが、試合や大会がおこなわれるなら、それに向けた準備は出来る、対コロナということであれば対処出来るという経験は積みました。

 

新型コロナウイルスに関して、一定の成果はこの4試合で出したと思いますので、これを蓄積していきながら、ワールドカップ2次予選、最終予選、そして五輪につなげていければと思います」

 

——ともかく無事にヨーロッパで4試合を開催することが出来ました。

「日本代表に感染者が出なかったことが一番よかったと思います。1人の陽性者も出すことなく活動を終えることが出来たというのは、私たち事務方にとって一番いいことでした。

 

ただ、私たちにとっては初めての新型コロナウイルス影響下のゲームでしたが、Jリーグも、ヨーロッパ全体でも感染拡大の中で何百という試合をしています。だから各セクションで、何か起きたときどうリアクションするかという事例が出来ていました。そういう方々のサポートを受けながら前に進むことが出来たと思います。

 

もしこれが2020年3月くらいだったら、誰もノウハウがなくて、慌ててしまって結果的にゲームが出来なくなっていたかもしれません。でも、何とかゲームをやろうとヨーロッパではリーグ戦やネーションズリーグをやっていましたし、日本でも7月にJリーグが再開してずっとゲームをしてくださったおかげで、私たちもメディア対応の方法を参考にさせてもらうことが出来ました。

 

だからすべて私たちだけがやったというわけではなく、様々な方々がチャレンジしてくださった、サッカーの火を灯し続けるためにがんばっていた、その延長線上に代表戦があったと感じましたし、すべてスポーツ界の積み上げの中でやらせてもらったということを感じています。そしてこの経験がスポーツ界でより積み重なっていけば、いろいろなことに対応出来るだろうと思っています」 

 

ソーシャルディスタンス

(写真提供:日本サッカー協会)

海外遠征のいい事例に

——今回の日本代表もいい事例を積み上げましたね。

「この先、五輪も控えていますし、各スポーツの代表チームが日本に海外のチームを呼んだり、海外遠征に行くこともあると思います。その中で私たちの試合がいい事例として参考にしてもらえるのなら大変うれしいことです。

そういうことも含めて、今回の食事会場やPCR検査をしている風景を映像に収め、YouTubeの日本サッカー協会公式チャンネルで発信させてもらってます。それも見ていただければ幸いです」

 

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加地亮が語るサッカー人生とこれから。 現在は大阪「CAZI CAFE」勤務

ワールドカップに出場するような日本サッカー界のエリート選手は、現役を終えた後にどうやって暮らしているのか。関西には異色の道に進んだ元選手がいる。カフェで働いている加地亮だ。

出場機会を求めてJ2リーグに移籍し、やっとJ1リーグに戻ってきても出場機会が少なかったころに代表選出。そこからワールドカップに出場し、キャリアの最後はアメリカとJ2リーグでプレーした。波瀾万丈なサッカー人生と、妻とともに働く現状について、飾ることなく語ってもらった。

 

加地亮さんインタビュー

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加地亮が初めて日本代表に選ばれた当時の心境を語る

僕が初めて日本代表に入ったのは2003年の後半ですね。ナビスコカップの準決勝と日本代表の日程が重なってて、他の選手が出場できなかったからだと思うんですよ。でも、それで僕って、意外でしたね(笑)。最初は「え? 僕でいいの?」みたいな感じです。たぶん他のチームのJリーガーからも「え?」みたいな感じやったと思うんです。サプライズ的な。

 

1998年にJ1のセレッソ大阪に入って、2000年からJ2の大分トリニータに期限付移籍して、そこから2002年にJ1のFC東京に来て、という経歴でしたから、まさかという感じですよ。しかも東京の1年目は出たり出なかったりで、2年目も徳永悠平が強化指定で来て、またいつも出場するというわけじゃなかったですから、それでよく選ばれたなという感じがしましたね。

 

1999年ワールドユースではメンバーに選ばれて準優勝はしてるんですけど、ユースと代表は完全に別物ですからね。他のワールドユースのメンバーは順調に成長して代表に入って、順風満帆じゃないですか。でも僕はJ2に行ってJ1に来て、J1でも常には出られずにいたら日本代表に入ったという。

J2にいたときはみんなと同じレベルにはなってなかったですからね。それに大分では試合に出てましたけど、その前のセレッソのときから、ワールドユースの他のメンバーとは同じ立ち位置じゃなかったです。

 

小野伸二、高原直泰、遠藤保仁とか、全然そういうレベルじゃなかったから、自分はずっと下だと思ってたんです。「ゴールデンエイジ」と言われてる人たちは別格だから、自分はもっと頑張らないと無理だなと。だから僕の場合はワールドユースの後、代表に入るまで3年もかかってますよ。3年間プロ生活してたら、そこで契約切られる可能性もありますからね。

日本代表の大変さ

代表選手ってホント大変だなって、入ってみてよくわかったというか。重圧もありますし、責任もありますし。Jリーグに帰ってきたら「日本代表」って言われるじゃないですか。だから下手なプレーってできないし、パフォーマンスも常に高いレベルを安定して求められるんで。

代表にいるときってメディアの人から何か質問されるのって、あんまり好きじゃなかったです。答える責任もあると感じてたし。だから回答を拒否したことはなかったですね。メディアの人と選手を分けている柵の遠くを通って、質問されないようにシレっと帰っていくというのはありましたけど(笑)。

 

ジーコ監督からは、どうプレーしろとあまり言われなかったんですよ。「自分のよさを出せ」ということだけで。ジーコのお兄さんのエドゥコーチはすごく細かく言ってましたけどね。

言われてたのは攻撃のことでしたね。クロスのことだったりパスのことだったり。僕はサイドバックだったのに守備のことじゃないんですよ。ブラジル人だからやっぱり攻撃のことなんです。クロスについては、「クロスじゃなくてパスだと思って上げたほうがいいよ」とか。エドゥコーチもサイドバックだったから、そういうのもあって細かく教えてくれたんだと思います。

 

不安定な時期を過ごしたことも

不安定な時期を過ごしたことも

呼ばれたタイミングもよかったし、周りの助けてもらってたコーチとかも良かったから、たぶんうまく事が運んだというか。ただ代表に来たとき、メディアの人からは「大丈夫?」って思われてた感じだったと思うんですよ。自分自身も「やってやる」というより、自分のことで精一杯で、必死で、とりあえずいいところを出そうという感じしかなかったですね。

周りの選手たちはメジャーだし経験もあるし、Jリーグでも海外でも活躍してる選手ばっかりやったから、その中でどうやっていくかって思ってました。山田暢久さんがいて僕はずっとサブだったんですが、いつの間にか、気付いたら自分がスタメンになってたんです。

 

でも、じゃあそれから代表で順調やったというわけじゃなくて、パフォーマンスが安定しなくて。チームと代表のどっちでも不安定な時期を過ごしましたよ。自分としては全然納得いかなかったし、そもそも納得できた試合というのは全然なかったですね。

ただ、それがよかったのかもしれないですね。ずっと「また日本代表に呼んでもらえた」という気持ちでいられたから。「自分はまだまだやらなければ」という気持ちでいられたんで、それがなかったらたぶんすぐ呼ばれなくなってましたね。

加地亮が語る2006年 ドイツワールドカップ

それで2006年ドイツワールドカップのメンバーに入ったんですけど、本大会前のトレーニングマッチでドイツとやって。それまですごく順調に仕上がってたんですよ。本大会でもいいプレーできるんじゃないかと思ってたし。

でもそのゲームでバスティアン・シュバインシュタイガーから削られて。まさかそこでケガすると思わなかったですね。たぶん日本に押し込まれてイライラしてたんでしょうね。あれが向こうの人の傾向なんですよね。日本じゃそんなに削らないじゃないですか。大会前にケガさせちゃいけないという判断もあるだろうし。

初戦 オーストラリア戦

そこでケガしてしまったんで、初戦のオーストラリア戦には間に合わなかったんです。それでベンチから見てたんですけど、26分に先制点取って「おお、これはいける」みたいな感じはありました。ところが後半、日本代表はすっかり疲れてて。

相手のオーストラリア人ってガタイも高さもスピードもあるじゃないですか。それに耐えられなかったですね。試合会場だったカイザースラウテルンはカラっとしてて湿気がないんですけど、日差しが強かったのはすごい覚えてます。

それで日本は体力的にガクッと落ちたというのがあったし、1点取って勝ってるというのもあって、精神的にちょっと守りに入ってるというのが分かりましたね。ワールドカップの緊張感も、大会前に田中誠さんがケガで帰ってスタメンも変わったという緊張感もあったんでしょうね。

そんな中に高さと強さとキープ力とがあるティム・ケーヒルが交代出場で入ってきて、2点取られて逆転されて、さらに終了間際にジョン・アロイージに最後のトドメを刺されたという感じの1-3の敗戦でしたね。

2戦目 クロアチア戦

次のクロアチア戦では、僕がシュートを打ったんですよ。クロスじゃなくてシュートです。そのボールがたまたまヤナギ(柳沢敦)さんのところに行って、ヤナギさんがとっさのことに反応できなかったら、そのあとヤナギさんがすごく叩かれて。

あれ、ヤナギさんがかわいそうでした。もし僕のシュートが入っていれば、その後がいろいろ変わったんでしょうけどね。

3戦目 ブラジル戦

それで3戦目のブラジル戦を迎えるんですけど、そのとき、2点差以上付けてブラジルに勝てば決勝トーナメントに進出できる可能性は残ってたんです。すると34分に玉田圭司が先制点を決めたんですよ。ゴールを挙げたことで少しだけ光は見えました。

ところが日本が1点決めたことで逆にブラジルに火を付けちゃって、よけいに相手の強さが出てきましたね。81分までに1-4と大差をつけられて。ブラジルは代表引退するっていうベテランのGKを交代出場させたりして、お祭りでしたよ。

 

ドイツW杯を振り返る

ドイツワールドカップを振り返る

ドイツ大会は日本にとって難しいワールカップになりました。すぐ終わった大会でした。なんででしょうね。日本代表は名前や経歴、実績はすごい人ばっかり揃ってました。でも、「個」が強すぎましたね。

技術的な「個」も強いけど、内面的な「個」も強くて、おのおのサッカー観というのもあって、チームとしてまとまりきれなかったというか。チーム作りってホントに難しいですね。いい選手がいてもチームとしてまとまらなかったら、勝てないですから。

それに日本の敗退は1戦目でもう決まってたんじゃないかなって。あそこで逆転されたっていうことで、もう流れとしてワールドカップが終わったかもしれないって感じがしました。オーストラリア戦で最低でも引き分けられれば良かったんですけどね。

 

初戦が大事だと分かってましたけど、あれを引き分けに持っていけなかったというのが痛かったかなって。ダメ押し点を取られてさらに痛い、なかなか立ち直れないっていう負け方で、あとの2戦が余計に難しくなりましたね。

あのワールドカップの思い出は辛いですし、2年間苦しいワールドカップ予選を戦ってきて、それであの10日間で本大会が終わって、何か儚(はかな)いなって。自分の中で「もっとやれば」「遠慮しすぎた」「もっとできた」っていう後悔がありましたね。サッカーで後悔したのは初めてです。

ワールドカップを終えてから、どう乗り越えたか

それをどうやって乗り越えたかというと……うーん、そのあと代表って続くじゃないですか。新しくイビチャ・オシム監督が就任して、また招集されて、でも自分の中で切り替えがなかなかできなかったですね。

代表には行くんですけど、何か「もう終わった」というか、燃え尽き症候群じゃないですけど、次に切り替えられなかったですね。ドイツワールドカップの後、何とか2年ぐらいはやりましたけど、その中でイマイチ自分のパフォーマンスも上がってこないというか、何とかやってるという感じだったんですよ。

 

それで岡田武史監督に代わったあとに代表を辞退したんです。その時期だったのは、ワールドカップの予選が始まる前に、ということで、ちょうどいいタイミングだと思って。オシム監督や岡田監督には申し訳なかったですけど。

そうしたら、僕と岡田監督とに何かあったとか、ウッチー(内田篤人)が出てきたので、代表引退に追いやられたという記事も出て。そっちのほうが記事的にはおもしろいですからね(笑)。 

代表を辞退し、クラブチームに専念 

そこからガンバ大阪だけに絞れたのがよかったかもしれないです。一つのことに集中できるという気持になれれたから、それで選手寿命が延びたかもしれないなって。

2014年、ガンバとの契約が終わって、そのころに考えてたのは「35歳になってサッカー人生も終わりも近づいてきたけど、ありきたりな人生はイヤやな」ということでしたね。頑張って40歳近くまでプレーするというキャリアが浮かんだんですけど、それはちょっとイヤやなって。

だから、アメリカのチーヴァスというチームに行ってプレーすることにしたんです。サッカー選手やったら海外も行けるチャンスがあるし、語学も勉強できたらいいなって。あっちで家族も一緒に住めたらいいなっていう夢があったのも確かですね。

 

アメリカでの思い出

アメリカでの思い出

それでアメリカに行ったら、これがまた苦労しました。半年でクラブがなくなったんですよ。入った当初は社長が「いい時期に入ってきたね」「来年スポンサーがつくから」って言ってたんです。

ところがスポンサーがついたはいいけど、そのスポンサーは「新しいチームを作る」っていう方針で、今在籍してる選手とスタッフは全員解雇して、本拠地も変えて新しいスタジアム建てて、そこにイチから作り直すと言うんですよ。

 

「えぇ? 話が違う!」と、まぁホントとんでもない目に遭いました。もう35歳で次雇ってくれるとこなんてアメリカじゃなくて。ドラフト制度があったんですけど、そこにもかからなかったんで。そもそもサイドバックで36歳になろうとする選手はなかなか取らないんで、自分でも、もうアメリカで次のチームはないって分かってましたけどね。

アメリカから帰ってきたときに引退を考えていた

そのときは「仕方ない」って引退しようと思ってました。で、ちょうど妻と家の近くの神社に散歩がてら行って、お参りしたときに言ったんですよ。「引退するわ」って。

そうしたら妻の顔がちょっと違ったんですよ。僕の見間違いだったかもしれないんですけど。でも僕には「もうちょっとやってほしい」「もうちょっと頑張ってほしい」みたいな感じに見えて。

妻は言葉では「いいんじゃない」と言ってたんですけど、なんかそういう感じじゃない顔をしてたから、ちょっと考えて踏みとどまって、もう一回頑張ってみようかってことで。

 

その当時の岡山の監督が長澤徹さんで、僕がFC東京のときにコーチとしてお世話になってた人だったんで。

それが2015年の1月に入ってたかどうかというころで、もうチーム構成が終わってて、岩政大樹が入ってそれでオッケーだったのに、「来てくれるんだったらほしい」って言ってもらったんです。

 

そこから岡山には3年いましたね。あっという間でした。J2の違う空気感で、若い選手とか伸び盛りの選手の中に最年長で入って。それがまた新鮮で「サッカーしてるな」っていう気持ちでしたね。純粋にサッカーしてる、サッカーを楽しんでいるという感覚になれたから3年間できたかなと思いますね。

「J1昇格」というしっかりした目標もあって、2年目の2016年には昇格プレーオフまで行って、このチームはさらなるステップアップができそうというのもあって、それでいつの間にか3年間プレーしてました。

 

加地亮がサッカー人生を振り返る

加地亮がサッカー人生を振り返る

自分のサッカー人生を振り返ると、一番の修羅場というのは2000年にセレッソから大分に行った20歳のときかもしれないですね。プロ選手生活が終わるかもしれない瀬戸際に立ってると考えてましたからね。

当時の大分は練習環境が良くなかったですけど、その厳しい中でやれたのは自分のハングリーさにもなったし、石崎信弘監督という厳しい人から指導されたのも若い僕にとってはよかったですね。ここで試合に出られなかったらプロ生活終わりだという覚悟で行って、メンタル的にも鍛えることができたし。

 

ただ僕は行くところ全部、当たりました。行くところ全てで、ずっといい人に巡り会いましたからね。監督や環境もそうですし、試合出るとかどうか以上に、いいチームに巡り会えたというのがあります。だから僕の現役時代は幸せなサッカー人生でした。 

加地亮の「やりたいこと」

自分のやりたいこと……って、現役終わった後の人生もそうだし、現役時代もそうなんですけど、基本的には一緒なんですよ。目標って特にないんです。一日をしっかり過ごせばその先に何かあるというのが僕の考え方で。

今はカフェをやってるんですけど、妻の店なんです。僕は本当にサポートで。ひたすら皿を洗って、ホールでお客さんの接客をするという役ですね。素晴らしい仕事ですよ。それをどれだけ正確にできるかです。

 

作ったのって2011年なんで、僕が30歳ぐらいですかね。引退して、このカフェがあってよかったと感じてます。経営し始めた当初は妻もそうでしたけど、メッチャ大変でしたけどね。

来たお客さんに自分の経験を話して来客を増やすというパターンは考えてないですね。そういう枠組みを考えると何か変かなって。来てもらったお客さんと話はするんですよ。サポーターの人やサッカー好きな人とも。その中で話をすればいいんじゃないって。全然決めてないというか、人生も先を決めてないです。

 

今までの人生、40年ぐらいですけど、一生懸命やってたら先があったんですよ。逆に言うと必死に生きてないと先がないんですよね。その日一日をどうやっていい日にするか、どう過ごすかを考えながら生きていくと先は自ずと見えてくる、という感じです。アバウトな感じで先を考えることはあるんですけど、絶対にこうするというのはないです。これ、答えになってますかね?

 

これって自分の性格なものかもしれないし、母親の影響かもしれないですね。母は1人で男三兄弟を育ててくれて。働きづめで頑張ってる母親の姿を見てたからかもしれないですね。僕はね、普通が一番なんですよ。目立ちすぎず、平々凡々と日々を過ごしていたいというタイプなんです。

 

大阪府箕面市「CAZI CAFE」

 

加地亮プロフィール

(撮影:神山陽平/Backdrop)

加地 亮(かじ あきら)

1980年1月13日、兵庫県生まれ。滝川第二高校からセレッソ大阪に入団し、大分トリニータへの期限付移籍を経てFC東京へ。2006年に移籍したガンバ大阪で8年半プレーした後はチーヴァス(アメリカ)で半年、ファジアーノ岡山で3年活躍して現役を引退した。1999年ナイジェリアで開催されたワールドユースでは準優勝に輝き、2006年ドイツワールドカップでも2試合に出場した。